0. プロローグ
背中には沈み込むように柔らかな感触。
閉ざされていた瞼を開けば、まだぼやけていて鮮明ではない視界には豪奢な天蓋と華美なシャンデリアが映る。
そして、視線を下方へと向ければそこには白いシーツと木製のベッド。
ふと気がつくと私は、その上へと仰向けに身を横たえている状態だった。
見知らぬ部屋だ。
ここから見える、然程豪奢という訳ではない調度品や壁の装飾はしかしどこか気品を湛えており、選び手の高いセンスを感じさせた。
何か香が焚かれているのだろうか、嗅覚には穏やかで心地のよい香りが漂ってきている。
状況を把握するために周囲の様子を窺おうと試みるが、上手く身体が動かない。
どうにか首だけを少し動かし、自らの手足を見る。
そこにあったのは小さく丸い四肢だった。
試しに指を動かしてみて、意思の通りに動いたそれが紛れもなく自らのものであることを理解する。
つまりは、どうやら今の私は生後間もない赤ん坊の状態らしかった。
現状を把握し、またかと思わず心の中で呟く。
私は、以前にも一度今と同じような状態を体験している。
かつて日本でOLとして働いていた私は、久々の休暇の折に事故に遭って意識を失い、気がつくとベルフェリート王国という地球には存在しない国にいたのだ。
その際も目覚めた私は赤ん坊になっており、歳月と共に成長した私はさる侯爵家の嫡子として二度目の人生を送り、そして死んだ。
かれこれ、もうこれで三度目の人生であることになる。
確かに死んだはずの自分が何故かこうして生きていることには経験があれども慣れないし、妙な気分を覚えるが、しかし生きていられるというのはとても幸せなことだ。
特に、前世での今際を記憶している私は尚更そう思う。
思い出したくもない。
あんな思い、あんな目に遭った後では。
―――私が発作的に嫌な記憶を思い出していると、入り口の扉が開いた。
木の軋む音がして、繊細な装飾が施されたノブが回る。
入ってきたのは、センスがいい服装に身を包んだ細身の男性だった。
横になった状態での目測なので大体だが、身長はおよそ百八十センチ前後くらいだろうか。
緑の瞳の上に眼鏡を掛け、灰色の髪を後ろに纏めている彼はいかにもな貴族といった出で立ちをしている。
侯爵だった頃に貴族の衣服は見慣れているので目利きにはそれなりの自信があるのだが、纏われたコートやズボンはそれほど上質には見えない。
恐らく、貴族が身につけるものとしては本当に安物の部類なのだろう。
しかし、にもかかわらず着こなしや組み合わせからは気品が感じられ、男性が持っている雰囲気と合わさって本来以上に貴族らしき威厳のようなものが感じられた。
部屋の内装もそうだが、どうやら彼はなかなか素晴らしいセンスの持ち主であるようだ。
「目を醒ましていたんだね、サフィーナ」
男性は自身の方を見つめていた私にそう声を掛けると、背中とシーツの間に腕を差し込んで私を抱き上げた。
背中に感じる力強い感触。
今の私は赤ん坊であるため当然ではあるが、簡単に持ち上げられてしまう。
新しい私の名前はサフィーナというらしい。
それなりに身長がある男性に抱き抱えられているため、視線が高くなる。
とは言っても、前々世はともかく前世では比較的長身な身体だった私は、その時と大して目線の位置が変わらないので恐怖などは特に感じなかった。
名前を呼ばれたからには返事をしたいところだが、残念ながらまだ生まれたばかりらしい私は身体機能の問題で言葉を発することが出来ない。
非常に気恥ずかしいが、赤ん坊らしい仕草で意を返しておくことにした。
「あら、フェルミール。お帰りなさい」
「ただいま、ソフィア」
男性の身体が壁になっている状態なので私からは見えないが、再び扉が開く音がすると優しげな響きの女性の声が聞こえた。
恐らくは、彼は帰宅して一番に私の元へと来たのだろう。
彼女から掛けられた言葉に対し、男性はそのような言葉を返していた。
フェルミールという名前らしい男性が入り口の方へと身体を向けたので、私の視界にもソフィアと呼ばれた女性の姿が映る。
淡い金髪を少し長めに伸ばした彼女は、声から受けた印象と同じようにとても優しげで柔らかな雰囲気を持つ美しい女性だった。
ソフィアは、そのまま私とフェルミールの元へと歩み寄ってくる。
そして私の顔をおもむろに覗き込むと、潤って艶やかな唇を開かせた。
「この子は貴方に似てとても可愛いわ」
「いやいや、君に似て凄く可愛いよ」
二人して私を見下ろしながら、唐突にいちゃつき始めるフェルミールとソフィア。
ソフィアの白い指が私の頬を撫で、くすぐったさを感じて私は少し身悶える。
そんな私を見て、微笑ましげな笑みを浮かべているフェルミール。
どうやら、この二人が今世での私の両親らしい。
身体を思うように動かせない今は特にすることもないので、そのまま二人がいちゃつくのをしばらく眺める。
この二人は随分と円満な関係を築いているようだった。
前世で私が生きていた国においては、政略結婚によることが多い貴族の夫婦は仲が冷え切っていることがほとんどだったので、こういった仲睦まじい姿を見せられるととても微笑ましく感じてしまう。
そしてひとしきりいちゃつき終えると、フェルミールは笑みを浮かべていた表情を少し真剣なものにした。
「そろそろ僕は出発しないと……」
「もう行ってしまうの? 寂しいわ」
少し寂しそうな表情を浮かべさせて言うソフィア。
どうも、我が父は多忙らしい。
服装などから大体予想はしていたが、恐らく官吏か何かの仕事をしているのだろう。
領地が狭く税だけで暮らすのが難しい小貴族は、大抵宮廷で何かしらの仕事をするものだ。
少なくとも、前世で暮らしていた国ではそうだった。
「ごめんね。ベルファンシア公爵に呼び出されてるんだ」
ソフィアの頬に軽くキスしてから何気なく発せられた父の言葉に、私は危うく変な声を出してしまいそうになる。
ベルファンシア公爵。
その単語は、あまりに私の中で覚えがあり過ぎた。
忘れたくとも忘れられない、前世で嫌というほど耳にしていた名詞だ。
そして、私の大切なものを全て奪い去った憎むべき怨敵でもある。
公爵という高位故に絶対数が少ない爵位に、別の世界や国で同じ家名の家がたまたま就いているなどという偶然があるはずがない。
ということはつまり、この世界は前世に私が生き、そして死んだのと同じ世界だということだ。
「もう、仕方ありませんわね……」
「本当にごめん。それじゃソフィア、サフィーナは任せたよ」
フェルミールの腕の中から、私の身体が母へと手渡される。
ここが前世とは違う世界や国ならばともかく、ベルフェリート王国だというならば今後の身の処し方を考える必要がある。
もう一度ソフィアの頬に口づけるとそのまま退出していく父の背を眺めながら、私は三度目の人生を前にこれからどうすべきかの思考を続けていた。