16. 栴檀双葉
八万もの軍勢に攻撃を仕掛けるような無謀な者はさすがにいないらしく(とは言っても先日私は七万の敵軍に奇襲を仕掛けているのだが)、特に戦闘になることなくルヴジェントに入っていた。
さすがに兵の移動には手間取りつつも埠頭にて全軍が合計で百艘以上もの輸送船に分かれて乗り込むと、半日後にはレールシェリエへと到着する。
ルウに広めるように命じてあった私達の戦勝の噂は既に大きく広まっているらしく、まるでパレードのように大通りを進み執政府へと向かう軍勢を両側から眺めている市民は、こちらの姿を認めるとその度にひときわ大きな歓声を上げる。
南部地域の要であり、有事の際には南方諸国との戦いにおける我が国の中心拠点となるこの街の兵舎は数十万の軍勢が滞在することを前提として極めて大きく作られており、新たに八万の兵が入ったとしてもまだまだ余裕があった。
そして門を潜って広場に着いた私は、麾下の兵達に休暇を言い渡すと臨時の王宮として使われている執政府の建物の入り口を潜る。
全身を襲う疲労による倦怠感を受けながらも正面にある階段を上り二階に立ち、そのまま奥へと向かい、しばらく進んだ左手にある階段を上っていく。
そのまま奥へと進めば先にはレールシェリエ市街や港の管理などの政務に携わっている下級役人達の仕事に使われているフロアがあるのだが、特にそちらには用件が無い。
壁の上部に作られた窓から射し込む紅い光の眩しさを感じながら一段ずつ上っていくと、元々この地を訪れた貴族を迎えるための客室が並んでおり現在は参集した貴族達の私室として使われている三階に立つと、そのまま自室の方向へと足を向ける。
「戻ったわ、クララ」
カルロが入り口の鍵を開けて開いた扉を潜ると、誰もいない玄関に踏み込んだ私は自らが帰ったことを知らせるためにそう声を掛ける。
彼が自室にいるのかそれともどこかに出掛けているのかは分からないが、もしいるならば入ってきたのが私であることを伝えるためだ。
そして膝を折って身体を屈め、戦場に出るに当たって履いていた底の厚い乗馬靴を脱いでいると、クララが使っている部屋の扉が開き中からまるで少女のように可憐な容姿をした彼が姿を見せる。
「お帰り、お嬢様。ごめんね、出迎えようと思ってたけどちょっと手が離せなくて」
「構わないわ。貴方もよく働いてくれているようだもの」
実家とは無縁であることを装っている以上、初めから私個人に雇用されている形であるクララにオーロヴィア家に仕える男の使用人の制服(もちろんデザインは母だ)をそのまま着せておく訳にはいかないため、レールシェリエに来てから急遽私がデザインして作らせたベージュ色を基調にした薄手のハーフコートとズボンを纏った彼は、そう言いながら扉を閉めると腰を折って美しい仕草でこちらに礼をする。
コートのボタンについてはどう留めるかが一つに決まっている訳ではなく、場所や場合、立場により全て留めたり一番上だけを留めたりなど正しい留め方が状況によりそれぞれあるのだが、今はボタンを留めずに開かれておりその間からはこれも制服の一つである白いシャツが覗いていた。
靴を脱ぎ終えた私は段を上がり、クララと向かい合うようにして立つと、彼をそう労う。
「お嬢様のためだからこれくらい何ともないよ。寝台も整えておいたから、ゆっくり休んでね」
「ありがとう。湯浴みをしたら朝まで休むことにするわ。……カルロ、貴方も休みなさい」
気力で繋ぎ止めてはいるが、体力の無いこの身体には軍勢と共に移動すると相当の負担が掛かる。
ましてや私はこちらより数の多い敵を撃破するために騎兵の機動力に依存した奇襲戦術を主として用いているので、強行軍を繰り返す中での体力の消耗はなおさら激しく、もうただ立っているだけでも億劫な程だ。
早く柔らかなベッドに包まれて休みたいと思いながら、私はカルロに休暇を与えるとそのまま左手にある浴室へと向かった。
それから数日。
ルウの率いる軍勢が来たことで軍の編成にも大幅に影響があり、一軍の指揮官である私もレールシェリエに留って、それに伴い生まれたり出撃中に溜まっていたりした雑務を片付けていた。
当然ながら各地での戦いはこの瞬間も続いており、一週間程度の遅れがあるとはいえ可能な限り最新の戦況は密偵達から報告を受けて把握しているが、やはりというべきか全体を通して見た場合の旗色は悪かった。
