17. 指先には白い花束を(2)
そして翌日、今日は私の代わりに様々な画策の実行を任せていたアネットが遂に役目を終えて戻ってくる日だ。
彼女の顔を見るのはこれで数ヶ月振りであることになる。
私専属の侍従であると同時に、かれこれ十年近くもの時間を共に過ごしてきた大切な親友でもあるアネットの顔を見れることはとても嬉しい。
どうやって労おうかと考えた結果、私はきっと彼女に似合うだろう装身具を市場を見て回って購入すると同時に、彼女の好物であるアップルパイを焼いていた。
空いている厨房を借りると、そこでホールケーキのような大きなものを二つ程焼き上げていく。
使った林檎はかなり蜜味の強く甘いものであり、室内にはほのかな林檎の香りと小麦の匂いとが広がっていた。
やがてオーブンの中でそれが香ばしく焼き上がると、皿へと乗せて自室へと運ばせる。
「ただ今帰還致しました、お嬢様」
「久しぶりね、アネット。本当にご苦労様」
すると事前に手紙で伝えておいた私の部屋の扉が叩かれ、アネットが入室してくる。
扉を閉め、こちらに向けて最後に見た時と変わらない美しい礼をする彼女。
私は、久々に姿を見る大切な侍女に近付くと、その私より十センチは背の高いだろう身体を抱擁した。
彼女と顔を合わせるのは学園を出奔して以来なので、かれこれ半年近く振りになるだろうか。
互いに様々なことをしていたとはいえ、こうして久しぶりに話せることにはなかなか感慨深いものがあった。
「さあ、座って頂戴。貴女のために林檎の焼き菓子を作ってみたの」
「これは……私などのためによろしいのですか?」
「もちろんよ。貴女は大切な侍女だもの」
再会についての祝いの席ということで、私とカルロだけでなく両親やクララもおり、卓上にはワイングラスなども並べられていてそれなりに盛大な席となっている。
その主賓である彼女に対して席に着くように促すと、アネットは椅子を引いてそこに腰を下ろす。
私も自らの席に着くと、アップルパイが乗った皿と白ワイン入りのグラスが並べられた大きな円卓を七人で囲むこととなる。
「では、アネットが帰ってきたことを祝し、本日は楽しみましょう」
「そうね。娘のためによく頑張ってくれました。これからも手助けしてあげてね」
「はい、奥方様、お嬢様。私などのためにこのような場を設けていただき、誠に恐縮です」
ひとまず私が祝宴の始まりを告げると、そうアネットに対し声を掛ける母。
すると、それに対して驚いたような表情を浮かべていた彼女がそう言葉を返す。
そうして、久々に皆が顔を揃えた団欒の時が始まったのだった。
私の侍女であるアネットは、その職にある者として非常に高いスキルの持ち主である。
そんな彼女がいるのといないのとではしなければならない事柄の進行度なども全く違い、翌日の夕方にはフェーレンダールへと赴くための準備は全て終わっていた。
例えば、一人でするとなれば長い時間を要しなければならないドレスの着付けなども、アネットが手伝ってくれればその何分の一もの時間で終わってしまう。
そもそも貴族女性の衣服は一人で着ることを前提としていないのでそれは当たり前なのだが、そのように身支度に使う時間が減ると共に手は増えたとなれば、それまでと比べて作業効率が大幅に向上するのも当然だった。
そして一夜を明かすと、私は殿下の元へと国書を貰いに行く。
封を閉ざす前に彼は書面の内容をこちらへと見せてきたが、膠着語であるベルフェリート語の文語を表音文字で筆記したそれはさすがというべきかとても達筆であり、文面もきちんと外交儀礼に則ったものであった。
殿下の手によって蝋で封をされたそれを受け取ると、私は礼をしてから執務室を退出し、そして庭へと向かう。
広大な執政府の庭には、我が国の正使節である私が目的地に到着するまで移動に用いることになる馬車が準備されている。
無論馬車は一台ではなく数十台用意されている(それだけの数が本当に必要なのではなく、敢えて多く用意することによって少しでも我が国の威を示そうという意図である)のだが、その大半は荷を積むためのものであった。
荷台の中には、アネットの指揮の下執政府の侍女達によって多少の贈り物の他に私の着替えのためのドレスや道中における食料などが乗せられていき、それが終わると私とカルロとアネットや、使節団の一員としてこちらに同行する属吏達(つまりこの場合私が官吏としての仕事をこなすということだ)がそれぞれ馬車に乗り込んでいく。
言うまでもないことであるが、平時でも賊が全くいない訳ではないためにこのような馬車のみでどこかに向かうことはないし、ましてや現在のような戦乱の只中であればなおさらのことである。
当然馬車には護衛がつくことになるのだが、その役目は第三騎士団へと与えられていた。
騎士団長自らが指揮を執る第三騎士団の騎士と従者を合わせて一万というのが、此度の護衛の兵力である。
彼には、私が領地を出て学園に入学することになった際にも王都へと向かうための馬車の護衛をしてもらったことがあったので、ふとその時のことを思い出す。
