第百八話
「聞いていた以上の実力ですねぇ。まさかこれほどのものとは、思ってもいませんでした」
不意に、なんの前触れもなく、そいつは俺たちの目前に現れた。
周囲の巨人族よりもさらに一回り大きいそいつは、しかし微塵の気配も感じさせず、忽然と霧の中から現れ出でたのだ。
「白兵戦最強の人間ソンダビット、中・長距離に秀でた才を発揮し、車両の中からも無類の強さを発揮するドラコイェスト。……そして、蝗魔王ワンと魃魔王カンハンを打倒した、当代の化生チャンクー。こんなに早くお会いできるとは、光栄でございますよ」
最悪だ。こんなところでは会いたくなかった。いや、地球では会いたくなかったのだ。
しかし、事実この場にいるというのなら、むしろ好都合。こちらから本陣に攻め込む必要がなくなった。不幸中の幸いと言う奴だろう。
「……どうして俺は、こうも自分に都合の悪いモノを呼び寄せてしまうんだろうな。最悪だよ。お前が出てくるのなら、奴を殺したのは間違いだった。だが、やってしまったことはもう元には戻らない。ならば、やはりお前を殺すしかないんだろうな」
嫌な予感というのは、的中するものだと改めて思う。
八つの腕に八つの足。巨大な頭からは雄々しい立派な角が生えていた。目が四つあり、その全てが別々のものを、人間軍の動きを観察している。
中国神話に存在する巨人族の中でも、トップクラスで強く、そして有名な大妖怪。
武芸と軍師の魔王。それは、この時代に決して存在してはいけないモノ……。
「……蚩尤。貴様、どうやってこちらに来た? どんな思いで、こちらの世界に入って来たんだ! 貴様は、蝗魔王の思いを何だと思っている!」
見上げるほども大きなそいつは、二対の目で俺を見つめた。この瞬間だけは、奴も全軍のことを考えるのは止めるらしい。
それほどまでに俺を脅威と感じてくれているのか、それとも人間軍など意に介さなくなったか。
「貴方が私という存在を呼び出してしまったのは、『チャンクー』、貴方がそういう性質を持った化生だからとしか言えません。ですが、先刻から貴方がどうしてそれほどまでに怒っているのか、良くわかりました。どうやら蝗魔王は役割を果たせたようですね。ならば、私も自分の役割は果たさねばなりません。でなければ、あの子に申し訳が立たない」
「何を言っている! 貴様は、蝗魔王の覚悟を汚してここにいるんだ! 奴は最期のあの瞬間、地獄で貴様に会えるのを待ち望んでいた! そして、黄帝という男と大業を成すのだと気炎を吐いていたのだ。それを、貴様は無下にした! なら、俺がもう一度貴様を地獄に叩き落してくれる!」
「……貴方の勘違いを、一つ正しておきましょう。私は蚩尤の残滓。彼の力から発生したただの妖怪に過ぎず、一時代を狂わせた蚩尤本人ではありません。言うなれば、蚩尤の模倣、蚩尤レプリカとでも呼ぶべきでしょうね。ですが、貴方の怒りも良くわかります。私がこの世界に存在するということは、蚩尤はまだこの世界に捕らわれている。きっと、貴方の言う地獄には行けていないでしょう。殺すというのなら、どうぞお好きに」
何だコイツは、意味が分からない。人里を攻撃しておいて、コイツは今更俺と対話するつもりなのだろうか。
ありえない。それは化生の信念に反する。人間、そして地球の害になる者は、すべからく排除しなければならないのだ。それなのに、向こうは仕掛けてくる様子がない。
「チャンクーさん、コイツ殺しても良いっスか? どう考えても、コイツが巨人軍の総大将でしょう。あの町を壊滅させた張本人ですよ。対話なんかする必要はないっス。許可を頂けるのなら、俺が殺して見せるっスよ」
「待てソンダビット、お前が単独で勝てるような相手じゃない。模造品とは言え、相手は蚩尤の力を持った大妖怪だ。人間がいくら束になって掛かったところで、軽くいなされ殺されるのがオチ。それに蚩尤を相手にするのなら、うってつけの奴がいる……」
