魔法使いにハチミツ
窓枠のところに肘をついて表を眺めていたサリーがいつもの男を見つけて目を細める。あれまずいよキングちゃん、ふらふらしてる多分倒れちゃうよ、と言うが早いか椅子を蹴って唇を歪ませる、笑みと呼ばれる類のものの形に。
ああもうこらこらお節介焼き、なんてキングがため息をつくのも届かずにサリーは店を飛び出して、細長い灰色のビルの二階からどうしようもないのんびりしたエレベーターの表示に悪態をついて階段を駆け下りる。
冬の初めの夕方は幻みたいにあっという間で、淡いピンクやオレンジ色はまばたきの間に青灰色の雲に飲み込まれてしまって夜にさらわれる。その前にとそこそこ長い脚をもつれさせて表に飛び出て、薄汚れたネズミを想像するしかないスーツの男に声をかけた。
ねえねえへろへろしてるけどヤバいよ寄ってきなよ死んじゃうよねえねえどしたのひどい顔、
「してる」
「……え、」
どろりと濁った目が向けられて、けれどくっきり二重の本来ならくりくりしているだろう可愛らしい感じの眼差しでそれはサリーをあやふやながらも捉えて、そして視線がぶつかった。
「名前は」
「……え、」
「エさん? なに、日本人と違うの」
「オレ……?」
「うん」
「名前、」
「俺はねえ、サリー」
「……外人、さん、」
「生粋のジャパニーズ」
「えっと、」
「魔法使いに憧れてんの」
「……サリー、ちゃん」
「お前男ならパパの方じゃねえのかよ、ってね! 名前は?」
「オレの、」
「そう」
「ハ、チ、……まあや」
「まあや?」
「……蜜蜂に憧れてんの」
「甘いもん、好き?」
長身の男が小さく頷いた、自分と同じくらいの目線なので、世間では結構背の高い部類なのだと思われる。左目の周りが真っ黒になっていた。内出血、ぶつけたのか殴られたのか、事故か故意か。唇の端が引きつっている、けれど苦笑ではないのはそこに傷があるので引き攣れだと見たからだ。
「ケンカ?」
「違う」
「即答だねえ、なに、誰から」
「違うって、」
「図星って顔になった、まあやちゃん可愛い」
疲れてる顔してるからちょっと寄って行きなよ開店前だけどさ、サリーができるだけ甘い声を出して誘う。まあやが首を微かに横に振る。
「怖い店とかじゃないよ、ぼったくりバーとかでもないし、そもそも俺は客引きじゃない」
「帰らないと、」
警戒心を今頃丸出しでまあやが睨む。可愛い顔、とサリーが目を細める。
「誰に殴られたの」
「あんたに関係ない、」
「あのね、俺、ずっと見てたの」
「……は?」
冬の夕方、日の落ち切るわずかな時間は寒そうに身をすくめる人達が他人には興味のない早足で通り過ぎて行く。駅前大通から少し離れた繁華街のそのまた路地の裏側。多少いかがわしい店も混じるものの、癖のあるただの飲み屋の方が数は多い。
「まあやちゃんのこと。なんかね、ある日目に付いたらそれからずっと心に引っかかったままになっちゃって。いつも似たような時間に、俺の職場の窓から見えるの、電車で通勤? だから似たような時間に帰ってくんのかな、って。なに、ねえ、これって恋?」
「あんた、男じゃん、」
「男とか女とか恋するのに関係あんの? って、あ、ごめんね、なんか泣きそうな顔になっちゃったね、ごめんね、からかったわけじゃないけどごめんね、一杯奢るから酒でもお茶でも飲んで行きな、ね?」
「……帰んないと、」
サリーが両手を肩の位置まで上げて、ひらひらさせる。
「俺、怪しくないよ?」
まあやがひっそり笑った。
「遅くなると、傷が増える」
「やっぱ誰かにやられてんじゃん」
「いいの、仕方ないことだから」
「なにそれ」
「……ありがと」
「どういたしまして、え、なに」
「全然知らない他人に心配してもらうことが救いになることもあるんだ、と思って」
「話が見えなーい、なあに、まあやちゃん」
明日またここ通ってそんとき声かけてくれたら。まあやが小さな空白の後でそっと言う。
「お茶、奢って」
「今日はダメなんだ」
「本当は明日も明後日も、オレが外に出てること事態許されないんだけど、」
「なにその怪しいお話」
「仕方ないの、でも明日また声かけてくれたら、」
助けて、って言うかもしんない、とまあやがやわらかく目尻を下げた。そんじゃあ、と小さく手が振られる。じゃあまた明日、サリーが声をかけると、歩き出していた足がわずかに戸惑ったように見えた。
「なにしてんの」
「ナンパに失敗」
「なにしてんの」
「キングちゃん、今日はダメだけど明日はいい、ってなに?」
「生理?」
「うーん、だったら今日はダメだけど来週なら、とか言うかも」
「今日終わるかもじゃん」
「今日終わるんなら別に今日でも良くない? って、ナンパ失敗したの、慰めて?」
「やだよ、面倒くさい」
店のみんなが来る前に支度しな、とキングが急かす。
