int.2 再生(2)
初めて母と顔を合わせた日から更に二年が過ぎ、私は五歳になっていた。
あの日以来母が所用で外出する日以外は毎日彼女と食卓を共にしているのだが、彼女の礼法の教育はなかなかに厳しい。
ある程度のマナーはOLとして働いていた頃に必要に迫られて覚えていたが、似通ってはいても完全に全く同じ訳ではないし、貴族に求められるような厳密なレベルで習得していた訳ではないので初めはよく誤りを指摘された。
もちろん食事の場だけでなくそれ以外にも時間を割いて歩き方や座り方などの所作、プライベートな場で顔を合わせた際の他の貴族への応対、舞踏会や晩餐会のような公の場での他の貴族への応対、また貴族女性としての化粧についてや場に合わせたドレスの見繕い方など、母から教わったことは実に多岐に渡る。
特に他の貴族への応対に関しては家の外聞や領地運営にも関わってくることなので致命的なミスは避けねばならず、また相手の性別がどちらかによっても変わってくるために覚えるべきことがとても多かった。
中には地球にはないベルフェリート語特有の言い回しや諺なども存在しているし、そういった意味で私にとって最も難しかったのがこれである。
だが、自身も元々大貴族の生まれでありそれらを完璧に身につけている彼女の教えは厳しくも分かりやすく、そのおかげで五歳になる頃には全てを習得することが出来ていた。
先日母が私に合格を告げた時、初めは全てを身につけるまでに後四年は必要だと思っていたと喜び、頭を撫でてくれたのを覚えている。
そして五歳の誕生日に毎年恒例となっているレアチーズケーキを口にしてから数日が過ぎ、私は母に呼び出されていた。
部屋に私を呼びに来たメイドの後に続いて廊下を歩き、私はいつかと同じように母が待っているだろう居間へと向かう。
開かれた木製の扉の奥へと声を掛けつつ入室すると、背後で扉が閉められる音を聞きながらドレスの裾を掴み黒革のソファーの上に腰を下ろしている母へと礼をする。
「よく来ました、ダリア。まずは座りなさい」
「はい、お母様」
彼女に促され、私はテーブルを挟んで逆側に置かれた同じタイプのソファーに座ると、正面から向き合う形になる。
相変わらずソファーの座り心地は快適であり、それはまるで水の上に座っているかのように何の抵抗もなく私の身体の形に沈み込む。
「貴女には私から教えることはもう何もありません。どこに出しても、誰に会わせても恥ずかしくない娘です。そこで、貴女のために家庭教師を用意しました。本当は七歳になってからと思っていたのですが、貴女ならば問題は無いでしょう。明日より勉学を教わりなさい」
そう言って、母は使用人達の控え室へと繋がっている紐を引く。
急な話なので少し戸惑ったが、つまり貴族として必要な礼法の授業が終わったので、今度はやはり貴族として必要な学問の授業を受けることになるらしい。
書架にあった本で読んだところによれば王家によって設立されたそのための貴族の子弟層向けの学園が王都にはあるそうだが、そこに入学するのは家庭教師を雇う余裕の無い中小の貴族に限られており、主に政治的な理由から大貴族の子女が入学することは滅多に無いそうだ。
封建制社会であるこの国においては王家の権力はそう強くはなく、逆に言えば広大な領地を持つ大貴族の力は時には王家に比肩し得る程に強い。
ある程度予想してはいたが、こうして家庭教師が雇われたということは私も学園には入らないのだろう。
そのまま少し待つと、部屋の入り口が開き外から一人のまだ若い男が姿を現す。
何気に転生してから父以外の男性と顔を合わせるのはこれが初めてなのだが、黒を基調に様々な装飾が施されたチュニックに身を包んだ彼は身なりや物腰から見て恐らく貴族なのだろうと思われた。
私達へと向けて礼をした男は、そのままこちらに近付くと母の座っているソファーの隣で立ち止まる。
「この方はグローヴァー子爵家領主のエルファス・グローヴァー殿です。明日より貴女の家庭教師を務めていただきます」
「お初にお目に掛かります、ダリア様。お嬢様の勉学を担当させていただくエルファス・グローヴァーと申します。どうぞお見知り置きを」
「丁寧なご挨拶恐れ入ります、グローヴァー様。私はダリア・ロートリベスタです。どうかご教授の程よろしくお願い致しますわ」
母が彼の身分と名前を私に紹介すると、それに続いてエルファスという名らしい彼が腰を折ってこちらに挨拶をする。
私は立ち上がって挨拶を返し、母に教えられた通りの作法で彼に対し礼をした。
領地の広い大貴族はそうではないが、それ程の領地を持たない小貴族はそこからの収入だけでは生活が立ち行かないため、副業のようにして当主が他で収入を得ていることが多い。
仕事先としては国政に携わる官吏が最もメジャーだが、学識の深い者であれば王立学園の講師を勤めたり大貴族に子女の家庭教師として雇われることもあると聞く。