言い放ち、俺は一対の双剣を抜いた。これまで、ロシアでは一度も使ったことがない。
それは、アフリカでの大戦争、ビクトリア決戦を共に駆け抜いた友の剣。常に俺の傍にいて、それでいて全く姿を見せない友の魂。
「いい加減、俺の呼び声に答えてくれよアララー。お前の知識と力が必要な場面だろうが! 不完全な化生である俺には、連中が何を言っているのか、半分くらいしか分からないぞ! 俺が呼んでいるんだ、さっさと姿を見せろ!」
瞬間、アララーの双剣に火がともる。それは、火山の化身である俺にとっては心地よく、その他地球上の生物にとっては死に直結する炎。
あらゆる悪魔の弱点を内包する化生、それが伝説の竜アララーだ。
「まさか、本当に我を呼び出せるとは。驚いたぞチャンクー。貴様、本当に一回目の化生か? たった数か月の人生で、神々の拘束を突破できるほど真名魔法を成熟させるとは」
真名魔法? また知らない単語が飛び出してきた。こいつらは、いつもそういった情報を知っていることを前提で話をしてくる。記憶が欠落している俺には、一から説明してもらわなければ何も分からないんだ。後でちゃんと話をしよう。
「御託は良い。今はお前の力が必要だ。あの不快な奴を殺す。蚩尤の残滓だかなんだか知らないが、この程度の巨人軍で俺と蝗魔王の決闘を汚すことは許さない」
「貴様の要求は分かった。今の我は貴様の眷属器。思うままに、信念の導くままに、我の力を振るうと良い。我は貴様の意志に、最大限応えよう。……蝗魔王のような悲劇は、二度と起こさせはしない」
……どうやら、ここ最近姿を見せなかったのには、相当な理由があるようだな。
察するに、以前言っていた神域という場所に入り込んだのだろう。蝗魔王の遺言を聞いて、正義の竜であるアララーは行動せずにはいられなかったはずだ。
「……応龍種、ではないようですね。ですが、やはり私を殺すのは稀代の化生と、それに仕えし大いなる龍。史実というのは繰り返すものですね。嬉しくもあり、悲しくもあります。運命は、やはり我々の勝利を許してはくれない」
突然出現したアララーに、蚩尤レプリカは特段驚いている様子はない。このような局面、蚩尤の残滓である奴は幾度も経験したことがあるのだろう。ともすれば、奴は応龍種を打倒する術を、既に獲得しているかもしれない。
奴が言っているのは、黄帝と蚩尤の大戦争。その終幕だろう。
蚩尤はその時代最強の英雄である黄帝に立ち向かったが、黄帝の家臣でもある応龍にその巨体を貫かれ、最期は黄帝に処刑される。とても残酷な最期だ。
「貴方の言いたいことは分かります。蝗魔王は、元々蚩尤に仕える魔王の一人でしたから。この巨人軍では、当時の蚩尤には全く及ばない。蝗魔王は、私のような弱者には決してかしずかないでしょう」
そうだ。蝗魔王は自分よりも強く、そして確かな信念と理想を持った者にしか従わない。事実、奴は同格以上の化生である神虫にすら、友としての意識はあっても、導き手としての尊敬は持っていなかった。
それを考えれば、この巨人軍はあまりに脆弱で、蝗魔王を従えるには相応しくない。
蚩尤レプリカ以外は本当に雑魚で、人間の武器でも用意に打倒できる。蝗魔王の眷属は、軍隊であろうと関係なく蹂躙していたというのに。
「私は彼と貴方の誇りを汚してしまった。美しき決闘の終幕に、墨をこぼしてしまった。謝罪で足りないのであれば、件の決闘を上回る激闘を、私が演じて見せましょう。全身全霊、蚩尤の模倣として持ちうる全ての武術と戦略の限りを貴方に」
そう言って、蚩尤レプリカは背中から四本の武器を抜く。八つの手でしかと握り、残る手は拳を構えていた。
中国最強の魔王が、本気で俺を潰しにきている。しかして恐怖心はない。コイツも、蝗魔王には及ばないまがい物なのだから。