1. 遭逢
あれから六年。
二度人生を過ごしてきた中で実感したが、月日が流れるのは遅いようでとても早い。
意識を取り戻した際にはまだ生後数週間だった私は、気付くともう六歳になっていた。
最初は手足をばたつかせることしか出来なかった私もしばらくすると歩けるようになったのだが、如何せん幼児の身ではやれることが少ない。
なので退屈な時間はひたすら物思いと周囲の観察に耽ることとなり、そのおかげで現状を十分に把握することが出来た。
私が生まれたのは、オーロヴィア子爵家。
前世での私は侯爵家の当主としてここベルフェリート王国の宰相補佐の役職に就いていたのだが、その際に何度か名前を聞いた覚えがある。
王都から見て東方の辺境に小さな領地を持つ下級貴族だ。
領地からの税収だけでは生活が立ち行かないので、私がこの国の政を執っていた頃にも当主が官吏として働いていた。
各地を飛び回ってあまり屋敷に帰ってこない父を見る限り、今でもその立ち位置は変わらないらしい。
まだ屋敷から外に出たことはないが、今も領地は当時と同じような広さなのだろう。
そして驚くべきことに、前世で私が命を落とした頃から二百年もの時間が過ぎていた。
特に根拠があった訳ではないがせいぜい遅くとも数十年後だろうと勝手に思っていた私は、暦を聞いてそれを知った時はかなり驚いたものだ。
特に前世で親しかった人物が皆とうに死んでしまっていると知った時は思わず泣きそうになった。
今の私は六歳なので、もう普通に歩けるようになっている。
日本ならば小学校に入学して家から歩いて登校する年齢であるし、まして戦争などが普通にあるこの世界では人間の成長が日本より少し早いのだから、まあそれは当然だろう。
朝目を醒ました私はお付きのメイドの手を借りてベッドから降り(まだ足が床に届かないのだ)、一人では到底着られないような複雑な構造の子供用のドレスに手伝われながら着替えると部屋の外へと出る。
目指すのは、私に何か用があるらしく昨日から領地にあるこの屋敷に帰って来ている父の居室。
まだ子供だということで、廊下を歩く時もメイドが付きっきりだ。
枠に軽く装飾が施された二階のガラス窓越しに、歩を進めながらも外の景色を見る。
今の季節は春。
いくら貧乏な家ではあるとはいえ、一応は貴族なので庭園くらいはある。
この辺りの冬の寒さはかなり厳しいものだが、それを乗り越えた植物達が鬱憤を晴らすかのように美しい花々を咲き誇らせていた。
まだ少し残っている雪の白さが傍らに彩りを添え、その鮮やかさがより引き立てられる。
母の指示に従って作られたらしい我が家の庭園は、とても華やかで思わず見蕩れてしまいそうなほどに綺麗だった。
少しくらいの苛立ちならば、この景色を見るだけで霧散して消えてしまう。
そうして外を眺めながら赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き進んでいると、やがて突き当たりにある父の部屋、つまり執務室の前へと辿り着いていた。
「サフィーナです」
「入りなさい」
今の私の身長の十倍近くはあろうかというほどに重厚感に溢れる巨大な木製の扉をノックしながら、中へと声を掛ける私。
それに対し、室内の父から言葉が返される。
ここから先へは、ついてきていたお付きのメイドは平民であるため入ることが出来ない。
私はこの身体からすると重い扉を頑張って開け、一人で執務室へと入った。
執務室とは言っても、我が家のそれはただ書類が積まれているだけの部屋ではない。
前世で私が生まれた家はそれなりの大貴族であり領地も広大だったため執務室には書類が山積みになっていたが、辺境の下級貴族であるオーロヴィア子爵家の領地は狭いのでそれほどすべき決裁などが無いのだ。
逆に言えば、だからこそ代官を雇わずに済んでいるのだが。
なすべき決裁が膨大な量に上る大貴族は当然当主が書類を一人で回すことなど不可能であるために代官を雇うのだが、我が家にそのような余裕が無いことは想像に難くない。
