第百十二話
焦る、この状況は。周囲から轟く足音が、伝わる緊張感が、そしてひしめく悪鬼羅刹の魔力が、それまで平静を貫いてきた俺を焦らせるのだ。
今まで優勢だったのは、蚩尤レプリカが単独で勝負を仕掛けてきたからに他ならない。しかし、奴の本分は軍団の指揮。その力を解放すれば、どのような戦いになるのかなど想像もできないだろう。
それと、やはり蚩尤から発せられたこの霧が厄介だ。
もちろん視線は通らない。アイコンタクトなど出来ようはずもなく、味方が今どのように動いているのかも把握できない。
さらに凶悪なことに、この霧はどういうわけか電子機器の通信や磁場を妨害する。
通信機で意志疎通を取ろうにも、霧の中心地ではノイズがひどすぎて使い物にならないのだ。今も、腰に下げた端末からは雑音が響いている。
スパンッ、と、どこからか発煙筒を上げる音が聞こえた。アナログな情報伝達も必要だろうと思って持たせたものだが、この霧の中では何色なのか分からない。
ただひとつわかったことは、俺たちから相当距離が離れているだろうことだけ。俺の聴覚を信じるのなら、すぐには援護を期待できない距離に味方はいる。
いったいこの悪鬼羅刹どもは、どうやって精強なロシア兵を撒いてきたのだろうか。この霧が野原全体に届いているはずはあるまい。車両の移動によって、全て撒き散らされるはずだ。
まさか、己の身体能力と逃走術だけで彼らを振り切ったのだろうか。
いや、それはありえない。ドラコイェストを筆頭とし、ドライブバイの得意なメンツを揃えている。彼らの身体強化では、現代の魔法銃を受けて無事でいられるはずはないのだ。
しかし、事実彼らはここにいる。そして困ったことに、連中を退けるのならば俺が大魔法を使う他ないのだ。
だが、もし近場に味方がいたら? または、悪鬼羅刹を追ってこちらに向かってきていたら?
俺の魔法はどれも広範囲におよび、かつ威力が高い。特に、ガソリンで走るような現行の車両には致命的な打撃となる魔法ばかりだ。もしも味方が巻き込まれてしまえば、それこそ大惨事になるだろう。たとえ悪鬼羅刹を駆逐できたとしても、人類も一緒に殺してしまっては元も子もない。
どうにか、周囲の味方と連携を取れないものか。単純に銃を放って位置を共有し合うというのも案の一つだが、この霧の中では誤射が恐ろしい。
現代の魔法銃とは凄まじいもので、一部タングステンの装甲を用いられた車両であっても、一撃で貫通できる武器が存在するのだ。それが誤射など、考えたくもない。
「弱ったな。はて、どうやって味方の位置を確認するべきか。真上に銃を撃たせて音だけを……いや、この霧の中で位置を晒すのは自殺行為だ。恐らく、霧内の状況を把握できているのは蚩尤ただ一人のはず。鬼や巨人に居場所を晒すなどありえない」
こんなことならば、霧や湿気を弾き飛ばす快晴の魔法でも習得していればよかった。
俺は熱を司る火山の化生なのだから、不可能ではないはず。しかし、少しでも自然力を出し過ぎれば一発アウト。そんな賭けに出られるほど、俺の頭は壊れていない。
ズドン。
そんなことを考えていると、俺の胸あたりに重たい衝撃が走る。
しかし、それは俺の身体強化を突破できるほどのものではなかった。蚩尤レプリカではない。奴ならば、俺を後方に吹き飛ばして余りある拳を持っている。
巨人だ。俺よりも三倍近く大きい、フルスケールの巨人だ。
だが、ただの巨人など俺の敵ではない。拳を握り返し、そのまま握力だけでねじ切る。折れた手首から自然力を流しこみ、全身に炎の魔法を叩き込んでやった。
腕から伝わる炎が肩まで到達し、次の瞬間には頭、そして身体を通り下半身まで焼き尽くす。全身が炭と化してしまった巨人は、もうぴくりもと動きはしない。
……何も、イライラしているからこのように残虐な方法で殺したのではない。
