②
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって彼女がつぶやく。
「おかえり」
僕が彼女の声に応える。
「ただいま」
今度は僕がいう。
「おかえり」
彼女が応える。僕らのおふざけが絶えることはない。
「缶ビール冷やしといて」
「はいよ、他のものは?」
「シャケは冷蔵庫、それ以外はそこら辺に置いといて」
シャケを冷蔵庫に入れて他の食材はキッチンにおく。キッチンといても入口を入ってすぐにあるホテルの部屋に
あるような簡易的なものだ。わんえるでーけーの僕らの部屋にお似合いの小さなもの。料理は彼女しかしないか
ら僕にはよく分からない。
「手洗い、うがい、ガラガラ♪」
洗面所に行くと彼女が歌を歌いながら手を洗っている。オリジナルソングだろうか。歌詞が繰り返されるたびに
音程が変わる。それすらも愛おしく思える。泡がついた手はいつもより大きく見えた。
「手洗い、うがい、ガラガラ♪」
僕も便乗して歌ってみる。
「真似しないでよー」
ムッとした顔をこちらに向ける。かわいいじゃないか。
「いいじゃないか」
子供を宥めるような優しい口調でいう。すると彼女が突然あわあわの手を水で流し、手についた水滴を飛ばして
くる。
「冷たい」
不意打ちに思わず声が裏返る。
「どうだ、水滴攻撃は!冷たいだろう」
ふっふっふと悪ふざけする姿は5歳児だ。
「ま、参りました」
あからさまにふざけた口調だが彼女は納得したのだろう。
「わかればいいのだよ」
「では、これから美味しいシチューを作ろうと思います」
本当に美味しいんですかと訊いたけど無視されてしまった。
「まずは野菜を切ります。にんじんとタマネギ出してくれる」
「了解です」
言われた通り、にんじんとタマネギを袋から取り出す。
「ありがと」
そういうと水洗いをして野菜を切り始める。
「ジャガイモ切ってくれる」
「おっけー!」
ジャガイモを水洗いしてピーラーで芽を取り出して切り始める。料理は苦手だが彼女の手伝いをしているうちに
野菜を切れるレベルにはなった。
「次は鶏モモ肉を切ります」
彼女が冷蔵庫から肉を取り出す。
「フライパンをガスコンロに乗せて温めてくれる」
「バターは入れる?」
「まだまだ、フライパンが温まってからね」
「フライパンの方はどんなかんじ」
具材を一通り切り終えた彼女がフライパンを覗き込む。
「温まってきたよ」
手をフライパンの上にかざして温まったことを確認する。
「じゃあバターと塩を少々入れてね」
「しょうしょうね」
「しょうしょうだよ」
「タマネギを入れます」
タマネギを入れるとジューという音がする。少し炒めると飴色の輝きが表面につく。
「いい色だね」
思わず口に出る。
「うん、いい感じ」
満足そうに彼女が言う。
「ここからは1人でできるから座って待ってていいよ」
僕の出番はここまでのようだ。
「大人しく待ってます」
台所からリビングに移動すると換気のために開けていた窓から冬の冷気が流れてきて部屋を包んでいた。思わず
窓を閉める。遠くに見える街灯の光が黒い画用紙に絵の具を垂らしたみたいにポワンと灯っていた。
「できたよー」
数分後、彼女がリビングに鍋を持ってくる。蓋を開けると湯気と共に柔らかい乳製品の匂いが部屋中に広がる。
「美味しそうだね」
「いい感じでしょう」
「うん、超美味しそう」
「ビールもってくるね」
そう言うと彼女はビールを取りに台所へ向かおうとする。
「僕がとってくるよ」
彼女ばかり働かせて悪いと思った。
「いいよ、私がとってくるよ」
引き下がらない彼女。
「じゃあ2人で取りに行こうか」
僕は提案する」
「そうしよう」
彼女は笑う。冷蔵庫の中のビールはキンキンに冷えていた。
「乾杯!」
「乾杯」
缶をコンとぶつけてプルタブを引く。カシャという音と共にホロ苦い匂いが鼻腔を貫く。黄金色の液体を体に流
しこむ。全体を冷たい液体が駆け巡る感覚が心地よい。
「ぷっは」
少し大袈裟に彼女はリアクションをとる。
「どうしてビールはこんなに美味しいのでしょうか」
缶のラベルを眺めながら彼女はつぶやく。
「二十代前半でビールの美味しさに気づけるのはすごいことだね」
ビールを美味しいと感じるのはいつぐらいからなのだろうか。飲めるのは20歳からだけど最初に飲んだ時は美
味しいとは思えなかった。僕の友人でも好んで飲む人を思い出す限りではいない。彼女ぐらいだ。
「あなたも好きでしょ」
艶っぽい表情でこちらを見つめる。ドキリとした。
「好きだけど、ものすごく美味しいとは思えないな」
ビールかジュースかと問われたら僕は間違いなくジュースを選ぶだろう。僕の味覚はまだまだお子ちゃまなのだ
ろうか。
「君とならなんでも美味しく感じるけど」
なんとなく付け足す。本心なことに変わりはないけど今言うべきことか正直迷った。
「きゃっ」
くしゃっとした表情で笑う。恥ずかしさと嬉しさが半々ぐらいの表情で先程の艶っぽさは無くなっていた。