時系列で言えば僅か半年足らず昔のことでしかないのだが、しかし先王の崩御以降激動と表現してもいいような事態が続いていたために、その頃があたかもすっかり大昔のことであるかのように思えた。
ともあれ、精鋭でありかつ本来このような護衛任務を担当しているために得意とする第三騎士団が、それも一万もの数が護衛であれば道中における安全は半ば保証されたようなものであろう。
そして出立の命を下すと、御者の手によって馬車はゆっくりと港の方へと動き始める。
埠頭へと到着すると馬車ごと輸送船に積み込み、ルヴジェントへと向けて船団が流れに逆らって北上する。
やがて到着すると兵員と馬車は船から降りて城外へと向かう。
普段であればそれだけで数時間は要するところであるが、しかしそれは単純に道が細く入り組んでいるという事情もあるものの複数の諸侯の連合軍の場合細部にまで指揮が行き届かないためであるという理由も大きく、故に厳密に指揮が行き届いている第三騎士団の場合には通常よりずっと短い時間で通り抜けることが出来た。
外へと出終えると、馬車は車輪を転がしながら、穏やかな速度で街道の上を進んでいく。
窓の外には、畑や水道橋などの見慣れた風景を背にするようにして騎乗した騎士団長の姿があり、陽光を反射して眩く煌く銀髪を甲冑の下に覆い隠した彼は軍勢の指揮を執っている。
この国ではまだサスペンションが発明されていない(ロートリベスタ家当主であった頃には伯爵家で個人的に用いる馬車には取り付けていたのだが)ために車体には衝撃を緩和する機構が存在していないものの、しかし街道が平坦に整備されているために揺れはあまり感じることがなく、乗り心地は決して悪いものではなかった。
むしろ、街道が平坦に整備されているのでその上から外れでもしない限りは強い揺れを感じないためにサスペンションの必要性が薄く、それが未だ発明されていない理由の一つであると言えるだろう。
もし仮に街道が整備されておらず馬車に乗る度に人々が酷い揺れとそれによる体調不良に襲われていたとしたら、きっとサスペンションは既に発明されていただろうと思っていた。
ともあれ、そういった理由により揺れがほとんど無いために馬車に乗っていても酔ってしまう心配はほとんど無く、故に柔らかな椅子に身を預けながら本を読むことが出来る。
現時点においてこの中で最も権限が強く最高決定権を持っているのは第三騎士団長ではなく外交使節を殿下より任されている私であるのだが、しかし何か不測の事態でも起きない限りは私が命じなければならないことは特に存在しない。
私は赤く装丁された一冊の本を取り出すと、その最初のページを開く。
この書物は、クララに命じて取り寄せてもらった書物であり、これから向かうことになるフェーレンダール王国において近年発表された小説であった。
かつて実質的な宰相職にあった私は、外交のために近隣諸国で公用語として用いられている二十数ヶ国語を覚えている。
しかしながらそれはあくまでも二百年前の時点で用いられていたものであり、現在話されているものとはそれなりに異なっているだろう。
例えば中国語の中古音と中世音の間で起きた声母の大幅な簡略化のような大規模な変化はそれこそ何らかの要因によって他の言語から多大な影響を受けない限り起きない(この例の場合はモンゴルによる征服と支配が主な理由である)とはいえ、しかしそうした出来事がなくとも二百年もあれば当然言語はそれなりに変化することになる。
日本語でも記紀が編纂された時代には八母音体系であったものが、特に他の言語からの影響を受けた訳ではないにもかかわらずその二百年後である西暦九百年頃には完全に五母音体系へと変化している(もっとも、現代日本語に限って言うならば国語教育の整備によってずっと昔から新たな変化がほぼ止まっている状態であるが)し、ベルフェリート語とて前世の時代では日常的に用いられていた語彙や構文のいくつかが既に忘れ去られて死語となっているのだ。
これから向かう先で話されているフェーレンダール語においても当然何かしらの変化はあるはずであり、それを知っておかなければ最悪の場合正確に意思を疎通できない可能性もある。
そこで、近年記された小説を読んでこの二百年間で一体どのような変化が起きているのかを把握して備えておこうという意図であった。
目次から次のページを捲り、あちらで使われている我が国のものとは当然違う文字を読み進めていく。
内容はあちらに伝わる童話をベースとした現代が舞台の恋愛話であり、元の話を知っていても楽しめるように作られているようであるし、ちょっとした日常の描写の中でも我が国との風俗の違いが窺えるのがとても楽しい。
長編らしくなかなかに分厚いので、道中の暇を潰す読み物としても期待出来そうだ。
そう思いながらも私はまたページを進め、物語の続きを読み始めたのだった。
明日は二話更新致します。
更新時間は八時と二十時です。




