2、エリシュカ・マイヤーズの場合
落ち着いて考えをまとめようとしたエリシュカ改め、花村エリー。しかしながら体はエリシュカだったので、働き者の彼女に習って勝手に家事に勤しんでしまう。先程掻いて崩れた四つ編みも、てきぱきと編み直して洗濯物の溜まったかごと石鹸と洗濯板を両手にさっさと歩き出していた。
「若い体はさくさく動くのな…」
かごの中の洗濯物に突っ伏して呟いてみたが、些か臭うこもった悪臭に鼻を曲げた。
エリシュカ夫妻の家は城下町にある。区画整備された碁盤状の美しい町並みの、騎士や城仕えの家族向けの住宅街の一画が二人の小さな城だった。石焼き煉瓦と木造の合わさった二階建ての家で、激しい傾斜の付いた三角屋根は赤かった。
近くを流れる用水路へと歩きながら振り返ると、おとぎ話に出てきそうな町並みに感動を覚えてしまった。
それと同時に、着々と地盤を固める現実の二文字が重くのし掛かる。
(どーしよ、なんかこれ現実っぽいわ)
体が覚えているとは便利なもので、エリシュカと同様に洗濯物の山を運ぶ主婦達とすれ違いざまに立ち止まって挨拶をする。好意的な挨拶を返してくれる人は少数で、大半は眉をひそめて嫌々返すか無視をされた。
(ああ、スカーフを巻いてないから…)
エリシュカの首を押さえてエリーは大きくため息を吐く。生まれつきあったらしいこの痣のおかげで生後間もなく捨てられたエリシュカの境遇を鑑みれば、大勢の人間には歓迎されるはずがない。いつもは自己防衛の為に巻くスカーフを忘れたのはエリーの落ち度だ。失敗したと落ち込んだまま大衆洗濯場でせっせと自分の役目を果たした。
「えーっと、次は掃除を…って、雑巾ぼろいな!」
埃が外に流れて行くように開け放ったまま掃き掃除を終えて取り出した雑巾は、使い古しというよりは潰したと表現した方がしっくりときた。
「エリシュカはものを大事にする人か」
頷きながら自分の頭を撫でてみるが、端から見ればただの不審行為でしかないことに気付いてエリーは水拭きを始めた。
エリーが憑依したエリシュカという若い女性は、エリシュカ・マイヤーズという。生まれは不明だが、教会が運営する孤児院で育った為敬虔な教徒でもある。真面目で勤勉な性格のようだと、細かい場所まで拭く体の動きに舌を巻いた。
十七の時に夫の騎士と出会い結婚して現在十八の歳になる。十代の肌の感覚を懐かしんで実感しつつ水を張ったバケツで雑巾の汚れを落として、再び拭き掃除に戻る。
エリシュカは、首にくっきりと残る痣が原因で決して楽な人生を送ってきてはいないらしいが…とまで思い返してエリーは動きを止めた。
「そうだ…私、首をはねられた…」
今朝悪い夢と優しく宥められた場面は、エリーにとっては現実だったはずなのだ。
煮え立つ大釜の上から吊るされ、大きな鉈を持つ臙脂色のローブの人物に首を斬られたはずだった。
「私は…死ん…」
呟いた口元を慌てて押さえて急いで周囲を見渡した。とても小さな呟きだったが、どこから漏れるか分からないので用心するに越したことはない。
しかし、口元に添えた手は雑巾仕事をしていたせいでザラザラとしていてほのかにどぶ臭い。
ため息を吐きながら台所に置かれた水がめから手洗いと洗顔の用意をした。
(この体は私のものじゃないわね)
その事実は体に染み付いた十数年の記憶と仕草から間違いないと見当をつけてみる。体の前で腕を組むと分かる、エリーより豊かな二つの山が主張していることに大きな要因があるのだが。
(組む腕で下から支えるとか!これ憧れたやつ!)
エリーの知る限りでは見たこともない位曇った姿見だったけれども、雲の合間からやっと顔を出した陽の光が差し込む窓のそばで年甲斐もなくはしゃいでしまった。本物はいいものだと揉んで確認していると、隣人である年かさのいった奥さんの怪訝な視線とかち合った。
「はしたないわよ…あなた…」
「す、すみません…」
調子に乗って揉んでいる場合ではない。エリーはそそくさと窓を閉めた。しかし、エリーはまた手を置いて力強く頷いた。確かにこれは病み付きになる男性陣の情熱にも納得がいく。魅惑のマシュマロボインちゃんが目の前にあって、触りたい放題と言われれば…文字通り飛び付いて吸い付きたくなるだろう。
「は…!やだ、癖になりそう!」
無意識の内にまたエリシュカの胸をむにむにとしていたエリーは首を振って気を取り直す。エリシュカは違えどもエリーには、現状を確認する義務がある。
「いけない、市場に行かなくちゃ!」
ただし思考と行動が、伴わない。