特殊な性癖の持ち主達から需要のある、長身の男が女装をして酒を飲ませる、という店のキングはオーナーでサリーは共同出資者という名のサブオーナーで、キングが三十二歳で離婚してサリーが三十一歳で結婚した年にオープンした。それから五年、キングは再婚して二度目の別れを経験し、サリーの方も妻子とは別居状態に入っている。キングもサリーももちろん本名ではなく、そんな名前がつくからの付き合いではあるけれど今では互いに源氏名で呼び合うようになっていた。
「なんで声かけたの」
「タイプだった」
「アホ」
「や、なんか長身だし、人生に疲れてそうだし、うちの店で働かないかなぁ、て」
「ナンパってより勧誘じゃんか」
「スイレンちゃん、辞めちゃうんでしょ?」
「誰に聞いた」
「本人」
「まだ言うなって言ったのに」
「身バレしそうになりました、て」
「調子に乗ってSNSやるからだよ」
「バレたくないならねえ」
「隠しとかないと」
「別にゲイとかってんではなくて、女装してるただの男子だしねえ」
「男子って歳でもねえな」
元々女装趣味があったわけではない、恋愛も別居しているとはいえ妻子がまだいる、異性相手が基本で、だったらなんでまたそんな仕事を、といえば昔はサラリーマンだったけど朝起きるのが辛くて辛くてめげたからで、昔はサリーもそこそこにヤンチャだったので、人に頭を下げるのが苦痛だったのもある、自分が悪いのならまだしも相手の顔を立てるために悪くもない頭を下げなければならないというのがどうしても納得できなくて、似たような理由で家電量販店の店長と客をうっかり殴った幼馴染みのキングと、どうせだったら昼過ぎから夕方くらいに始められる、そう大儲けしなくていいから顧客を掴んだら食うには困らないってニッチな商売でもしようぜ、ということになって、行きついた先が長身男子の女装飲み屋だった。
キングはひょろりと細長い体型をしているが、サリーは肩幅も広くがっちりしている。それでも指先を意識してやわらかな動きをし、一拍置いてから表情をやわらかく変えたりすることで、キングよりも美人だと一部で褒められている。それぞれに贔屓の客がいるので、自分のお気に入りにはどうとでも甘いことを囁くのだ。
切れ長の一重の目はきっちりと黒のラインを引いて鋭くする。ブルーを乗せて、けれど下瞼にピンクを添えるとどこか抜けた甘さが出る。毎日の化粧が面倒くさい、とまだ仲の良かった頃の妻は嘆いていたけれど、仕事で化けると思えばその面倒くささもまた楽しい。
「あの子欲しいな」
「なに、失敗ナンパの?」
まあやちゃん。蜜蜂みたいな名前だった、齧ったら甘いかもしれない。
*
おかえりなさい、の声が明るいことにほっとする。
良い匂いがする、やわらかな湯気のせいか部屋窓がしっとりと曇っているような。シチューの匂い。そうだ、シチューの匂い。シチューにするんならメールなりなんなりしてくれれば良かったのに、とまあやは思う。駅前のあの、恋人がお気に入りのパン屋で、一斤まるごとのままの食パンを買ってきたのに。真四角でうっとりするようなやわらかい茶色で、ブレッドナイフを使うより手で千切った方がびっくりするくらい良い匂いをさせるあのパン、シチューと食べるならあのパンを恋人に買ってきてあげられたのに。
「ただいま、」
マンションのドアが重たく閉まって、背中が緊張する。そんな自分を笑う。
大丈夫。
今日は大丈夫、もう大丈夫。
恋人の明るい声と幸せな食事の匂い。
大丈夫。大丈夫、大丈夫。大丈夫。
パキ、と足裏でなにかが鳴った。跳ねるようにして飛びのく。プラスチックの破片が落ちていて、それを踏んだようだった。なんの破片なのか、濃いピンク色をしている。丸みを帯びた側が上になっていてそこを踏んだので助かった、逆を向いていたらいくら靴下を履いているとはいえ肌を傷付けたかもしれない。
拾おうとして身を屈める。そして玄関から続く短い廊下に、ピンクや水色、鮮やかな黄色の破片が砕けているのを目にした。これは、と動けなくなる。顔の欠けたウサギ、耳の砕けたゾウ、首から下が残っていないヒヨコ。花と、丸いお飾り。端で転がっている取っ手だろうか、そこから下に角のない四角い箱が中身を飛び出させて転がっている。小さな機械。まったく見当がつかないのに、なにかが頭に引っかかる。記憶のようなもの。似たようなものを昔どこかで見たような。
「……あ、」
どちらかといえばパステルカラーだ、それなのにどうしてこんなにも目に鮮やかなのか。赤ん坊はくっきりとした色しか最初のうちは認識できないのだと、どこかで聞いた気がする。あの、ぐるぐる。頭の上で回しておくあれ、赤ん坊の。気を引いて泣かないようにさせておく、あの、音楽が鳴ったりもする。メリー。
「ただいまも言わないの?」
思い出した名称に声が重なる。顔を上げた。廊下の電気の真下にいて、丁度影になってしまっている恋人の顔は真っ黒だった。
「言っ、た、」
「聞こえなかった」
「た、だいま、」
良い匂いがするけどシチュー、と笑ったつもりなのに声が震える。恋人が頭の上でふんと笑う。鼻を鳴らす。本来まあやより二十センチほど背の低い恋人なのに、二メートルも三メートルもあるような化け物に思えてしまい思わず顔が苦く歪んだ。