なので、仕事が少ないのは本当に幸いだった。
父が官吏として各地へと出張している最中には母が代わりに当主としての仕事を代行しているのだが、もしもっと領地からの問題が多くなれば母だけでは処理出来ず代官を雇わなければならなかっただろう。
そうなればきっと家の懐は厳しくなり、父はもっと働かなければならないという悪循環に陥っていたはずだ。
ともあれ、大貴族の屋敷では執務室と当主の居室が別になっているものなのだが、我が家ではそれが一つになっている。
父があまり家にいないので居室を専用に用意してもあまり使う機会が無いというのもあるし、何より室内に書類があまり無いので執務室であろうとそれなりに快適なのだ。
事実、扉を閉めて振り返った私の視界には部屋の中央付近に置かれたソファーに背中を預けてくつろいでいる父の姿があった。
「お久しぶりですわ、お父様」
「大きくなったね、サフィーナ」
私を見てやや感慨深げにそう口にしたフェルミール。
ソファーから立ち上がると、彼はこちらへと歩み寄ってきてしゃがみ、私の身体を抱き締め、持ち上げる。
全身を包む浮遊感と共に、かなり高くなる目線。
最近はずっと各地を飛び回っていたようなので、こうして顔を合わせるのは一年以上ぶりになるだろうか。
幼児は一年もあれば見違えるように大きく成長する。
記憶の中の姿とは違う娘の姿に、父が感慨を覚えるのも当然だろう。
彼は昨夜遅くに帰宅したのだそうだが、その時間には私はもうすやすやと眠っていたのでその時には顔を合わせることはなかった。
私も今朝になってメイドから呼ばれていることと共にそれを聞かされ、初めて知ったのだ。
もちろんこれまでも今回のようなことは何度かあったが、それでもいつもなら父が帰ってきた朝は家族三人で揃って食事をするのが定番である。
夕食以外の時に家族が揃って朝食を取るというのは貴族階級では珍しい習慣だが、我が家は家族仲が良好なのでなかなかに楽しい。
しかし、その朝食すらまだなのにもかかわらず執務室へと呼ばれたからには、何かしらの重要な話があるものと思われた。
縁談でも纏まったのだろうか。
前々世は日本人として生まれ育ったが、前世をこの国の女貴族として生きた私は、いつか自らに縁談が来て誰かと結婚することになるだろうことはとうに覚悟している。
単にそれが早いか遅いかだけの違いだ。
「ここまで歩いてくるのは疲れたろう? とりあえず座るといい」
私から身体を離した父が、ソファーに腰掛けるように促す。
まだもう少し小さな頃に悪戯をするふりをして父が書類を決裁しているところを覗いてみたり来客と話しているのを盗み聞きしたりしてみたのだが、どうやら父はそれなりに有能な人物らしかった。
今も、私の居室からここまでの距離を歩いてくるのは六歳児のこの身体には少し辛いことを見抜いているのは流石の観察眼だ。
疲れているのは紛れもなく事実なので、促されるままにそのまま座っておく。
この国の貴族令嬢ならば失礼しますわ、の一言くらいは言っておくのが本来はマナーだが、まだそれに関しては教えられていないので違和感を覚えられないためにも言わないことにする。
そういえば、この家では何歳頃から子女にマナーを教え始めるのだろうか。
前世で私が生まれた家では四歳頃から当時の母による授業が始まったが、家によって開始年齢はまちまちであり八歳頃から始めるような家とてざらにあったのだが。
どうにも貴族らしい立ち振る舞いというのは疲れるので、今になっても人の目が無い自室などではつい日本人として生きていた頃のように行儀悪くだらけてしまう私がいた。
絶対に他人には見せられない姿だ。
「隣に失礼するよ」
まだ床まで足がつかないので、空中でぶらぶらとスカートから出ている小さな足がぶらぶらと揺れる。
そんな様子を微笑ましげに見ながら、父は私の隣に腰掛けた。
