第六十八話
今回は少しグロテスクな表現を含みます。苦手な方は頑張って読んでください
~SIDE ジェリアス~
訪れた衝撃によって膝をついてしまった私は、その場から立ち上がれないでいた。
衝撃によって身体のいたるところが軋んでいる。右肩だけでなく左肩も砕け、足も関節部に激痛が走っている。身体をめぐる圧力によって心臓を含むあらゆる臓器が圧迫され、今にも嘔吐してしまいそうだった。
しかしそれ以上に、メンタル面で立ち上がれないのだ。
先ほどの斬撃は間違いなく私の中で最適。あれ以上のものを出すのは不可能ではないかと思う。自分の限界点を感じていた。
軋む身体を無理やり動かし奴に視線を向ける。
私の斬撃を受けたはずの右拳には傷一つついておらず、その肉体は健常そのものだった。自分の力不足をひしひしと感じる。
足が折れようとも、腕が砕けようとも決して止まらない覚悟を決めた。そのはずだった。だが私は理解していなかったのだ、自分の体のことを。
人間は足が折れれば立ち上がれないのだ。それは当たり前のことであった。
何を勘違いしていたのか。私は人間を止めたわけではないのだ。
怪我の痛みなど今の私には関係ない。どうせ一時間後には何も感じなくなっている。
しかし根性とか気合とかで折れた足をどうにか動かすことなんて、できるわけないのだ。
心が折れる音、と言うのだろうか。骨が折れるというのは、まさにそんな感じだ。
全く動けない私に対し、技術がトドメを刺そうと拳を振り上げる。彼と私の距離は半歩もない。今すぐにも私を殺すだろう。
どこか他人事のように感じてしまう。自分が死ぬことは今まで幾度となく考えてきたが、いざ目の前にそれが訪れると、どうにも実感が湧かない。
「お主、本当に悪運の強い奴よの。今の攻撃を受けてもまだ絶命していないとはな。だがこれで終わりであるぞ」
奴から凄まじい圧力が溢れだす。それは漲る魔力がそうさせたのだろう。きっと最後の一撃は私の原型も残さず滅する。
その瞬間に私は死を実感した。先ほどまでどうにも他人事のように感じていた【死】は、あっさりと私の前にその姿を現わしたのだ。そうか、これが死と言うのか。
四つもあるうちたった一つに絞られた拳。私を確実に殺すための必殺の一撃。
それが今の私には、ゆっくり近づいてくるように見えた。
人間の脳は死の直前、自分の記憶の中からその死を回避するための手を導き出そうとして信じられないほど加速するらしい。
死を実感した瞬間私は生に対して諦めのようなものを感じていた。
にもかかわらず、折れたはずの身体は、絶対に折れないと信じていた心よりも生を諦めてはいなかった。まだ生きていたいと、私の身体はそう望んでいた。
そこに理性的な理由は存在しない。ただまだ死にたくない、それだけなのだ。
『やっと気づいたんだな。そうだ、自ら死にたいと思う人間はいない。いてはいけないんだ。たとえお前の心がそれを望もうとも、肉体は許してはくれないさ。そして、俺もお前が死ぬことを許しはしない。俺がどれだけ苦しもうとも、お前がそれを否定し続けても、俺はお前を助けて見せる』
誰かの声が聞こえた気がした。とても聞きなじみのある声。最近、誰よりも聞きたいと思っていた声。
私の胸の中に溶け込んでいくその声は、温もりとなって体中を駆け巡った。
きっとそれは、誰もが平等に受け取る温もり。生物にとって根源的で、母でもあり、父でもある。そんな温もりだった。
気づくと私は、確実にその頭部を打ち抜くはずだった拳を避けていた。軋む身体の痛みはもうない。目で見ると癒えたわけではないとわかるが、なぜか不思議と自由に動かすことができた。
戦いの中で生きてきた私は直感した。この場においてただ避けるだけというのはあまりに愚策であると。
自分の状態も理解していないうちに、私は躱した奴の腕目掛けて肘を叩き込んでいた。しっかりと地面を蹴って攻撃できることに自分のことながら驚いた。
関節を逆から打ち砕き脆くなった部分にそのまま左手で無理やり大剣を叩き込む。
途端に私が機敏に動き出したために流石の奴も反応しきることはできず、大剣の一撃によってついにその腕を一本もぎ取ることに成功した。
「な、なんじゃと!? 貴様、その体でいったいどこからそんな力が!?」
あまりの出来事に奴は大きく飛び退きながら驚嘆の言葉を漏らす。
最初は私も何が起こったのか理解できなかった。だが今は分かる。懐かしい全能感だ。それは自分の力ではないのに、まるで私が最初から持っていた才能かのように感じてしまう。
正直、二度とこんな思いはしたくなかった。だが今だけは感謝しているよ。
「私には、大切な友がいる。自分が一番苦しいのに、それでも尚私を助けることを止めない、馬鹿な男が一人。彼には私の人生を捧げてもまだ足りないほどの恩がある。私の短い命ではきっと返しきれないだろう。だが彼の期待にだけは応えて見せるさ」
絶好調な肉体、奴の腕を吹き飛ばすほどの腕力。これならまだ戦える。