肩に衝撃を受ける。どんっ、と重たい反動で尻もちをついた。蹴られたのだと知って、けれど相手は女性なので手を出すことができない。女の子にはやさしく、という幼い頃から刷り込まれた言葉は、本当だけど嘘だった。
「ハチのせいだから」
ハチ。まあやの名前は蜂谷修で、彼女はけれど名字を縮めたハチで呼ぶ。
蜂だから、まあや。連想で、考えるよりも前に口に出た。あの人でっかかったな、とこんな時なのに思う。サリーとか言ってた、変な男。
「なんで笑ってられるの、最低、信じられない、赤ちゃんはハチのせいで!」
キィィィィィィィ、という奇声に変わって、彼女の蹴りは飛んでくる。体重だって別にそう重たいわけではない、恋人の蹴りはひとつひとつに対して威力なんてない、けれど連続して頭も顔も肩も腕も、隙あらば腹もと無差別に途切れなく蹴られると、大の男でも腕で頭をガードして丸くならざるを得ない。
左目周辺の痣は、一昨日投げつけられた鍋の、一緒に飛んできた蓋の金属部分が運悪くぶつかったからだった。そのときだけは恋人も一瞬正気に戻って、ハチ、と震える声で彼を呼んだ。冷凍庫の保冷剤を当てながら大丈夫だと彼女と自分に言い聞かせて夜間の救急病院に飛び込み、痺れの為に視界はぼやけていても眼球に傷はないので視力に影響ははないでしょう、と言われた。
鍋を投げる以前も、恋人は皿を投げたり服を投げたりおにぎりを投げたりカップを投げたり、そう、手の触れたもの、それをまさに手当たり次第に投げつけてきていた。
ハチが悪いのハチのせいで、全部、全部、全部――。
顔を真っ赤にして泣き叫んで、ほんの少し前まで甘い言葉を交わして体温を分け合って、空気までも淡く染めるくらい仲の良かったふたりだったのに。ほんの数ヶ月前までは、確かに恋人は多少依存の度合いが高かった気もするけれど、嫉妬も今まで付き合ってきた女性より多少沸点が低かった気もするけれど、甘えん坊でまあやのことを好きで好きでたまらなくて、子犬のようにじゃれてくる可愛い可愛い人だったのに。
そして、過去形で思ってしまった自分にまあやは動揺する。
妊娠した、と告げられた時も動揺した。
え、と放たれた声は後を続けることができず、目の前の少しはにかんだような嬉しそうな、誇らしそうにも見えた恋人の顔はみるみる曇っていった。
付き合って一年と半分ほど。結婚という話はまだ出ていなかった。互いにひとり暮らしをしていて、けれど恋人はまあやの部屋へ来る方を好んでいたように思う。
オレの子、というつぶやきは声に出てしまっていた。心の中で考えていただけなのに。一瞬にして恋人の目が赤く燃えた。怒りが瞳の色を変えることを、まあやは知らなかった。
違う、と即座に否定して。
今のはただの反芻であって疑問ではない。けして語尾の跳ね上がった言葉ではなかった、ただ茫然としただけだ、結婚なんてまだまだ遠い先のことだと思っていた、子供なんて尚更。恋人は二十七歳で、結婚を焦る様子はなかった、自分は三十二歳になるけれど自分が一人前だという自覚はまだなかった。一人前。結婚して子供を育てて、なんなら家を建てて。そういう人生設計がまだなにもできていなかった、人生プランは真っ白で、すべては遠い未来、という名の箱に無造作に詰め込んであるだけだった。いつかは考えること。結婚も、子供を作るということも。恋人が三十になるころには真剣に考えようと思っていた、あと三年くらいの間に、だけどその三年は永遠より遠いところにある気がしていた。
違う、と繰り返して。
けして、その腹の中に宿った命を否定したわけではなく、自分の責任ではないと逃げ腰になったのではなく。
首を横に振って、けれど耳元で自分によく似た男の声がする。責任を取れるほどの大人じゃないって思ってるのは確かなのに。思わず振り返って、恋人の目を更に怒りで燃やしてしまったことを知る。なに、どうしたの、後ろに味方でもいるの、と尖った声で吠えられる。
違う、違う、違う。
自分が一人前だという自信がなくて絶句してしまっただけだ、だって誰も認定証なんてくれない。卒業証書のように、入学証書のように、誰かが証明してくれるわけじゃない。お前はもう立派な一人前だ、結婚もして子供を作って家族を養っていくだけの充分な力があるぞ、と背中を叩いてくれるわけではない。
世の中の人達は、どうやって自分を一人前だと理解するんだろう。なんらかの成功によってか。それでは、成功とはなんなのか。
唐突で驚いただけで嬉しい、本当に嬉しい、と喜びの表情を無理矢理作ってにこにこと飛び跳ねて見せた。とりあえずこの部屋に来るか、と提案してみた。同棲。友達のとこは奥さんがつわりひどくて大変だったらしいから、オレがフォローできることは全部やるから、ここにおいで。子供のことを優先しよう、結婚とかもろもろは少し落ち着いてからじっくりやろう、一生に一度のことなんだから。頭を真っ白にしながら言葉だけとにかく並べた。まあやは普段饒舌な方ではない。怒りの顔をしていた恋人も、まあやのマシンガンな言葉に押され気味となり、そのうち毒気を抜かれたようになって、ひとつ頷いた。
ハチ、あたしのこと好き?
