第六十四話
蝗魔王。奴は初めに見たときから何も変わらない姿でその場に立っていた。
見事な筋肉を備えた四本の腕、他のバッタとは違う人間的な顔。粉砕したはずの頭部は傷一つ残っていない。
こうして顔を突き合わせ言葉を交わすのは少しぶりだが、その間奴の顔を忘れたことなど一日たりともなかった。
むしろ日を追うごとに、戦いを経験するごとに奴に対する思いは強くなっていった。
毎日どうすればこいつに勝てるのか考えていたし、そのために技を磨いてきた。
しかし強くなった今だからこそ分かる。こいつは、蝗魔王という存在は俺が想像していたものを遥かに超えていた。
融合力によって過剰に強化された五感が教えてくれる。
奴の絶対的な魔力量は俺たちの足元にも及ばない。しかしその密度、練度は果てしないものがあった。
俺が以前に感じた経験の差の一端はこれだったんだろう。ごく少量の魔力で俺の鎧をも簡単に粉砕して見せる威力を内包している。
腰に下げるは一振りの刀。武器についても詳しくなった今ならばそれの意味が分かる。
刃渡りに対して、持ち手の部分が若干長い。その数センチの分、指先の細やかな動作で幾百通りの剣術を繰り出す技量が奴にはある。
漏れ出す風格は王者のそれ。その正体がバッタであるとはとても思えない。その眼光が俺を貫くだけで、癒えたはずの傷が開いたような感覚に陥る。
これを恐怖や怯えと言うのだろうか。もしそうだとしても、俺はそれを打ち砕かなければならない。自分の命を投げ捨て勝利と夢を掴んだクラグのように。
「鎧」、その一言で全身をタングステンが包み込んでいく。
それはこの戦闘において最適な形状。関節部の動きを阻害することなく、かつ蝗魔王の攻撃に対して全方位をカバーできる。
奴の最たる武器はその圧倒的手数。俺に反撃を許さない風雨のごとき連撃。これを崩すのに、俺の手数は少なすぎる。銀槍では奴の拳を受け切れないし、ましてや刀で斬られてはおしまいだ。
だが、そこで思いついたのだ。わざわざその攻撃の相手をしてやる必要はないと。
魔法の武器『黒の剣』を扱ってようやく言葉の重要性を思い知った。
ジダオに言われるまま魔法に名前を付けていたが、あれの最大の利点は集中力のリソースを削減できることにある。
名前を付けた魔法は頭の中で再びゼロから作り直す必要がなく、高速戦闘の中でも安定して扱うことができる。
『黒の剣』の場合はさらに訓練が容易であるというおまけまで付いていた。
今回のはそれを応用し、各部位を個別に修復する魔法を用意してある。それも、一か所に付き3パターン用意した。罠も大量に仕掛けている。
蝗魔王に勝つには、少しも妥協してはならない。ただ一片の油断が、奴に勝利を掴ませてしまうのだ。刹那に満たない隙であっても勝利に変えてしまうのが、蝗魔王という男なのだ。
「ほぉ~その鎧、タングステンでできてるのか。あの魔法、しっかり使えるようになったんだなぁ、良かった良かった。前より全然硬そうじゃねーか。ぶっ壊し甲斐があるぜ」
奴の顔はかなり人間に近い。きっと町ですれ違っても奴が人間ではないと気づかないだろう。何せ奴には表情筋がある。
今は旧知の友に語りかけるかのような朗らかな笑み。しかしその目だけは闘争に燃えている。俺を圧倒する魔王の目だ。
「蝗魔王、お前たちの情報能力はよく理解している。どうせこの鎧のことも、俺の魔法のことも知っていたんだろう。分かっているさ、お前が焦ってアッサムを口封じしたからな。あんな不自然な人間はこの世に存在しない」
「……なんだよ、バレてたのか。まぁあれはやり方が下手だったな、仕方ない。……だがなんだ、お前意外と馬鹿なのか?」
なるほど、上手く騙せたらしい。
俺の言葉はつまり、蝗魔王がアッサムを攻撃したことを意味している。しかしアッサムを口封じさせたのは間違いなく魃魔王だ。
アッサムは魃魔王の眷属であり、彼女ならば本来死ぬはずのアッサムを殺さず、しかしどんな方法でも起こさないようにできる。
奴は以前、脳が複数存在すると言った。それは非常に驚異的で、恐ろしい能力である。奴の脳を破壊したのに死ななかった時には、果てしない絶望感を感じた。
しかし冷静に考え直したのだ。果たしてそれは個別に動かすことができるのかと。もし個別に動かすことができるのなら、今の俺の発言に対して待ったを掛けることができたはずである。
