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異世界派遣社員の憂鬱  作者: よぞら
星の章
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時計

「長身が短針を追い抜いて~。くるくる回る~くるくる回る~」


 夕弦は与えられた部屋のベットに寝ころび懐中時計を揺らしながら睡魔の訪れを心待ちにしている。何も考えず、何もせずに眠ってしまいたいからだ。しかしながら事あるごとに気絶してその都度、仮眠と呼ぶには多すぎる睡眠時間を摂っているため眠気は欠片も存在しない。

 そしてタイ語のようなアラビア語の様なグネグネとした文字の刻まれた時計に泣きたくなった。

 存在する世界が違うのだから言語も文字も異なることは当然だ。せめてもの救いは転移時に贈られる付与にてR-0009の世界で標準となる3種類の言語の常用会話の読み書き発音機能が自動インストールされることである。

 人間からコンピューターになった記憶はないがいくつかの機能がアプリをダウンロードするかのように追加されているらしい。非常に便利だが認めたくない。そして怖くて追加された機能を確認することができずにいる。自ら確認せずともここにいるだけで見たことのない装置の使用方法を理解していたり馴染みのない言語が読めたりするのだから精神力は削られる一方であった。

 仰向けの状態からごろりと寝返りをして花色のクッションへ顔を埋めた。呼吸をするとフルーティだが甘ったるくはなく上品な香りが鼻腔を擽る。

 妻がよく使用していた良い香りの柔軟剤を思い出す。思い出して涙が滲む。


≪夕弦、もう昼過ぎですよ、御寝坊さん。≫


 昼も夜もない宇宙空間で昼過ぎもへったくれもない。夕弦は涙の流れた鼻をすすると目の前に現れた白い鳥もといレイを無視して布団を頭からかぶった。


「羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹……。」


 人は何故、眠れない時に羊を数えるのか。

 そもそもこの説は英語圏が発祥とされており英語で羊は“sheep”と言いやすく、睡眠の”Sleep”の発音に似ており、それで脳を睡眠モードに切り替えるため『one sheep , two sheep …』と数えることが『sleep , sleep , sleep …』と変換されて自己暗示の効果があるという説があるからだ。

 とどのつまり日本語で羊を数えるのはまったく無意味どころか言いづらさから脳が冴えてしまい逆効果となる。そんな蘊蓄は多くの日本人は知ることなく眠る為に逆効果となる羊を数えるのだ。


≪夕弦、10刻までは食堂が開いてますからたまには食事くらいしてくださいね。≫


 ぼぞぼそと羊を数える夕弦にそう言い残すとレイは羽ばたいて退出していった。

 この世界での時間の単位は刻。

 1日は12刻であり地球時間で換算すると1刻の長さは約3時間。つまり1日36時間だ。24時間周期で生活していた地球の人間からすると地味に長いが現地の人からすれば一日の長さなどさ気にも留めないことだろう。

 6時起床の8時から17時勤務の会社員で例えると3刻頃に起床して4刻頃から業務開始。5刻頃がデパートが開く時間で6刻頃に昼食。8刻半頃に業務が終了し9刻頃に日が暮れて9刻半頃に夕食を食べ自分の時間を楽しみ11刻頃から日付の変わる12刻頃就寝というのがR-0009の時間帯だ。

 国や地域によって午睡の時間があったり食事も一日2食から5食までと多々あることを補足しておく。

 食堂が閉まる時間は地球時間に換算すると20時頃の時間帯である。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。」


 ここにきて教えられた時の流れを反復しながら、夕弦は肺の限界を試すような長い長い溜息を吐き出す。


「家に帰りたい。」


 無意識に呟いて自嘲を漏らす。

 地球に戻った所で帰りたい環境の家など存在しないのだ。親も後期高齢者の部類となって数年が経つが田舎に帰って細々と暮らすことも出来るかもしれない。

 冬には大雪が降り、電車やバズなど1時間に1本あるかないかの過疎化した寂れた田舎。そこで雨にも負けず風にも負けず自分たちが食べて少し余るくらいの田畑の作業をして内職を掛け持つ事で生活が成り立つ場所だ。