聞かれて今度は即座に頷いた。好き。大好き。オレにはお前しかいないよ。本当に、大好き、なんでこんないい子に巡り合えたんだろう、好き、本当に、好き。
それは半分、自分に言い聞かせる言葉で。
言葉に出して自分を騙すと、最初からそうだったんだと思い込むことができる。自己暗示。そうだ、この娘と結婚するつもりはあったんだ、結婚も視野に入れてたんだ、そうじゃなかったらもういい歳をしているんだし、いくら「今日は大丈夫な日だよ」なんて言われても避妊せずにセックスすることなんてない。
それで、ちくりと思い出す。
なんであの日。彼女は大丈夫なんて言ったんだろう、普段はきちんと避妊をしているのに。絶対にゴムはつける、つけていた、だけどあの日だけ。妙にそわそわした恋人が待ち切れないといった様子でねだってきて、ゴムを、と言ったのに今日は絶対大丈夫な日だから大丈夫なの、と跨ってきた。あの日だけだ。あの日だけ。避妊をしなかったのは。どうしてあの日恋人は焦った様子をしていたのだろう、今から思えば、の話だけれど。もしかしてどこかで浮気をしてきて、危ない日なのに避妊せずしてしまったのでなんらかの辻褄を合わせるために……とうっかり考えてしまってまたそこで思考が止まる。托卵、という言葉が思い浮かぶ、すぐに首を横に振る。
そんなのはない、恋人に限って、だってこの娘はオレのことを好き過ぎる、ちょっとうっとおしいと思うときがあるくらい友人関係まで気にして友達の彼女だという女の写真まで消してくれと怒ったりで、そんな彼女が、浮気とか、そんなのはない、ないはずだ、きっと。
まあやは混乱して吐き気まで覚えたけれど、それをぎゅっと飲み込んだ。
そんなはずはない、そんな悪い女には惚れない、自分にそこまで見る目がないとは思わない、大丈夫、大丈夫、大丈夫、……なにが?
混乱したままの頭を振って、一緒に暮らそう、と言い切る。もう半分以上は自分に言い聞かせるための言葉として。
恋人はやっと機嫌を直した様子で、すぐにまあやの部屋へ転がり込んできた。一緒に暮らしはじめて、人の声や気配が常にあるのもそう悪くはないと心が緩むのにも時間はかからなかった。毎日の、「おはよう」。毎日の、「おやすみ」。毎日誰かと一緒に取る食事。わずかに物の位置が変わったりする不思議。自分では見なかっただろうテレビの番組が夕飯時についていて、風呂には入浴剤が使われるようになって、洗濯物の匂いが変わって。
へえ、と思っていたのは、けれど短い間だった。
恋人はそのうちにつわりで動けなくなった、気持ち悪い気持ち悪いと苦しそうに胃の辺りを押さえているばかりになって、匂いに敏感になった。ご飯の匂いが気持ち悪い。油ものの匂いが気持ち悪い。立っていると気持ち悪い、座っていると気持ち悪い、横になっていると気持ち悪い。
まあやは妊娠とつわりのことをそう良く知っていたわけではないけれど、恋人が具合を悪くしている様子は見れば分かる。彼女の身体に気を遣って、労わって、休ませて、掃除だって洗濯だって食事の用意だってできることはなんでもやるようにした。妊娠は病気でないという人もいるけれど、病気でなくたってこんなに具合が悪いのなら動かすのは酷だ。
ごめんね、と恋人は日々謝るばかりだった。
なんにもできない、ただの邪魔者、厄介者になってる、ごめんね、具合なんか悪くてごめんね、つわりなんかでごめんね、こんなに気持ち悪いなんて知らなかった、ひどい二日酔いなのに嵐の日に筏で荒れる海に放り出されたみたい、ずっとずっと酔ってる、気持ち悪い、ごめんね、ごめんね。なんにもできない、ただの厄介者になってる、ごめんね、赤ちゃんなんか妊娠しなきゃ良かった。
そう言われるたびに、なんだかこちらが申し訳ない気になって、まあやも必死で首を振る。そんなことない、むしろごめん、なんかごめん、オレが妊娠させたせいだ、ごめん、できることはなんでもするから、なんかすることとかあったら、オレが気付かないことがあったら言って、なんでも遠慮なく言って、だけど妊娠しなきゃ良かったとか言うのはやめようよ、ごめん、ねえ、言って、なんでも、そうして、ごめん。
それでも病院に行って胎嚢が確認され、卵黄嚢が見え。五週だから、だとか、六週だから、だとか、聞かされてもよく分からなかったけど、まあやはそうかそうかと恋人と一緒に喜んでみたり哀しんでみたり、七週の終わりだというときに心拍が確認されたと安心した様子の恋人にこちらもほっとした顔ができた。
心拍が確認されると、流産の確率が低くなるらしい。よく分からないけど心臓が動いてるのが見えたってことだな、とまあやは思いながら、妊娠したらそのまま出産までそのまま行くものなんだと思っていたので驚きもした。流産というのは、妊婦が転んだとか交通事故に遭ったとか、なにか突発的な衝撃が肉体に加わることによって腹の中の赤ん坊が外に出てきてしまうだけの話かと思っていた。
恋人のつわりはひどくなるばかりで、それでも安定期に入れば少しは楽になるだろうとのことだった。五ヶ月辺りが目安らしい。自分も赤ん坊だとか妊婦だとかもっと勉強したほうがいいもんなんだろうな、と考えていたころだった。