そして、彼の大きな手が私の頭を撫でる。
少しくすぐったいが、心地がよかった。
「何のご用ですの?」
恐らく縁談だろうとは思いつつも、首を傾げてフェルミールに尋ねる。
座高も大きく異なっているので、座った状態で隣にいる父を見上げるのはそれなりに辛かった。
懸命に背を反らしてやっとといった感じだ。
「今呼ぶから、少し待っていなさい」
やはり予想は当たっていたらしい。
彼は私にそう告げると振り返って手を伸ばし、すぐ後ろの執務用の机の上空に天井から垂れた紐を引いた。
この紐は使用人の控え室へと繋がっており、紐を引くと控え室に置かれた鐘が鳴って呼んでいることを知らせることが出来るシステムになっている。
私がかつて生きていた二百年前から変わらず、貴族のそれに限らず使用人を使っているような大きな屋敷には必ずある仕組みだった。
それから数分。
私が言われた通り柔らかなソファーに身体を沈めて待っていると、入り口の扉が開いた。
木が軋む音を立てて、ゆっくりと開いた大きな扉。
そこから一人入ってきたのは、栗色の髪と淡い灰色の瞳をしたまだ小さな少年だった。
今の私とおよそ同じくらいの年齢だろうか。
身長も私とほとんど変わらない。
整ってはいるがまだ幼いその顔には、そこはかとなしに不安の色が浮かんでいる。
「こっちに来なさい、カルロ」
「わ、分かりました」
そんな少年に対し、父が声を掛ける。
カルロと呼ばれた彼は声変わり前の高く綺麗な声で返事をして、掛けられた言葉に従い恐る恐るといった様子でこちらに近付いてきた。
「そんなに緊張しなくていい。今日は娘に君を紹介するだけなんだ」
少年を安心させるように、その場で立ち上がった父が優しげな声音で少年に言う。
……どういうことだろうか。
その言葉を聞いて、私は内心で首を傾げた。
縁談が纏まった相手との引き合わせというのなら、このような幼い少年が一人で来ているのはどう考えてもおかしい。
必ず相手方も両親を伴っているはずであるし、こちら側も母が同席しているはずだろう。
他国ではどうなのかは知らないし、もしかしたらこの二百年の間に変わったのかもしれないが、それが私の知っているこの国の貴族の礼法というものだ。
にもかかわらず彼は一人でここに来た様子であるし、それに既に決まっている縁談ならば紹介するだけという父の言葉も腑に落ちない。
互いに一度も顔を合わせないまま、相手の存在も縁談が進んでいることさえも当事者達が知らないままに結婚相手が決まるのはよくあることではあるが、だとしても相手との初顔合わせはもっと正式な場で行われるはずだ。
それも私の知る限りでは、格式を重んじる貴族ならば当然のしきたりだった。
つまり恐らく縁談ではないことは薄々分かったが、だとしたら一体これは何の場なのだろう。
よく分からない。
「えっと、カルロ・レシュリールです。よろしくお願いします、お嬢様」
私が思索している間に目の前へと進んできた少年は、おどおどとした様子ながらも貴族男性の作法に則った名乗りを上げてぺこりと頭を下げて腰を折った。
ぎこちなくはあるがそれなりに形になった礼に、微笑ましい気分になる。
彼とは肉体の年齢こそほぼ同じであるが、中身の年齢は二度の人生を既に生きた私とは曾祖母と曾孫ほどにも離れているのだ。
どうしても孫を見守るような目線になってしまうのは仕方が無いだろう。
とはいえ、小さな紳士が頑張って礼をしてきたからには私ものうのうと座っている訳にはいかない。
私は柔らかなソファーの上で少し身体を跳ねさせ、その反動で立ち上がった。
床に足がつかないので、深く座ってしまうとこうでもしなければまだ立てないのだ。
着地の際に勢い余ってそのまま転びそうになるが、しかしどうにか体勢を立て直す。
「ありがとうございます。私はオーロヴィア家の一人娘、サフィーナでございますわ」
私は笑みを浮かべてそう口上を述べると、そっとスカートの裾を掴み膝を折った。