彼が与えてくれた力。結局彼から何かを奪わなければ立ち上がることすらできない自分に腹が立つが、それでも力がある限り私は戦い続ける。彼に、仲間に、殉職していった同志たちにそう誓ったから。
「まさか二度も宣言を破られるとはな。人間の底力を侮っておったか。人間の力は誰よりも熟知しておるつもりじゃったが、最近の人間は強くなったの。……どうやら人間でない者の力も混じっているようじゃが」
技術。いや、天巧星。彼はやはり私が今まで相対してきた人型種とは何かが違う。人間について知りすぎている。まるで昔、自らもそうであったかのように。
天巧星。私は知らない名だが、いったい何者なんだろうか。
いや、今そんなことを考え込んでいる余裕はない。もしかしたらそこに何か突破口があるのかもしれないが、今の私ができることはただ愚直に剣を振るうこと。それだけだ。
両者の距離は2mほど。今の私たちならば、次の瞬間にも拳を打ち付けられる距離。
技術はいつもの通り低い姿勢。短刀は下側に構えている。他の拳は固く握りしめ、一撃ではなく連撃にて私を仕留めようとしているのが分かった。
お互いに目を合わせ仕掛ける瞬間を窺っている。
後手に回るのは状況を悪化させるだけだと分かってはいた。だが踏み込めない。ここで踏み込めば、確実にあの短刀に受け止められ、そこから拳を喰らうことになるだろう。だから下準備が終わるまでは一歩も踏み出さない。
私は左足を後ろに、右足で地面を強く踏みしめた状態で停止している。大剣は左腰の横。上段からの攻撃に対する奴の反応はさきに嫌と言うほど味わった。
その姿勢から私は、身体を一切動かさず視線だけを意識した。
奴は視線を意識して戦うことができる。大量の複眼を持つ彼が何処を見ているのか、私には予想することしかできない。
だが、確実にそうと思う位置に視線を合わせ続ける。
視線を動かさず1秒以上噛みあった時、ついに奴は動き出した。上半身を地面すれすれまで落とし私の視界から逃れたのだ。
しかしこれに釣られてはならない。視線の駆け引きが辛くなったから、動きによって私の行動を誘導しようとしたのだ。
だから私は奴の二手目を待つ。出し抜くならば、反射神経を無理やり追いつかせるしかない。技術力で私は絶対的に奴には敵わないのだから。
大丈夫、集中力で人間がバッタに負けることは絶対にない。
「本当に残念だ、千年前に出会っていたのなら、儂らは真の友になれた」
二手目、少しディレイを付けてから飛び込んできた奴に対し大剣を横薙ぎに振るった私の攻撃を完璧に予測し、奴は直前で大地を踏みしめ最小限の動きでこれを躱した。
明らかに見てから避けたわけではないと分かる動き。奴にとってはこの二手目までもがフェイクだったのだ。私はまたも出し抜かれた。
迫る天巧星の刀。歴戦を感じさせる技術に、凡人では決して辿り着けない武の才。生まれてまだ30年程度しか生きていない私には彼を相手するのに不十分だったようだ。
だがこの思いは、友に捧げたこの命だけは負けてはいない。奴には命を捧げる覚悟がないのだから。
「ここだぁぁ!! 私と共に死ねぃ、天巧星!!」
「なにッ!?」
迫る奴に対して私は自らその腕を差し出した。何を思ったのか私の両腕を警戒した奴は咄嗟にこれを切り飛ばした。
「馬鹿が! 肉も骨も斬らせて敵を穿つ! Þetta sverð er sverð guðs sem sker í gegnum eldfjöll. Ég er sá sem mylja óvin mannkynsins!」
切断された両腕からは大剣を既に離している。落とした大剣は私の右足に。そこから無理やり追加の魔法を引き出す。
魔力の消費速度が加速し、私の身体能力が飛躍的に向上するのを感じる。
目の前にまで接近した奴に対し渾身の蹴りを放つ。
人間で言うところの背骨部分を破壊することに成功したが、次の瞬間には右足が切断されていた。
一本だけになってしまった足で飛び上がり上段からかかと落としを食らわせる。
この攻撃は奴の脳を破壊し体液をまき散らしたが、残る腕によってねじ切られてしまった。
ほぼだるま状態のまま、今度は頭突きを放つ。
魔法によって強化された頭突きは奴の腹を粉砕し内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
しかし腹は昆虫の臓器が集中する部分。他の箇所よりも圧倒的に硬く、私の頭蓋骨が砕け脳漿をまき散らすのを感じた。
意識がない中、それでも私は止まらない。本当に人間を止めてしまったのだと思った。
脳をまき散らしても尚、奴に噛みついてついにその肉体を食い破った。その間も拳を受け続けたが、苦しいとも痛いとも感じなかった。
ただ奴を殺すことを、友との誓いを果たすことを考えていた。
「ああ、私はここで死ぬのか。だけど、私はやり遂げたよ。アッサム、今まで苦しい思いをさせてしまったね。今、君は救われるから。君は私が救うから」
身体から力が抜けていく。自分が誰なのかも分からない。脳の損傷は私の知能を致命的に破壊していた。
だけど、私の力が尽きるその瞬間まで、私は彼のことを忘れはしなかった。