恋人が真っ青な顔をして、出血した、と告げた。
妊娠中に多少の出血があることもある、というのは調べていて知っていたけれど、それを口に出せる顔色ではなかったから、病院に連れて行った。行こうとした。車出すから、診察券、保険証、もらったばかりの母子手帳――そう言いかけたところで恋人の悲鳴と、それを放ったのが自分だとは気付いていないような呆けた顔を目にした。診察がしやすいからと、このところ産婦人科へ行くときにはよく穿いていた焦げ茶のフレアスカートが、濡れているように見えた。そのすぐ後から、じわりと床にこぼれていく、赤。
「――ハチ、」
なにかが、ずるっ、て。
身体の中から、なにか、ねえ、なにかが股に挟まってるんだけど、怖くて動けない――
徐々にスピードを緩めて、今にも止まってしまうのではないかと思えるようなメロディ。それでも音を小さくするでもなく、それは続いていたのに。
いつかは止まるかもしれないと、どこかで思っていたけど、本当に止まるなんて。
*
いつもの時間になってもまあやは姿を見せなかったので、サリーが拗ねて文句を言うとキングが笑った。
「振られたんじゃないの」
「可能性は残して振られただけ」
「なんだよそれ。可能性もなにも、振られたんなら諦めろよ」
「明日ならいいよ、って言われたんだよ、もしもなんかこう、縁があったら、みたいな」
「体よく振られたんだって」
「ぬう」
「ぬうぬう言ってんな、うるせえ」
「昨日慰めてくんなかったくせに、今日はうるせえとまで言う!」
「あ、サリー、パン買ってきて。駅前のミッシェル。一斤まんまのやつ、ハニーブロック作る約束したの忘れてた」
一斤まるまるの食パンの頭を落として中身をくり抜き角切りにして、バタートーストにして生クリームとアイスクリームとたっぷりのフルーツと共にバスケット状になったパンの中に戻して上からハチミツをかけた、到底ひとりでは食べ切れないメニュー。そういえば常連のひとりが予約していたのを聞いた気がする。予約というか、おねだりというか。誕生日かなにかなので、と言っていたような。
「おっさん好きだねえ」
「なに」
「横田さんでしょ」
「すべてのおっさんが好きなわけじゃない、金になるおっさんが好きなだけだ」
「現実主義者、や、現金主義者? 愛なんて信じないんでしょ」
「二度も離婚して慰謝料養育費ふんだくられてる人間に愛なんて言われてもな」
口は悪いがそう低くない声をしているので、女装をするとキングは途端に色っぽくなる。ややハスキーな美女といった具合で、辛辣なことを言われて喜ぶ固定客が多い。みんなマゾでやんなる、とキングは鼻を鳴らすのだけど。
パンを買ってる間にまあやちゃんが通っちゃったら、と渋るサリーは、最初から縁がなかったんだと諦めがつくだろうと蹴り出されて仕方なくお遣いに出た。駅前まで歩く。肌寒くなってきたので、ロングのカーディガンを着ているのが風を拾ってマントのように裾を広げる。
冬のはじまり、夕方の青灰色をした雲。冷たい風は昼間の温度をどこに落としてきてしまうのだろう、いつの間にか季節の秋は名前だけの存在になりつつあるようだ。夏が終わると足早に冬がやってきてしまう。
寒くなってくると心の底で眠っていたようなどうでもいい不安が急に頭を起こしてきたりする、そういえばさあ、なんて気安さで人の心を弱くさせる。いつまでこの仕事してられるんだろうねえ、だとか、歳取ってもこのまんまでいいのかねえ、だとか。どうして不安というのは自分の声をしているんだろう、他人の声ならいっそ無視できるかもしれないのに。
夕方も深まったパン屋はギリギリで食パンが残っていて、そのうちのまるのままをひとつ買った。てか予約しとけよキングちゃん、なんて独り言がこぼれそうになる。飄々と生きているつもりで、実は頼まれごとをしたりするとどうしてもそれを完全に遂行しないといけない気分になりやすい、変なところで責任感が強いのだろう、これで食パンがなかったらオレはどこまで買いに行ったんだろうとサリーはため息をついた。
店に帰る帰り道はなんだかさらに空気が冷えているように感じられ、首をすくめて早足になる。パンを買って帰ったからといって特に褒められもせずに、仕事の準備に入った。化粧をして衣装に着替える。簡単に言えば長身の男ばかり揃えて女装しているスナックのようなもので、ゲイバーとは違うのでどぎつい話はあまりない。下ネタはしても異性に関することなので、お客達とは男同士で騒いでいるようなものだ。その混乱する不思議な感じがウケているらしい。ほぼ常連で回している店だ。
六時からの開店で、一応の閉店は十二時まで、お客が残れば一時、二時。
混みすぎもしないけれど人が途切れてお茶を引くこともそうない、前回おねだりをしていった横田という名の客が十一時過ぎに来た頃には約束のハニーブロックにろうそく代わりの花火を挿したものが出され、嬉しそうな顔でその中年客はにやけていたけれど電話が来たとかで一旦外に出て行った。しばらくして戻ってきて、首を傾げる。
「あのさ、外に不審な人居るよ」
「酔っぱらいかな、まあ一応繁華街に属する店だからねえ」