つまり何が言いたいかと言うと、複数ある脳は別の思考ができるかということである。
しかし奴は素直に俺の言葉を受け止めて反応を返した。そこで別の脳が、これは何らかのひっかけではないか、という思考をしなかったのだ。
俺の深読みかもしれないが、奴は複数の脳で代替ができるだけであって、そこに異なる複数の思考は存在しないということである。
たった数度の会話で、俺は少しだけ精神的余裕を手に入れた。この戦いに妥協は存在しない。ほんの少しであっても状況有利を稼いでいくのだ。
「なんだお前、変な顔しやがって。何か面白いことでもあったか?」
「いいや、何でもないさ。しかしそんなに余裕ぶっこいてて良いのか? お前の情報力ならもう聴いているんだろ。ここが今どういう状況なのか分かっていない訳ではないはずだ」
「ほう、それで俺にダメージを与えられる自信があるのか? 試してみるといい。何しろ俺自身もその威力に興味がある」
何処までも自分の力を信じて疑わない奴だ。以前までとは俺の魔法の威力が桁違いに強化されていると知っているはずなのに。
だが油断してくれているのなら好都合。奴が本気になる前にやり切れればそれが一番いい。
「ならその身で受け止めて見せろ。酸素断絶結界・終!!」
右手を軽く突き出し硬く握りしめる。これも言葉と同じようにイメージを固定化する方法の一つだ。こうすることで酸素断絶結界の収縮範囲や速度を微調整することができる。
酸素断絶結界は一瞬にしてその範囲内にいた全てを焼き尽くし俺がいる地点に集約された。
酸欠や気温上昇で絶命しなかった上位人型種や大型種、破壊種までもが軒並み死に絶え、その身を炭素に変えていく。
酸素断絶結界を構成している炎の円は一切妥協なしの極大化力。どんな物質も気体に変える絶対の熱量を持っている。融合力で強化したタングステンか、俺自身の肉体以外はこれに触れて無事では済まない。
「あちーあちー、なるほどな。熱なんて久しぶりに感じたぜ。確かに聴いていたよりも圧倒的に火力が高い。しかし俺をやり切ることは出来なかったなぁ。キハハ! おめぇ、俺に情報が行くことを読んで、ウガンダの戦いでは出し惜しみしてたな?」
酸素を大量に含んだ蒼い炎が晴れると、そこには全身火傷まみれの蝗魔王がいた。確かにダメージは通っている。この魔法は十分奴に通用する。
しかしその口ぶりが、その飄々とした態度が、俺を不安にする。
もしかしたら外面だけで、本当は効いていないのかもしれない。もしかしたら奴はもうこの魔法に対する耐性を獲得しているのかもしれない。そういった思考がどうしても浮かんできてしまうのだ。
「っかし俺も調子こいてるとホントに大目玉喰らうかもしれねぇ。ここからは本気で行かしてもらう……ぜ!」
俺の目は確かに奴の動きを捉えた。その足が大地を踏みしめるのを、その手が宙を切って攻撃の構えを取るのを。
しかしその攻撃を躱しきることができなかった。反射的に足が動いてしまった。それではダメだと分かっていたから防御力を強化したのに!
後ろに半歩引いてカウンターを叩き込もうとした俺の拳を蝗魔王は易々受け止め、残る三の手で連撃を放ってきた。
全てが同時ではなく、少しずつタイミングと深さをずらして。
最初は右上の拳が顔面に飛んできた。これはしかし俺の鎧を突破することはできない。甘んじて受け止めた。脳が大きく揺さぶられるが、気合で耐えきって次の拳を凝視する。
最初の一撃で俺に距離を取られては連撃が続かないため、これは腕が伸び切る寸前の拳。威力は弱い。
本命は次の二手目以降だ。
腹をえぐるように振り上げられた拳は俺を持ち上げ、たったそれだけで踏ん張りを効かなくした。
最後の三手目は大きく振りかぶって顔面。これをもろに受けた俺は大きく吹き飛び、今度は地面に転がった。
「なるほどなるほど。頭部の鎧はかなり硬めに作っているようだな。俺の拳を二発受け止めて無事とは。それに対して腹部はどうだ? たった一撃で崩壊寸前じゃないか。今の連撃を受けて鎧が外れないところを見ると、関節部も頑丈に作っているようだな。しかしその分面で受ける部分が弱い」
地面からゆっくりと起き上がり息を整える。
今の攻防、奴に悟られずにやり切れただろうか? 経験豊富な奴を、こんな小手先の小技で出し抜けるだろうか。今は作戦通りにやり切るしかない。