1、エリシュカ・マイヤーズの場合
「起きて、エリシュカ」
体を優しく揺すられて、エリシュカは閉じていた目蓋を震わせた。涙に縁取られた目尻に吸い付いて慰める唇の持ち主は、また優しく声を掛ける。
「エリシュカ、どうしたの?」
掠れた低い声に促され、ゆっくりと持ち上げた揺らぐ視線は一人の人物の姿を捉えて安堵を覚える。
「怖い夢を…見たの…」
我ながら子供のような言い分だと思う。しかし、喉元を押さえるエリシュカを宥める優しい旦那様は笑ったりせずに目を細める。
「もう怖くない、怖くないよ」
首に添えられたエリシュカの手の甲に口付けを落としてから頭ごとたくましい胸に抱き込める。
「ほら、こうすれば君の首は僕のものだ」
「ええ、これなら怖くない」
朝日の差し込むベッドの中で、優しい彼の元で目覚められたことはどれほど幸福なことだろう。夢の中で刃が通った場所と同じところにある、変わった形の痣は外聞も悪かった。首切り、首はねと揶揄され諦めていた人並みの幸せも、運命の男性と巡り会う為の試練だったのだと、今なら胸を張って言える。
クスクスと二人でじゃれ合っていると、ふと気が付いたエリシュカは彼に問う。
「ねえあなた、今何時?」
「今は7時を過ぎたところだ」
のんきな声で教えてくれた彼の背中に回していた手は、時刻に驚いて剣創の残る厚い筋肉をぺちんと叩く。
「やだ、寝坊じゃない!」
慌ててベッドから降りようとしたエリシュカを、いつもは国の為に剣を握る硬い手のひらに掴まれて引き戻される。
「今日は遅番なんだよ、可愛い奥さん」
「え…そうなの?」
見つめ合ってまた交わされる口付けに、くすぐったくなって笑ってしまった。
「そうなの。だからもっとゆっくりするのもいいんじゃないかな?」
「だめよ、奥さんって意外と忙しいの。朝食を作るわ、待ってて」
「君の居ないベッドにこもる位なら、僕も台所に立つさ」
「まあ…!」
王国騎士団に所属するエリシュカの夫は、堅実な働きと目尻の下がった穏やかな顔立ちの騎士だ。纏う空気と同様の気性で、彼は出会った頃から変わらずエリシュカに甘い。出会って数分後には恋人に乞われて、一ヶ月後には結婚を申し込まれた。多分、少々情熱的な人なのだ。
宣言通りに広くはない台所に立ち、危なっかしい手付きで芋の皮剥きを手伝ってくれた彼と摂る朝食は、エリシュカにとって幸福の頂きだと思う。
「今日は帰りが遅い。先に休んでて」
「ええ、気を付けてね」
新しい絆創膏の巻かれた指先で頬を撫でられ、夫を玄関先で見送る時の寂しさにはまだ慣れない。これが毎日続いていけば、いつかはぎゅっとしぼむ胸の奥も簡単に宥めることが出来るだろうか。
置いて行かれた子犬のようにきゅんと鳴けば彼は帰って来てくれるだろうか。なんて詮無いことを考えている余裕はない。外は今日もいい天気だ。急いで洗濯をして掃除をして、市場に買い物に行かねばならない。彼が疲れて帰って来た時、美味しいご飯で迎えたいと思うから。
「…なーんて、な!いや、なに考えてんのよ私、薄ら寒くて凍えるかと思ったわ!」
締め切った木造の玄関ドアに脱いだピナフォアを叩き付け、エリシュカは口汚く言葉を吐いた。
「なにこれ、夢?いや、夢にしちゃやけに生々しいチューだった…!朝からすごいな騎士!」
目が覚めてから繰り返し落とされた口付けを思い出して、襟口が絞られた綿のブラウスで口を拭う。唇が取れそうな程乱暴に動く仕草のエリシュカには、彼女の夫も百年の恋から目覚めるであろう。
しかし、エリシュカの中にいるのは別の人格であった。
「もー、なーにこれー!」
器用に編まれた四つ編みをがしがしと掻いたエリシュカの姿を借りていたのは、花村エリー、彼女であった。