「いや、私が来た時もずーっとなんかうろうろしててね、このビルの前。今もまだ居てさ、どしたの、って声掛けちゃったんだよね。そしたらぴゅーっと逃げてって」
「変な酔っぱらいに声掛けると危ないよ、最近物騒な事件とかも多いんだから。ちょっとケンカ腰になったらすぐ人殺しちまうし」
「うん。でも、その人逃げてったんだけどちょっと離れたとこからまたこっち伺っててさ。なんか背の高い、まだ若いんじゃないかな、ちょっと優男の――」
冷めると美味くないんだからさあ、のキングの声と、サリーが立ち上がった勢いでテーブルのグラスが倒れそうになって、慌ててそこにいた客が手を伸ばした拍子にスマホが床に落ちた音とが重なった。
「スーツ着てた?」
サリーに真顔で聞かれて、横田が頷く。
ちょっとごめんね、とにっこり特上の笑顔を作って、サリーはもう店の外にいた。階段を駆け下りる。タイトめのスカートはやめておけば良かった。でもそんなのは今更だ。
ビルを出て、横断歩道を渡る前の子供のように左右を見渡す。
「まあやちゃん!」
すぐに見つけて、距離はどれぐらいだろうと考える前に呼んでいた。呼ばれて、背の高い影がぴょんと跳ねる。ぎくしゃくと振り返ったように見えたから、サリーは明るい声で続けた。向こうがなにも言わなくても、それは間違いでないと分かっていたから。
「助けに来たよー!」
だからおいで、と手招きする。サリーさん、とか細い声が聞こえたような気がした、まあやは逃げずにこちらにやってきた。
壁に並んだキープの札付きボトル、カウンターといくつかのテーブル席、カラオケセット。並べられた観葉植物はそれぞれの席のパーテーションにもなっていて、けれど意気投合したり大人数の客だった場合はすぐにどかしてスペースを開けられる。
隅の席に閉店まで放って置いたけれど、呆けた顔をしつつもまあやは大人しくしていた。長っ尻の客もおらず、普段よりずっと早くに店仕舞いした後で、サリーは化粧を落として着替えてまあやの前に姿を現した。
「お茶とビール」
「お茶。と、ビール」
「や、リピートアフタミー、じゃなくてね。お茶飲む? 酒にする?」
「なんにも要らないです、」
「じゃあ俺がビール飲みたいから付き合って。店のビール飲むと金払わないといけないんだけど、オーナー特権が使えるから原価でいいの」
「オーナー、さん、」
「共同経営で、もうひとりキングって幼馴染みがいて、向こうが多く出資してるから俺はサブオーナーなの」
客におっさんが多いから瓶ビール喜ばれるんだよね、とサリーがカウンターの向こうからビールとグラスを取ってくる。つまみの煮物はキングが作ってるってことになってんだけど、本当はスタッフのスイレンちゃんが作ってて、だけどスイレン近々店辞めちゃうから困ってんの、と続ける。
そして。
「傷の原因の人?」
まあやの前にビール瓶を置いて栓を抜いた、グラスに注いでついでに残り物だけどと煮物を出す。切り干し大根の煮たのに、豚肉とジャガイモがごろごろと入っている。汁吸って美味いんだよー、肉じゃがと切り干し大根の合体技みたいな。まあやがそう言って笑う。話を振られたかと思ったら会話のボールを突然他に投げられて、まあやが戸惑いながらも微かに笑った。
「オレが、悪いんですけど」
「懺悔? 懺悔聞くよー、俺結構人から打ち明け話されるの。こう見えて口硬いからマジで。でも懺悔の人がそんな傷だらけになってんのって、相手もっと傷だらけ?」
「多分、見えないところが。心、とか」
「心の傷だらけは、まあやちゃんも同じっぽく見えるけど?」
「……テレビのリモコンとか投げられて命中するのって、地味にヤバいですよね」
「顔面? あ、目のとこ」
「これは別のものだったけど。どっちもクリーンヒット」
「コントロールいい女の子だねえ」
疲れたような笑顔になって、眉が下がっているまあやが、ふときょとんとした顔をした。
「女の子って、なんで」
「一緒に暮らしてる人とかじゃないの、なんかそんな感じ。男だったらあんまし物投げての攻撃はしてこないかなあ、って、まあそんなことないかもだけど」
結婚指輪はなさそうだしねえ、とサリーがまあやの左手に目をやった。
まあやが小さく口を開く。声を発しないまま閉じて、また開いた。酸欠の金魚みたいに何度かぱくぱくしてから、やっと声を絞り出す。
「……男なのに、とか大人なのに、ってなりそうで、なんか。話にくいんですけど、」
「どうする、紙袋でも被ってよっか」
「……紙袋?」
「顔見えない方が話しやすいんなら」
おどけて首をすくめたサリーに、まあやがやわらかな笑顔を見せた。
ぽつりと話し出す。恋人の話を。妊娠させたこと、怒らせたこと、同棲しはじめたこと、流産のこと。そして坂を転がるように不安定に、ヒステリックに、狂暴になっていったことを。
時折ビールのグラスに口をつけながら、サリーは特に口を挟まず聞いていた。聞きながら、別のこと、自分と別居中の妻のことを思っていた。
サリーの妻は、第二子を流産した。繋留流産だった、次は心拍が確認できると思います、と言われていた七週目の出来事だった。