勝利を収めている戦線もそれなりにあるので戦力差からすれば相当善戦していると言ってもいいのだが、如何せん元の数字の差が圧倒的過ぎる。
未だ編成作業が続いている辺境伯家の軍勢が本格的に参戦すれば少しは楽になるとはいえ、それでもなお彼我の差が決定的に縮まる訳ではないのだ。
物資の補給を申請する書類を作成し終えた私は、息抜きがてらにこの街で人気だという噂を聞いて今朝取り寄せた、大通りにある店のマカロンに手を伸ばす。
マカロンにもいろいろと種類があるが、この店のものはアーモンドクリームを包んだ生地の外側をまるでクッキーのようにかなり堅めに焼いたものであり、さくさくとした食感でありながらも決して堅過ぎないそれは中のアーモンドの風味と調和してとても美味しかった。
南方諸国においても需要はかなり大きいものの、どうやら向こうには自生していないらしいために非常な高値で輸出されているアーモンドだが、この国では広く産出され流通している安価な種実である。
それを用いているこのマカロンは市民が気軽に買える価格で売り出されており、味の良さと安さ故に街の娘達の間で大流行しているらしかった。
興味を惹かれたので取り寄せてみたところ確かに美味であるし、アーモンドクリームは貴族にとっても満足がいく品のある風味になっているので、この街に逃れてきている諸侯の夫人や息女達の間で流行する日も近いだろう。
かつてイヴァン・ボルケという平民の男が執筆した『エルシェステルの輪郭』という王宮を舞台にした恋愛小説が王都の街娘の間に大流行を巻き起こし、木版印刷によって大量に刊行されて広く流通したそれが現実性と虚構性を織り交ぜた描写の巧みさ故にやがて王宮の令嬢達の間でも愛読されるようになったことがある(王立学園の図書館にも所蔵されている程だ)ように、平民の間での流行が貴族社会にまで波及することは珍しくはあるがこれまでにも度々起こっている。
こと『エルシェステルの輪郭』は演劇の脚本にまで用いられて貴族向けと民衆向けにアレンジを変えてそれぞれ王宮や市井で現在でもよく上演されているのだが、この国の民衆の識字率はかなり高いため彼らによって多くの小説が書かれ読まれており、その大半は市井での流行に終わるが稀に貴族からも支持を得る作品が現れるのだ。
そういったことは小説のみに留まらず他の分野でも時折起こるし、レールシェリエに逃れてきた諸侯は皆多忙に追われているが、急遽この街に来ることになったその家族は特にすることがなく退屈しているであろうから、このマカロンのように気晴らしになるものは間違いなく彼女達の間で人気を博すはずだった。
そして私は、机上に伏せてあった密偵達が集めた情報を纏めた報告書の束に手を伸ばす。
私が独占している機密情報なので本来であればこうして形にしたりはせず口頭で伝えさせた方がよいのだが、間借りしている身である都合上、完璧な盗聴対策が不可能なので書類にするようにしているのだ。
書かれている内容の全てに手早く目を通した私は立ち上がり、壁際にある暖炉に季節外れながらも火を入れると、頬に熱気を感じながらも書類を燃やして灰にする。
そして完全に燃えきったのを確認すると手が汚れないよう器に入れられている灰を掛けて火を消し、再び執務机の前に腰を下ろす。
この報告書もクララが持ってくることが多いのだが、最近はどうも忙しいらしく、私もこのところ彼の姿をほとんど見ていなかった。
そもそも、私が彼に与えている仕事は二つある。
一つは言うまでもなく各地の情勢や戦況を集めることであるが、もう一つ現宰相側からの工作を阻止するという重要な役目があるのだ。
兵力ではあちらが圧倒的であり、今王子の下に集まっている諸侯の大半は彼が王都を追われたことにより追いつめられて挙兵したに過ぎないので、向こうが何か好条件を出して持ちかければこちら側についている貴族が寝返り、そのまま雪崩を打つように瓦解してしまってもおかしくはない。
現宰相からすれば現状は翻意を持っている貴族を一掃するチャンスであるのでまだそれらしい動きは見られないが、戦いが長期化すればこちら側に対する切り崩し工作が始まる可能性もあるので、警戒しておく必要があった。