あまり完璧になり過ぎないようにわざと動きを少し崩したとはいえ、それでもまだ礼節を習っていない六歳児に出来ることではないだろう。
顔を赤くして私から目を逸らしたカルロはともかく、傍らの父はぽかんとした顔で私を見つめている。
数秒後、彼は驚いたように話し掛けてきた。
「サフィーナ、それはどこで覚えたんだい!?」
「お母様がしておられるのを真似してみましたの」
「さすがは我が娘だ。父さんは嬉しいぞ」
家族のみの場であれば抱き上げられていたのかもしれないが、さすがにカルロがいる前ではそこまで羽目を外さないらしい。
その代わりなのか、父の大きな手で頭をがしがしと撫でられる。
ここに来る前にメイドに櫛を通してもらったばかりの金色の長髪が、それによって乱れ跳ねた。
前世は大貴族に生まれただけあって当時の両親がかなり冷淡で厳しい人物だったので、こうして暖かい愛情を注がれるとつい照れてしまう。
頭が動いたことにより視線が動くと、そんな私と父を見つめて所在無さげに立っている少年の姿が見えた。
確かに、他人の親馬鹿を目の前で見せつけられても反応に困るだろうな。
社交辞令や世辞の類いがまだ思い浮かばないだろうこの少年ならば尚更だ。
何か助け船を出すべきだろうか。
「もう、カルロ様の目の前で子供扱いされるだなんて恥ずかしいですわ」
「すまないすまない。サフィーナがあまりに可愛らしかったからね」
困った顔をして立ち尽くしている少年への助け船の意味も込めた私の抗議に、父は少し笑って手を髪から離した。
六歳児にしてはあまりに理知的過ぎるのではないかと元日本人の私としては思わなくもないが、平民ならともかく貴族の子女ならばこれくらいの受け答えを出来る子はざらにいるものだ。
それほど不自然ではないだろう。
私は、乱れた髪を手櫛で撫でつける。
手を動かすにつれ、指先に絹のようにさらさらと髪が流れていく。
これがもう三度目の人生になるとはいえ、女は女だ。
せっかく貴族に生まれて髪を専用の油などで手入れされているのだから、少しでも美しく見えるように保っておきたかった。
「おっと失礼。放置してしまったね、カルロ」
「い、いえ、お構いなく」
「そろそろ本題に入ろうか。サフィーナ、今日からこの子と友達になるといい」
そして、本題を切り出した父。
……ああ、そういえばそれがあったか。
前世ではもうしばらく後のことだったので、すっかり忘れていた。
友達と言っているのは、要は侍従のことだろう。
他の国ではどうか知らないが、この国では幼少期に貴族女性に同年代の異性が一人付けられ、護衛や使いなどの役目をさせる習慣がある。
互いに成長して大人になっても任務から外れることは基本的に無いため、令嬢と侍従とはまさしく一蓮托生と言ってもいい立場だ。
貴族の女性は行動範囲が狭いため、それを補う必要性によるものだった。
こうして紹介されたということは、もうそのような時期らしい。
前世の私にも、当然ながら侍従役が付いていた。
とはいえ、それを友達と表現したのは父の人間性故だろう。
「分かりましたわ、父上。よろしくね、カルロ」
父の顔を見上げてそう返事をすると、続いて私は少年の方を向いて声を掛けた。
中身は私の方が遥かに年上なのだから、こちらがリードしてあげるべきだろう。
微笑んで目を合わせると、何故か頬を真っ赤にして顔を逸らすカルロ。
よく分からない反応だった。
「よ、よろしくお願いします。お嬢様」
視線を私から外しながらも、再び腰を折って私に礼をする少年。
それは紳士にはあるまじき態度ではあるが、まあまだ子供なのだから許しておいてあげることにする。
腰を折った姿勢のままで止まった彼は、そのまま私の右手を取り、やや挙動不審な態度ながらもその手の甲に口づけた。
貴族であれば誰しもが普通に行うような挨拶のような行為なのだが、このような小さな子にされると何だかこそばゆいような気分になる。
―――これが、私の侍従となるカルロとの出会いだった。