 何もない所だが静かに余生を過ごすには丁度いい場所である。

 豊かな自然とゆっくりと流れる時間がささくれた心を癒してくれるだろう。


「戻っても奥さんに逃げられた息子なんて父さんが敷居を跨がせてくれないか。」


 現実は世知辛いものだ。昔気質の厳格な父は古臭くも良い意味で厳しい。多少頑固であるが黙って俺についてこいというドンと構えた男らしい姿勢は頼りになる。それでいてきちんと愛情を態度と言葉で注ぐのだ。だから母は父の後ろを一歩下がった距離に控えて尊重しついていくのだろう。

 夕弦には真似できなかった威厳のある夫であり父であった。三下り半を叩きつけられた情けない息子を許してはくれないはずだ。


「そもそも、帰れないんだけどね。」


 夕弦は布団から頭を出して円形の窓から外を見る。

 ブルーハワイのような鮮やかな色の海の先に広がる宇宙。景観としては幻想的で素晴らしいが受け入れる気にならない。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。」


 再び肺の中の空気が空になる程深い溜息を吐くと内臓が刺激されたのかぐうっと腹の虫が鳴った。

 どうやら夕弦の精神は自身が自覚しているよりも強靭らしい。人間どんなときでも腹は減るというが本当に辛いときは空腹など感じることが出来ない。

 現にこの世界に来てから夕弦は部屋に備え付けられた水しか摂取していなかった。1ヶ月以上も食事を摂らないなど正気の沙汰でないがこれも転移時に与えられた機能の一つだ。

 エネルギー摂取最小限及び栄養変換機能、つまり食事の量が極端に少なくて済む上に何を食べても栄養に変換する能力だ。空腹を感じたら石でも砂でもゴミであろうとも食べれば栄養になるとのこと。

 髪の毛一本で1ヶ月生き延びることが可能と言われる黒い節足動物に匹敵する程強かである。

 高望みするわけではないが人間らしい食事をしたい。元々、人間は雑食だが雑食の幅が広すぎて人間として成立していない機能など侘しいだけだ。

 腹の虫に従い夕弦は重い腰を上げると食堂へと行った。悲しいかな、この施設の構図はこの地に降り立った瞬間に備わっている為に迷うことがない。

 初めて訪れた食堂は白を基調としたレイアウトで清潔感が漂う。勝手がわからずにうろうろしていると一人用のテーブルが目につき流線型の椅子に座った。

 席に着いて自動的に表示された空中ディスプレイに見慣れた日本食のメニューが広がる。


「唐揚げ定食!!」


 メニュー表に自身の好物があり、迷わす注文すると数分で料理が届いた。全て自動化されており無駄を省いた丸みを帯びたフォルムの機械人形が配膳する。

 ホカホカのご飯に熱々の唐揚げ。根菜の味噌汁にお新香まで揃っていた。


「いただきます。」


 何故、地球の日本料理があるのかなどという些細な考えは捨てて唐揚げにレモンを絞るとかぶりついた。唐揚げはレモンをかける派とかけない派で喧嘩が勃発するほど分かれるが夕弦は断然かける派だ。

 唐揚げの油をレモンの酸味がさっぱりと中和してくれる味が好きなのだ。しかし酢豚の中のパイナップルはI'll be backせずに溶鉱炉で永遠に滅んでほしい。

 じわりと染み出る肉汁が舌に広がる。久しぶりの馴染んだ料理の味に感動しながら咀嚼して飲み込むと、味噌汁を啜った。

 出汁が効いた少し濃い目の味付けに故郷の母を思い出して涙が滲む。


≪この食堂は転移者の為に地球各国の料理を再現したメニューですが泣くほど美味しいですか。≫

「ぶふぉあっ」


 いつの間にいたのこ白い鳥の言葉に夕弦は味噌汁を盛大に吹き出した。


≪驚かせてすいません。涙が出るほど美味しいのかと。≫

「こほっ、けほっ……味噌汁がしょっぱいだけです。」


 いい歳をして涙を見られた気恥ずかしさから、夕弦は咳き込みながら定番の言い訳をするのだった。

◆刻…R-0009での時間の単位。1日12刻。地球時間で換算すると1刻は約3時間。

◆海…衛星ミラにあるブルーハワイ色の海。


いつ何時でも腹は減り、唐揚げは正義!

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