よほどのことがなければ流産なんてするものではないだろうと思っていたサリーは、妊娠しても仕事を辞めなかった妻を責めてしまった。そもそも第一子の長男だってまだ二歳なのに長時間保育で預けられていた、フルタイムの正社員で働く必要がなかったかと聞かれれば、長身女装スナックなんてニッチな客層にしかウケなさそうなおかしな仕事を始めたばかりだったサリーはこれから自分が金を稼げるかどうなのか分からず、確かに妻が働いてくれていないと金銭面での不安は多々あった。
経済的な不安は苛立ちを呼ぶ、余裕を失くす。男尊女卑の意識はないと思っていたけれど、女に面倒見てもらうのってまるでヒモ、なんて一旦気になるとプライドがむくむくと顔を持ち上げてきてしまって、それが弱いところへ向いてしまう。
俺の子供を産みたくなかったんだろう、と。
言ってしまった端から頭の中では否定していた、違う違うこんなこと言いたくない違う違う全然違うっていうか違うこんなこと言っても仕方ないしそれよりもっと流産して呆然としている妻になにか別の、もっとあたたかい言葉をかけなければならないはずなのに。
どす黒く胸に渦巻くこの感情、自分を否定されたかのような淋しさ、殺されたのは赤ん坊ではなく自分の方なのではないかという足場の崩れていく心細さ。違う、赤ん坊は誰かに殺されたわけじゃなくてただ心臓を動かしていなかっただけだ、息をしていなかっただけ、最初から死んでいた、いや、最初は生きていたかもしれないけれど誰も知らないところでひっそりと呼吸をやめてしまっただけ、それは腹の中で守りながらも気付けなかった妻が一番衝撃を受けていて哀しみを抱えていて信じられなくて混乱しているはずだから俺が彼女を責めるのはおかしい、間違っている、分かっている、分かっているのに、分かって、いるのに。
お前が妊娠したのに働き続けたりするからだそんなに俺のことが信じられないのか俺が頼りないのか家族を食わせていくだけの力が無い男に見えるか男だと思うのかお前の無理が赤ん坊を殺したんだそんなに俺は頼りないか俺の子供を産みたくなかったのか俺への当て付けか生活していくだけの金がないって言いたいのかお前は、お前は。
吐き出した言葉を頭の中では端から否定していく、俺は狂っているのだと思った、いくら頭の中で思っていたって口に出さなければ伝わらない、どんなに愛し合ったって完璧な以心伝心なんてありえない、心が読めるなんて心が伝わるなんて、そんなのは嘘っぱちのお伽噺だ。
妻は黙って長男を連れてそのまま家を出た。
後に残されて悪いのは自分だと何度も反芻して反省した、けれど妻に謝罪の言葉をどうしても伝えられなかった。プライドみたいなものなのか、言わなくても分かって欲しいという我儘なのか、甘えなのか、あなたは他の人にはどれだけだってやさしくなれるのに親切になれるのに本当に欲しい言葉をさりげなく差し出してあげられたりするのにね、妻が最後に疲れた顔で残していった言葉。
「……まあやちゃん」
「……はい、」
あのね、と言いながら、サリーはスタッフルームの方へ身体ごと顔を向けて叫ぶ。
「キングちゃーん」
「うるせえな」
でけえ声を出してんじゃねえ、と蹴り飛ばすようにドアを開けて顔を出した目付きの悪いハスキーボイスの美女にまあやが目をまるくした。
「東雲さんって何科のセンセだっけ」
「精神科」
「だよねえ。キングちゃん、紹介して」
「面倒くせえ」
「わっ、ひどい。取らないから。ね、ね、お願い」
「お前になんか上客簡単に渡してたまるか」
ふん、とキングが鼻を鳴らした。まあやがふたりの顔を交合に眺める。ありがと、とサリーが微笑んだ。
「はい、まあやちゃん」
ビールグラスを掴んで一気に中身を飲み干すと、サリーが手をひらひらとさせる。
「いいお医者さん紹介してあげる、まあやちゃんの恋人診察してもらおうね。大丈夫、人生長いからちょっとくらい歯車おかしくなってもちゃんと治しちゃえば大丈夫。そういう専門家がいるの、任せよう。ね、自分が悪いから自分が何とかしないと、とかってずぶずぶになるのが一番良くないからね。そういうのって一見美しいんだけど、ただの共依存だから。手遅れになると大変、ぼろぼろになるなんて序の口、ふたりしていつか餓死して腐るしかなくなるからね、まあやちゃん。腹括って、今は一旦他人に委ねよう、他人って言ってもちゃんとしたお医者さんだから、別れるとか別れないとかはまた別の話で、それは頭クリアになってから考えよう、ね」
まあやの前のビールは手をつけられないまま泡を減らして沈黙している。
暴力を、と。
サリーがやわらかな声で続ける。
「暴力を、愛と勘違いしてしまう前に」
「……え、」
「恋人の振るう暴力を受け止めるのが愛とか、間違ったこと学習すると待ってんのは死んじゃうって未来だけだからね、ま、人間なんてどうせどっかでは事故とか病死とかいろんな理由で最終的には死んじゃうんだけど、恋人さん殺人者にはしたくないでしょ?」
泣きそうな顔で頷いたまあやに、サリーはいい子だと褒めてやる。
でも本当はその言葉が欲しいのは自分だったりする。
