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首をはねたら恋をした  作者: 茶月ちゃこ
巨乳の幼妻、エリシュカ・マイヤーズ
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4、エリシュカ・マイヤーズの場合

 行き交う人々の喧騒は耳に遠く、心臓の跳ねる音ばかりがエリーの思考を支配している。


 (もしかしたら、お仕事なのかも。ほら、気分が悪くなったとかでさ!相方の騎士は医者を呼びに行ってるのかも!)


 怒りのボルテージを上げていくエリシュカの体を宥めつつも、エリーだって衝撃は受けた。夫婦として過ごす二人は、幸せという名の額縁に飾っても見劣りしない程眩しく彩られていたからだ。


 (浮気じゃありませんように、ありませんように、ありませんように…)


 夫と女性が入って行った路地裏の入り口に立ち、エリシュカの視線は空を仰いだ。二階建て、三階建ての家々の間の路地は狭く、渡されたロープに掛かる洗濯物もあるせいか陽の光は満足に石煉瓦の地面に届いていない。薄暗く、苔が生えるこな路地裏は、後ろめたいことをするにはお誂え向きの場所だった。


 (居ない…どこかで曲がったのかな…)


 薄暗い路地に人影はない。きっとどこかの角を曲がって密会しているのだろう。不気味にエリシュカの頬を撫でた流れた風に乗って、夫の整髪剤の臭いが微かにした。


 (行ってみよう…)


 薮はつつけば大抵悪いことしか出てこない。エリシュカよりも経験測でそう思うエリーは、足音を立てないようじめじめとした石煉瓦の上を歩いた。


 (あーあ、さっきまでの晴れやかな人生計画が台無しだ…)


 エリシュカ・マイヤーズという体を間借りしようとしていたエリーが偉そうなことを言うつもりはないが、数日間一心同体だった彼女の幸せが崩れる場面を望むような趣味はない。


 (せっかく幸せになれたのにね、エリシュカ…)


 最早浮気を断定付けたエリーも昔、プロ相手なら浮気にはならないと豪語した男に手痛くもてあそばれた過去を持つ。なんでも、エリーのささやかな山では出来ないことをしてもらいたかったらしい。思っていても口に出してはならないことも世の中には多々ある。当時の男の下衆な姿は、今思い返しても腹が立つ。


 そんな思い出を反芻して胃の辺りが酸っぱくなってきた時に、人の会話する声が耳に届いた。

 声の様子から、どうやら男女が言い合っている。

 慎重に忍んで声のする路地を覗くと、やはりというかなんというか。民家の漆喰の壁に片手を置くエリシュカの夫と、囲われるように彼を見上げる黒髪の女性が見つめあっていた。


 (か、壁ドン…だと…?)


 エリーがされたことがあるのはプロに走った男とは別の男から受けた腹パンだけだ。あれは痛かったし最悪だった。ついでに言うならエリーがしたことがあるのは残業に残業を重ねて残業に囚われた時に人っ子一人居なくなった暗い会社でした机ドンだけである。この落差はなんなのだ。

 どこの昼下がりのメロドラマやミステリードラマだろうか。木の柱に爪を立てる家政婦のようなエリシュカが耳を澄ますと、言い合う二人の会話の内容を汲み取れた。


 「もう限界よ…」


 「駄目だ、もう少し待ってくれ」


 「嫌よ、そうやってアンタの思い通りになるとは思わないで。昔っから我慢ばかりさせて」


 「待て、エリシュカからあの言葉をもらえばいいのだろう?もう少し、もう少しなんだ」


 「その名前を私の前で言わないで!」


 押し殺しながらも聞き取れた言葉に、エリーは確信を得た。これは黒だ、真っ黒だった。


 (あれか…騎士の自分から離縁を申し込むには外聞が悪いからエリシュカが愛想を尽かすように誘導しているという訳か。いるよ、いるいる。よくいる奴だ、悪者になりたくない自分可愛い奴)


 会話から察するに、二人の関係は長いらしい。エリシュカはきっと、なんらかの原因で一緒になれない男女の関係を隠す為の簑だったのだろう。


 (エリシュカ…泣かないで…)


 もう少し近付けば唇が合わさりそうな二人の姿に、堰を切ったようにボタボタと大粒の涙が胸元に落ちていく。エリーの体だったなら、地面に吸い込まれていたであろう。つくづく立派な山である。


 (悲しいのは分かるけど、鼻を啜ったりしたら気付かれちゃう。エリシュカ、下がって…)


 主導権を譲ってくれないエリシュカの体が、案の定鼻を啜って物音を立てる。


 「誰だ!?」


 聞いたこともない夫の険しい声色に怯え、こちらを見た二人の瞳に短い悲鳴が喉を突く。


 「エリシュカ?」


 「嘘、なんでこんな所に…」


 「ま、待ってエリシュカ!違うんだこれは…!」


 慌てた様子で手を伸ばしてくる夫に、買い物かごを投げつけようとしたが、飛距離が足りずに石煉瓦に叩き付けられる。怯えた視線で窺えば、悲しそうに眉を下げた彼が歩を止める。


 「最低よ…」


 結婚したての頃、夫がプレゼントしてくれたその丁寧に編まれたかごが嬉しかった。毎日美味しいご飯を作ろうと張り切りすぎて注意を受けたこともあった。作りすぎたおかずを、それでも彼は全部食べ切ってくれてとても心が満たされた。

 少ない休日は城下町を歩いて、次の休みはあの店に行こうと約束もしていた。

 エリシュカが育った孤児院に手伝いに行く日は、迎えに来てくれて二人で手を繋いで歩いた。


 「嫌い…」


 溢れる涙と一緒に落ちていく思い出の欠片は幸福に満ちていて、こんなはずではなかったのにと口を突いて出る声は止まらなかった。


 「嫌い、嫌い…あなたなんて大嫌い!…最悪よ…」


 エリシュカの言葉を静かに受けた夫は、並んで立つ黒髪の女性と目を合わせてため息をついた。

 それは長く、深いため息だった。


 「そうか…」


 感情の削ぎ落とされた低い声で、夫は石煉瓦の上に転がるかごを蹴りながら腰元に手を伸ばして歩き始める。


 「それじゃあ、終わりだ」


 逃げる間も無く下から弧を描くように振り上げられた切っ先は、エリシュカの喉元を撫でるように鈍色の残像を残した。


 「エリシュカ、――…」


 何か夫が呟いたけれど、首元から舞い上がった真っ赤に濡れたスカーフに目を塞がれたエリシュカには結局分からず終いになった。


 (え、嘘でしょ、エリシュカ死んだの?)


 エリーのそんな疑問を携え、エリシュカ・マイヤーズの人生は終わった。

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