第八十九話
『砕けるな。まだ終わっちゃいない。お前はまだ戦えるはずだ』
地面に転がったままでいると、そんな声が何処からともなく聞こえてきた。
うるさいなぁ。今あいつをどうやってボコボコにするか考えているんだ。ちょっと黙っててくれ。
心の中で謎の声を黙らせる。
とにかくこんな状態で地面に倒れているわけもいかないし、とんでもなく怠い身体を無理やり起こした。
周囲をチラリと眺めてみると、俺から溢れだした血でずぶずぶになっている。漂う鉄のにおいが俺の鼻を刺激した。
これが自分の身体から出たものだと考えると、それだけで意欲が削がれる。
しかし俺が戦わないわけにもいかない。
心に響いてきた謎の声よりもさらに小さく聞こえる蝗魔王の言葉と足音。霞む視界には頼れず、そんな僅かな情報に任せて身体を傾けた。
『我を使え!』
着々と近づいてくる蝗魔王の足音に少しの恐怖と激烈な殺意を向けていると、不意に今までにないくらい脳の奥まで響く声があった。
その声が俺の頭を揺らし、さらに身体の奥まで到達したとき、唐突に全ての感覚がクリアになった。
さっきまで霞がかっていた目は一点の曇りもなくなり、周囲全ての音があやふやになっていた耳は正確に振動を捉え始める。
足には地面を叩く感覚。鼻が火薬の臭いを確かに感じ取っていた。
「……、良いかチャンクー。この言葉は絶対に忘れるんじゃないぞ。選択を迫られたとき、この言葉を覚えていれば深い眠りではなく神域に入れる可能性が出てくる。もし上手く入り込めたら、ディムという男を頼れ。奴は何故か神域にいる者ならば魔王でも化生でも関係なく力を貸してくれる。お前は恐らく神域に入り込んでも悪神に襲われるだろうから、必ず彼を頼るんだぞ、わかったな」
そんな蝗魔王の声が引き金となって、現状を正確に脳で処理することが出来るようになった。
それとともに、心に響いていた謎の声が明確に聞こえるようになる。
それは俺の心臓にまで浸透する美しい声。粗野な口調だが、声音のどこかに気品を感じた。
「『Publiez-le. Épée blanche』」
「お前と別れるのは名残惜しいしもっと教えたいこともあるが……なんだと?」
「悪いな蝗魔王ワン、お別れはもう少し先だ。第二ラウンドを始めるぞ」
先程までドクドクと流れ出していた血が止まっている。
クリアになった目でよくよく見てみると、俺の腹には貫通こそしていないが、およそ拳で殴ったとは思えない大穴が空いていた。
それを今は白の剣の魔法によって無理やり塞いでいる状態である。しかし白の剣の部位欠損補修は不可視の光によって成されるものであり、はたから見たら腹に巨大な穴が開いたグロテスクな鉄人形だろう。
本来ならば死んでいてもおかしくないほど血が流れ出たはずなのに、何故か足取りは軽い。絶好調なくらいだ。
白の剣の魔法は本当に強い。どれだけ攻撃を受けようとも、どれだけ四肢が捥がれようとも力の許す限り戦い続けることができる。
「クソッたれ、アララーがお前を認めたか。お前はまだ戦えると、戦うべきだと、奴にそう思わせたわけだ。それは、俺でさえ成しえなかった偉業中の偉業よ」
この剣、アララーと言うのか。以前に聞いたことがある気がするが、どうにも思い出せない。たしかフランスの何かだった気がする。
と、それより、今は奴を殺すことだけ考えろ。せっかくアララーが力を貸してくれているのだ。この剣の性能ならば、蝗魔王にそう大きな後れを取ることはないはず。
俺は銀槍に装備した白の剣を前に突き出し、右手に握る黒の剣を短く身体に引き寄せて構える。
例え白の剣で即座に補修できるとしても、それで攻撃を喰らっていいわけにはならない。蝗魔王の拳は一撃で俺を絶命させられる可能性も高いし、白の剣が死すらも超えられるのかは分からないのだ。