人のことならどれだけだって分かるのに、どうすればいいのか、どうやって動けばいいのかちゃんと考えられるのに。サリーが唇の端を微かに震わせる。笑っているように、泣いているように。名刺を取り出してまあやに渡した。裏に、自分の携帯番号とLINEのIDを書き込んで。
「なんで、こんなことしてくれるんですか。オレなんか、なんか全然知らない人間で、」
「うん。うちの店にスタッフとしてナンパしようと思ってたんだけど、なんか他人のまんまで居たいからやめる」
「え、」
「まあやちゃん、最初に会ったときさ、他人の慰めが救いになる、みたいなこと言わなかったっけ。一緒に仕事してたら仲間になっちゃうから、やっぱ他人で居る、まあやちゃん好きだから、俺、ずっとまあやちゃんの救いになりたい」
「……サリーさん、オレのこと何も知らない、」
「知らないと好きになっちゃいけない? 一目惚れ否定派?」
「一目惚れ?」
「ものの例えだけど。ん、んんん、好きかどうかって何年もかけてやっと知る人もいるだろうけど、インスタントにパパッて分かっちゃう場合もあるじゃん。好きならガンガン行っていいんだと思うよ、途中で間違ってたなって思ったら回れ右すりゃいいじゃん。美味いかどうかは齧ってみないと分かんないんだよ、そういうもんだよ」
サリーは耳に心地いいことばっか言う癖がある人ったらし野郎だよな、といつの間にかまた顔を出していたキングが鼻を鳴らした。
「帰して良かったのかよ、っていうかマジでスタッフに誘うつもりだったの、そんでそれ諦めていいの、あれがお前振った相手? 生理なさそうだな、今日はダメだけど明日はOKになるって?」
まあやを帰して店を改めて片付ける。手伝いもせず行儀悪くキングがテーブルに腰掛けて長い脚を組んでいる。
「生理はなさそうだねえ」
「いいのかよ」
「うん?」
「手元に置いときたいみたいに見えたけど」
「俺、恋愛対象女の子よ?」
「別れた奥さんにしか興味ないくせに」
「……まだ別居してるだけだからね?」
「素直になれないでな、緑の紙提出されんのも時間の問題だぜ」
「さすが、二度も提出されちゃった人の言うことは重みがある」
「二度ともふたりで出しました」
「……それもどうなの、キングちゃん」
まあやちゃん可愛いよねえ、とサリーが言う。キングが眉を寄せて首を傾げたが、それは見なかった振りをする。
「他人のまんまで居たい、って言ったけど、友達にはなりたい」
「友達は他人なのか」
「べったりになると、うちの奥さんくらい傷付けちゃいそう」
「好きになりそうな匂いでもしてたか?」
「すごく。いい匂い」
「そりゃヤバいな、あの男に全力で逃げろって言っとくか」
なにそれキングちゃん、と情けない声を出しながらもサリーが小さく笑った。
人への助言はいくらでもできるのに、自分のことは上手く分からない。上手く動けない。難儀なものだ、誰か俺みたいな人間がどこかにいて、俺に上手いこと素敵なアドバイスでもくれればいいのに。
「でもさ」
「あん?」
「まあやちゃん、あの子の人生の登場人物になりたいなって思っちゃってさ」
「くさいこと言ってんなあ」
「通り過ぎちゃう通行人より、できたら短くても顔のアップとセリフのある役がいいなあって思っちゃった」
「関わるつもりか」
それは他人じゃない、キングが呆れた様子で吐き出す。けれど付き合いも長いので、サリーの性格もそこそこ把握している。言っても無駄だし、別居中の奥さんには死ぬまで素直になれない、唯一の面倒くささを抱えたまま生きていくだろうことも。
「困った奴」
「俺?」
「お前以外に誰がいんの?」
「まあやちゃん?」
「あれは結構素直そうだったぞ?」
「じゃあ、キングちゃん?」
「お前なあ……殴っとくか」
「暴力反対!」
暴力は刺激的で愛と勘違いしやすいけど全然別もんです! とサリーが叫ぶ。
「困った奴」
「二度も言った」
「大事なことだから」
「俺、そんな困った奴かな……まあやちゃん、俺のこと胡散臭いとか思ってたらどうしよ」
「思われてないはずがない」
「えええええ!」
でもまあそういうお節介なとこがいいとこでもあるから仕方ないんじゃねえの、とキングは言わないで鼻だけ鳴らす。
「まあやちゃん、あんまり泣かないでいられるようになるといいなあ」
「これからお前、ガンガン関わるつもりなんだろ」
「なんか人を借金の取り立て屋みたいに……」
「東雲さんに連絡つけてやる、貸しはでかいからな」
「ひー!」
それでも。
それでも。
誰かが誰かに助けられるとき、その誰かとの付き合いの長さは関係なかったりする。すべてはめぐり合わせだったり、タイミングだったりで。
まあやちゃんから連絡があったら、とサリーはどこかで他人事のように考える。別居中の妻に、謝れるような気持ちになれるかもしれない。謝ったとしても今更で、それはきっと遅すぎるのだろうけれど。
「まあやちゃん、って言ってるとさ、」
「あ?」
「なんか、こう、蜂蜜とか入れた紅茶とか、そういう甘いもん飲みたくなるよね」
「……お前コーヒー党だろうが」
なに言ってんの、とキングが今日何度目になるのか分からないが、また鼻を鳴らしたから、サリーは声を出さずに笑った。