誰がどう見ても、俺が殺したとわかるようにだ。斬撃では、ソンダビットと間違えられるかもしれない。銃撃や殴打では、ドラコイェストと間違えられるかもしれない。
このような霧の中、持ちうる情報は全て引き出さなければならない。
この炭でできた死体を見れば、俺が近くにいるだろうことは想像できる。巨人を両断するような斬撃ならソンダビット。的確に頭だけを貫いていればドラコイェストだ。
次々に現れる巨人をちぎっては燃やしちぎっては燃やし。
未だアララーと会話しているソンダビットを守りつつ、四方八方から迫りくる巨人の拳を防いで回っていた。
周囲からは、恐らく巨人や鬼に応戦しているだろうロシア兵の銃撃音が聞こえてくる。
マズいことに、こんな深い霧の中、全方位から銃撃が聞こえていたのだ。流れ弾に当たればどうなるか、皆知らないわけではないだろうが……。
それほどまでに、この霧の内部では巨人と鬼の勢力が優勢なのだろう。
まずは自分の身の安全を守ること。そのために、流れ弾を当ててしまう危険性も考慮した上で応戦しているのだ。
だが、こんな状況長くは続かない。どう見ても、俺たちの軍は劣勢だ。
こんな、銃どころか火薬すら知らなそうな、申し訳程度の腰布を巻いた集団に押されているのだ。これがどれほど屈辱的なことか。
どこかで、この状況をひっくり返す一手を撃たなければならない。俺の魔法が、やはり最有力だろう。次点でソンダビットとアララーの複合魔法か、ドラコイェストの銃に内蔵された『火山の種』が火を噴くのを期待するか。
しかし最悪なことに、周囲から響く銃撃は思ったよりも近い。発煙筒の位置よりもずっと俺との距離が離れていないのだ。この状況では、やはり大魔法など使えようはずもない。まったく、人間と共に戦うというのは立ち回りに制限が多くて嫌いだ。
こうなったら、突貫戦車で一掃してやろうか。俺の反射神経を信じて、味方車両の手前で寸止めしつつ、巨人を的確に轢き殺していけば、劣勢の状況は立て直せるだろう。そのためには、ソンダビットの防衛を放棄しなければならないが。
「……そういえば、蚩尤レプリカはどこに行ったんだ。霧に紛れて姿を消したが、アイツさえ倒せればこの霧は収まるはず。そうなれば、大魔法も打ち放題だ。どうにかして蚩尤レプリカを見つけ出し奴を倒すのが最善策」
「……そういうことなら、自分に任せてほしいっス」
俺が常に庇っていた後方から、声がかかる。当然、ソンダビットのものだ。
先程よりも冴えた目をしている。手に握るラズルシェーニェからは、今までにないほどの魔法エネルギーを感じた。
「ソンダビット! アララーとの調整が終わったんだな! しかし、お前ひとりに蚩尤レプリカの相手をさせるなど……。厳しいことを言うが、お前が真正面からやり合って敵うような相手じゃないぞ」
「わかってるっスよ、チャンクーさん。けど、チャンクーさんは皆を助けに行かないと。自分は一体倒すのに時間が掛かるっスけど、チャンクーさんなら一撃で倒せる。足も速いし、図体のデカい自分より小回りが利くっス。なら、デカブツは自分に任せて、チャンクーさんは一体でも多くの巨人を狩るべきです」
彼の意見はもっともだ。一体の巨人を倒すのに、俺とソンダビットでは効率が変わってくる。パワータイプで、一般的な魔法兵に比べれば機動力の低いソンダビットでは、やはり味方の支援は厳しいだろう。しかし……。
『安心しろチャンクー。今回は我がついている。最悪の場合、白の剣の魔法を使って最低限の生命維持はして見せるさ。脳と心臓だけ残っていれば、あとは疑似器官で補正が可能だ。心配するな。コイツはもう充分に強い』
「そうっスよチャンクーさん、自分は大丈夫っスから……今めっちゃ怖いこと言わなかったスかアララーさん!?」
「そうか、アララーがそこまで言うなら大丈夫なんだろう。任せたぞソンダビット。この決戦、勝敗はお前に掛かっている!」
「ちょ、え? は、え!?」
「行ってこいソンダビット!」