仄暗い大釜の部屋にて、二回目
眠たい、とても気だるかった。
どこからか聞こえる何かが沸騰する音は、まだ健在だった頃の実家の母親が朝食に作る味噌汁の音を彷彿とさせた。
小気味良く木のまな板を叩く包丁の音はないけれど、ボチャボチャと下品な音と一緒に大根が鍋に投入されているらしい。油揚げも入れてくれたら完璧だ。そうだ、鮭も焼いて『おこうこ』も付けよう。母は知っていただろうか、『おこおこ』と喋っていたものは『おこうこ』が正しい発音だということを。
(でも可愛いよね、おこおこって語感…)
なんて微笑ましい母の後ろ姿を想像しながら、私は足元が異常に熱いことに気付いて目を開けた。
「ど…どこだここ!ってか、あっつ!」
そこは仄暗い室内で、壁際には天井まで伸びる大きな棚に数々の奇妙な中身の入った瓶が納められている。
「こ、こは…」
見覚えがある。あるに決まっているが分からない。エリーは死んでエリシュカになったではないか。正しくはエリシュカ・マイヤーズという女性の体を間借りしていたのだが、細かいことを気にしている場合ではない。
見下ろせば、再会が複雑で喜び難い貧相な花村エリーの体が宙に浮いている。そして足元には変わらずぶくぶくと泡を立てる泥のような液体の張られた大きな釜。
次に見上げると、頼り甲斐のない荒縄が一本天井の梁に巻き付いていた。
「戻って…きた…の…?」
なにが起こったのかは分からないが、私はあの部屋に戻ってきた。エリシュカ・マイヤーズのことは残念だったが、今は彼女の死を惜しんでいる暇はない。何故ならば、臙脂色のローブの人物がいつまた私の命綱を切りに来るか分からないからだ。
「ど、どうしよ…?」
宙吊りの体を揺らせば、臙脂色のローブの人物が昇って来ていた階段付きの足場に届くかもしれない。爪先だけでも届けば、火事場の馬鹿力を発揮して踏ん張れる気がする。身体能力の残念さには折り紙つきだが、なんとかなるだろう。
きょろきょろと周囲を確認すると、どうやらローブの人物は室内に居ないらしい。逃げ出すならば今だろう。
「お願いだから折れたりしないでよ…」
見上げた梁に願いを掛けて、大釜の隣に備え付けられている足場目掛けて空を蹴る。
齢三十うん歳花村エリー、必死の脱出法である。
昔、祖父母の古い家の応接間に置いてあった大きく立派な置時計。童謡に出てくる時計のように振り子が揺れて、定刻通りにボーンと少々不気味に鳴る。祖父が大切にしていたあの時計は、いつからか見掛けなくなっていたけれど、それはいつ頃気付いたのだろう。
走馬灯のように遡る記憶の欠片達が溢れてくるが、悠長に浸ってはいられない。
あの時計の振り子のように空を掻き、歯を食い縛ってばた足で泳ぐ。頭上の梁はぎしぎしと不穏な音を立てているから、そう長くは私の体力同様持ちそうにない。
「ふん!…ふっ、ん!」
色気も女子力もない掛け声が功を奏したのか、私の右足の爪先が足場に掛かった。そのせいでがに股のままクルリと回るが、柔軟とは無縁の残念な体は無様な一言に尽きる。しかし諦めずに左足も掛け、第一の難関を突破した己を讃える。
「やった!やれば、出来るじゃん、私!」
今ならふくらはぎを吊って五分で溺れたスイミングスクールに通い直せるかもしれない。爺婆に混じってプールの中をひたすら往復せずに済むかもしれない。
嬉しさではしゃいだ私は、足場の頂上に臙脂色のローブの人物がずっと居たことに気付いていなかった。
「やった…って、ん?」
恐らくローブの人物は、私が目を覚ました頃には既に部屋の中に居た。余りに私が勢いよく喋りだしてばた足を始めたので、じっと見守っていたに過ぎないのだろう。
「あ、あー…元気…?」
向かい合ったがに股のまま機嫌を問うてみたが、ふんふんと野太い声と必死過ぎる形相を晒していたので今更繕うには穴が巨大過ぎていた。
「ま、待って!お願いだからちょっと待って!」
やはり手に持っていた大きな鉈をおもむろに構える臙脂色のローブの人物が俊敏な動作で私の足元を掠める。思わず離してしまった足が空を掻き、振り子のように体が揺れて梁が悲鳴をあげた。
「やめて!ほんっとお願い後生ですから!」
ぎしぎしと揺れる体と近付く刃物に早口で情けを乞うが、やはり梁は古くて脆くなっていた。体が振り切った瞬間バキッと大きな音がして、背中からぶくぶくと煮立つ大釜に吸い込まれていく。
吸い込まれながら大鉈が首を真横に横切って喉が裂けた感覚がした。
(ああ、やだ、私また死ぬの…?)
途切れる直前に浮かんだ言葉は、ローブのフードを深く被ろうと手を添えていた人物に届かず終わってしまった。
「おおエリシュカよ、情けない!
お前は死んでしまうと言うのか!
いいやエリシュカ、まだ終わらない。
さあ立て、目覚める時が来た。」
→諦めますか?
→もう一度!
「さあエリシュカよ、もう一度だ!」