彼もまた、そうして我がロートリベスタ家に雇われたのだろう。
「明日の授業ですが、まずは史学から教えさせていただきます。史書を用意しましたので後程お受け取りください」
史書を用意したというエルファス。
そもそも、王家や大貴族が力を持つこの国においては歴史家も誰かに仕えながら研究を行っていることがほとんどであり、そのために歴史家が仕えているのが誰かによって起きた事件に関する解釈が大きく違っていることがある。
なので、同じこの国の歴史を記した史書であっても本によって全く異なった解説がされていることもそう珍しくはないし、時にはパトロンに都合の悪い事件を意図的に記載していないこともあるのだ。
無論、それは記載されている内容にバイアスが掛かっていることを意味しているので、客観的にこれまでの国史を理解するためには複数の史書を読み比べて自分で情報を取捨選択していく必要がある。
書架にあった史書には既に目を通したのでおおよそのところのこの国の歴史は知っているが、彼が用意したという史書の著述者が誰か(我がロートリベスタ家の援助を受けている者によるものなのは間違いないだろうが)によって何を教えようとしているのかも変わってくるので、それを確かめるためにも予習として後で目を通しておかなければならないだろう。
「顔合わせはこの程度でよいでしょう。グローヴァー殿、娘を頼みましたよ」
「畏まりました、奥方様」
本当に今日の用件は顔合わせだけだったようで、母がそう口にするとエルファスがもう一度こちらに礼をしてから部屋を後にし、それに続くように母もまた退出していく。
屋敷の中にいるだけでは知ることが出来るこの国に関しての知識にどうしても限りがあったが、こうして雇われたからにはかなり博識な人物なのだろうし、家庭教師が来てくれるならばそれもある程度は解決出来る。
日本とは文化も社会システムも全く異なる世界で生きていかなければならないのだ、そのためにも少しでも多くの知識を身につけておく必要があるだろう。
部屋に戻ったらメイドが授業に使う史書を持ってきてくれるだろうし、早速それに目を通そうと思いながら、私も部屋を出て自室へと戻った。
翌日の昼下がり、私は居室の円卓でエルファスの授業を受けていた。
こうして史学を教えるからには当然両親との打ち合わせはされているだろうし、つまりこの授業で教えられるのがロートリベスタ侯爵家の公式の見解ということである。
ということは、私がこの授業を通して学ぶべきものは歴史そのものというよりはむしろロートリベスタ家の人間としての立場だった。
「まずは、お嬢様がお生まれになったロートリベスタ家の発祥から始めさせていただきます。初代の当主に当たるイーリュス・ロートリベスタ様は我が国の初代国王であるアレクシス様の御世の二年にその多大なる功により侯爵へと叙されました」
ある意味で当然であるが、初回の授業はベルフェリート王国の建国についてからではなく、我がロートリベスタ家の誕生から始められた。
この国には地球で言う西暦や世界創造紀元のような形の紀年法は存在しておらず、特定の年のことは代々の国王の在位何年という形で表現される。
正確に言えばそういった紀年法もあるにはあるようだが、公には一切用いられていない上に世俗的な利用もほぼされていないために、その詳細についてはよく分からなかった。
そして、ベルフェリート王国における爵位は地球の西欧のそれとは違って土地の支配権に付属するものではなく、家系に対して与えられる地位である。
故にこの国の貴族の名乗りには支配する領地の名に由来する称号などが付けられず平民と同じく姓と名の組み合わせのみが使われているため、フランスや神聖ローマの貴族とは違って名前が短かった。
西欧やビザンツや日本のそれと違って土地の支配のための役職を由来とせず、初めから支配地とは無関係に家系に対して与えるものとして制度が作られている点で、地球に存在する爵位制度とは大きく異なっていると言えるだろう。
初代国王の下でそれなりに活躍していたらしく、建国後に定められた爵位制度の中で初代当主であるイーリュス・ロートリベスタは侯爵へと任じられ現在にまで繋がる広大な領地を得ていた。
「……と、このような経緯でベルフェリート王国最大の貴族の一つとなったロートリベスタ家は、北方における戦争の主力として活躍し、勝利の礎となりました。その功績で当時のロートリベスタ侯爵は宰相に任じられ、国全体の政を担いました」
流れと出来事自体は同じでも語り手によってやはりそこに込める価値観などは大きく異なっており、私は彼の口にする内容のニュアンスから貴族同士の関係を断片的にだが読み取っていく。
貴族同士の駆け引きには、利害関係が最重要である商談などとは異なり互いの面子や過去の対立などの要素も大きく関わってくる。
こちらからも時折質問をしつつ、それらの事柄を頭に入れていく私。
そのような調子で、初日の授業は進んでいった。