だからこそ奴の攻撃に絶対対応できる構えを取る。
先程の詠唱。あれは白の剣に内包された魔法を解放させるものだが、あくまでも防御力の向上と回復の付与だけであって、俺の動きは何も変わっていない。
そのため奴の素早い攻撃にも俺の素の身体能力で対応しなければならないのだ。
蝗魔王は先ほど同様刀を正眼に構え、両足を横軸に、両拳を縦軸にそれぞれ配置している。
あれは奴が最も得意とする構え。それを掻い潜ってこの短い剣を叩き込むのは、そう容易なことではない。
「アララーめ、何考えていやがる。こいつよりも今は俺だろ。チャンクー、悪いが俺も何の意味もなくやられてやるわけにはいかない。本気で行かせてもらうぞ!」
瞬間、奴は今までにない行動に出た。なんと、それまで待ちの姿勢を決め込んでいた蝗魔王が、自ら攻勢に出たのだ。
巧みな足の動き。まさに昆虫的な速度で最高速に至った蝗魔王は一瞬で俺の元まで辿り着き、その凶刃を振るう。
もはや不可視とも言える速度の斬撃は、しかし銀槍によって加速された白の剣によって完璧に防がれた。
正直めちゃくちゃ怖い。奴の斬撃一つで俺は死ねるのだと思うと、それだけで足が震えだすほどに怖いのだ。
何せ俺は一度蝗魔王の拳で死にかけている。その経験が、奴と対峙する以前の自信を覆してしまっていた。
死ぬのが怖い。あの攻撃によって訪れる痛みが怖い。
俺が死んだことによってアフリカがどうなるのか考えるだけで怖い。
たった一撃であっさり殺され、それをジダオに知られるのが怖い。彼が俺の死をどう思うのか、そんなことは考えたくもない。
しかしそんなあらゆる恐怖心が、俺の反応速度を向上させた。恐怖心は奴の武器である拳や刀への注目を高め、これを回避させたのだ。
だが恐怖心が与えてくれるのがは当然良いことだけではない。
今までの俺ならば、刀という絶対的に強力な武器を防げたのならばすかさず反撃に出ていたが、今回はそうもいかなかった。
そう、それこそ恐怖心のもたらすもの。
一瞬であろうとも大きな脅威を取り除いたし、それをしっかり頭で理解しているにも関わらず、どうしてもそこに飛び込めはしなかった。
蝗魔王はこれ幸いにと弾かれた刀をその場から再度振り下ろす。
俺の恐怖心は今回も正常に働き、白の剣は間に合わずとも咄嗟にワンステップ後退することでこれを回避した。
振り下ろされた刀は俺が視認できないほどの速度が出ているにも関わらず、俺が躱した瞬間に中段で停止する。
本来なら地面まで到達し、そのまま切断していたはず。蝗魔王の高い技術力がこんなところにも伺える。
続いて二撃目。急停止した刀を最速で振りぬき追撃を仕掛けられた。横軸に揃えた足を器用に動かし一歩前進しつつ斬撃を放ってくる。
それを俺はさらに後退しながら回避した。銀槍を用いて奴の足場を制限しつつ拳が絶対に届かないリーチを保つ。
ここで刀のリーチより外に出ないのは、俺が反撃の機会を窺っているからだ。もしも刀のリーチより距離を置いてしまったのならば、当然俺の短剣など当たるはずがない。
しかし先程まで一瞬の隙を突いて反撃していたはずなのに、どうにも黒の剣を振るうタイミングがない。
そうやって何度も蝗魔王の攻撃を回避し、しかし反撃できない時間が続いていく。
だがさっきのようなヘマはしない。ちゃんと背後は確認し、壁に追い詰められてしまわないよう動きを調整するのだ。
ただそんなことをずっと続けておくわけにもいかない。こんな状況を続けていればいずれは奴の攻撃を喰らい、次こそ殺されてしまうだろう。
ならばこそどうにかして反撃しなければならないのだが、どうしても強烈な恐怖から攻撃の手を動かすことができない。
何か、何か一手必要だ。この恐怖を打ち破るための何か。俺の心を沈め、奴の命を奪い去る一手を今生み出さなければならないんだ。