情勢を集める仕事はこれまでも続いていたし急に忙しくなるとは思えないので、まだ報告は受けていないがもしかすると敵の工作が始まったのかもしれない。
「お嬢様、入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
すると外から扉が叩かれ、ちょうど今しがた考えていた彼の声が聞こえた。
現時点での編成の進捗状況が記された書類に手を伸ばしていた私は、それに頷いて入室を許可する。
いつものように貴族の振りをしても誰も疑わないだろう美しい礼を見せた彼の腕にはそれなりのサイズがある紙袋が抱えられており、中身は見えないものの大きく膨らんでいた。
「これ、お嬢様に渡そうと思って作ってきたんだけどどうかな?」
そう言いながら袋を床に置いて開けると、中から深紅の生地が彩やかな一着の豪奢なドレスを取り出したクララ。
スカート部分は下にパニエを重ねればまるで陽光を受けて笑んだ花のように広がるだろうことがよく分かる程に長く、腰の辺りから垂れるように結ばれた濃い色のリボンは生地との濃淡の差が美しい。
襲、と言うのがよいのだろうか、同じ赤という色であっても明暗や濃淡を変えて何重にも生地が重ねられた色合いは計算され尽くされた芸術と表現しても過言ではなく、見る者の目を奪わずにはおかない気品と鮮麗さを放っていた。
細やかな部分まできちんとギャザーが作られ、数えるのも億劫になる程膨大な数のフリルがあしらわれたそのドレスは思わず見蕩れてしまうくらいに素敵であり、思わず感嘆の息が漏れる。
恐ろしく精緻かつ華麗な意匠の中でもひときわ目立つのが左胸にあしらわれた造花のコサージュであり、紅いダリアを模ったそれは無数のフリルに飾られたドレスに埋もれることなく存在を主張し、本物の花よりも美しいと感じる程だ。
「最近全然顔を見せられなくてごめんね。裁縫はそこそこ得意なんだけど、お嬢様に似合うようなものをと思ってたらかなり時間が掛かっちゃってさ。特に胸の花を作るのは大変だったな……」
「本当にいいの? こんな素敵な衣装を貰ってしまっても。これ程の出来栄えなら、貴方の好きな女性に贈ればきっと喜ばれると思うわよ」
感慨深げに呟いているクララに思わずそう尋ねる私。
貴族の令嬢ならば言うまでもなく、平民であっても大金を払い王立学園に子供を入学させるような大商人の息女などであればこれくらい豪奢なドレスを纏うことは儘ある。
大都市の街中には平民向けの劇場がいくつもあるものであるが、演劇を観覧する場合はなるべく彼ら彼女らもなるべく高級な衣装を身につけるものであるし、このドレスをプレゼントされて嬉しくない女性はいないだろう。
「はあ……。いいの、俺はお嬢様に着てほしいんだから」
「ありがとう。では、次から出陣の際にはこの衣装を着させてもらうわ」
何故か一つ溜め息を吐いたクララが、こちらにドレスを差し出す。
それを受け取った私は部屋にあるクローゼットに一度丁寧に仕舞いつつ、そう彼に約束をする。
本人の言うように確かに完成させるまでにはさぞ時間が掛かったであろうし、これ程のドレスなのだからそれに相応しい戦場という晴れ舞台で纏うべきだろう。
「労いという訳でもないけれど、はい。市街で流行している焼き菓子だそうよ」
「噂は聞いてたけど、これがそうなんだ。後で食べてみようかな。あ、そろそろ俺は一度部屋に戻るよ。さっきの衣装を作るのに手間取ってただけだから、次からはまた俺が報告に来るね」
「ええ、また夕食の時にね」
私はテーブルの方に近付くとまだかなり残っている先程のマカロンの入った袋を取り、彼に渡す。
束の間興味深げに眺めた彼はそれをドレスを出して空になっていた紙袋の中に入れ、私に退出の挨拶をした。
食事は厨房に注文しておいたものが侍女の手で運ばれてくるのだが、自室にいる時は食事はなるべく揃って食べるようにしている。
まあアネットは今も実家に出向いている最中であるし、私とカルロは出陣していることも多く密偵を束ねるクララも多忙なのでなかなか全員が揃うことは無いのだが、このところは食事の際にも姿を見せなかったクララと久々に共に席を囲むことになりそうだった。
そして彼が退出すると、私は執務机へと戻り、机上に積み上げられた書類を片付けるべく再び筆を取った。




