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短編小説

りんごジュース

作者: 一天草莽

 大学生になった今でも、僕は相変わらずりんごジュースを好いている。

 たとえば人から何か飲みたいものはないかと尋ねられると、それはもう条件反射のように「りんごジュースをお願い」などと答えてしまうくらいだ。

 だから同じ学部で知り合った友人と一緒に大学の近所にある個人経営の喫茶店に立ち寄った今日も、あきれるくらいいつものように、ついついそれを頼んでしまっていた。


「りんごジュース……。あ、はい、アップルジュースでございますね」


 頼んだこちらが照れてしまうほどの営業スマイルを見せ付けられて、椅子に深く腰掛けた奥手な僕はだらしなく「ええ」と苦笑することしかできない。

 あちらも接客業なのだから仕方ないのだろうけど、あまりに過剰な笑顔はむしろ逆効果ではなかろうかと、するにも見るにも笑顔が苦手な僕は肩をすくめる。


「なんだよ、おしゃれな喫茶店に入ったってのにコーヒーじゃなくてアップルジュースを頼むのか? お前って甘い物好きなの? 講義と講義の間もプリンだのシュークリームだの食べて、お菓子大好きな小学生みたいだよな」


 やけに大人びて見える友人はそう言って、いつまでも大人になり切れないでいる自覚がある僕を小馬鹿にしたように笑う。と言っても仲が悪いわけではなく、喧嘩しているわけでもない。この前は僕の方がつまらぬことで彼を馬鹿にしたから、そのお返しだろう。

 なので反論はせずに甘んじて受けるけれど、それはそれとして彼の遠慮ない反応を見るに、つい先ほど店員が僕に向けていた満面の営業スマイルが、もしや本心から出てきた嘲笑だったのではなかろうかと思えてきた。

 子供っぽいと思われただろうか?

 マイノリティには世知辛い時代になったものである。


「ふふ……」


 そんなくだらないやり取りを僕たちが二人でしていると、すぐ隣のテーブルに座っていた見知らぬ若い女性が、小さな声でかわいらしく笑った。

 いきなり聞こえてきた笑い声に驚いて目を向けてみると、どうやら隣の席の彼女も僕と同じく一杯のりんごジュースを頼んでいたらしかった。

 その事実に僕の友人も目ざとく気がついたのだろう。

 初対面の女性へと臆面もなく語りかけてしまう。


「おや、あなたもアップルジュースですか。いやはや、困った。俺は流行を知らないもので……」


 友人はそう言って僕と彼女を見比べながら、まるで冷やかすように顔をにやつかせた。そうして「もしお一人ならご一緒しませんか」と、彼女を同じテーブルに誘ったのだ。

 それからのことである。

 僕と彼女がだんだんと親しくなっていったのは。

 それが初対面であったにも関わらず、その日の内に僕ら三人は喫茶店で楽しく会話を交わすことができた。そうして僕と彼女が同じ大学に通っていること、それから彼女も僕と同じ年齢であること、そしてどちらもが、今は誰とも交際していないことなどがわかったのだ。

 詳しく彼女の話を聞いたところによると、彼女は誰かと待ち合わせていたのだが相手の都合で突然中止になってしまい、結局その日は何もすることがなくなったらしく、立ち寄った喫茶店でりんごジュースを飲んでいたという。

 ……ちなみに、彼女は偏食家の僕などとは違って、りんごジュース以外も愛飲するようだった。無遠慮な友人から同じものを飲んでいると茶化されたのが恥ずかしかったのか、頬を赤らめた彼女は別の飲み物を頼んで、りんごジュースを僕に譲ってくれたのである。

 それはほとんど口をつけずに残っていて、それでも僕は彼女と一緒のものを飲んでいる気がして不思議と気恥ずかしかった。







 彼女とは大学で一緒にいることが多くなった。

 いつからか、休日もともに過ごすことが多くなった。

 それは決して恋人同士と呼べるものではなかったけれど、少なくとも僕らの間に友情が芽生えていたのは疑いようもない。

 けれど、僕が彼女と親密になればなるほど、今まで彼女が孤独であったという事実が浮き彫りとなっていくのだった。彼女の隣に出会ったばかりの僕がすんなり入っていけるほど、彼女の繰り返す日々には友人も、恋人も、その姿がまるで見当たらなかったのである。

 だからなおさら共感したのかもしれない。

 他の友人といるより数倍、彼女と二人きりでいるとすごく心地よかった。

 そもそも僕には数人の知り合いを除けば友人と呼べる相手もいないし、恥ずかしながら女性とまともに会話をしたことなんてなかった。

 それでも彼女はそんな僕のことを馬鹿にしなかったし、むしろ、うらやましがってもいた。


「私には今、友人もいません」


 意外といえば意外だったのかもしれない。だけどいつも不思議とさびしげな彼女の姿は、やはり幸せそうだと言い切れなかったのも事実だ。

 だからこそなのか、僕は絶えることなく彼女を誘い続けた。


「りんごジュース、と。ねえ、君もりんごジュースでいいよね?」


「あ、はい。アップルジュースですよね。それなら大丈夫です」


 いったいなぜ、そんな孤独な彼女が僕には優しげに話しかけてくれたのか。果たしてなぜ、彼女が僕とだけは楽しそうにしていてくれるのか。

 それはきっと、りんごジュースのおかげに違いなかった。

 共通の趣味が二人の距離を縮めてくれたのだろう。

 そんなこともあってか、なおさら僕はりんごジュースを好んで飲むようになっていた。

 それから数ヶ月経っても、僕たちは変わらずいつも一緒にいた。

 その割には関係が進展することもなかったけれど、それだけで僕らは十分幸せだったのだ。

 けれど、いまだにお互いの気持ちをはっきりと打ち明けていないからこそ、僕らは緊張でぎこちなくなってしまうことがある。

 時折、そのぎこちなさが原因で距離を感じてしまうことがある。

 しかしどんなことがあろうとも、結局はいつもどおりの仲に戻ることができるのだった。

 もちろんその間には、いつも必ずりんごジュースがあった。







 彼女の誕生日、僕は二人が初めて出会ったあの喫茶店に、彼女を誘った。

 彼女は突然のことに驚きつつも、その誘いを喜んでくれた。

 その日の夜、緊張しながら喫茶店に入った僕らは同じテーブルに座り、二人で同じ物を頼んだ。

 もちろん、飲み物にはりんごジュースを。


「……ありがとう。私、こうして誰かに自分の誕生日をしっかり祝ってもらえたの、生まれて初めてなんです」


 そう言った彼女はテーブルに置かれたりんごジュースを一口も飲まず、うっすらと目に涙を溜めたまま、感慨深そうにテーブル上のコップをじっと見つめていた。

 その姿はまるで、その一杯のりんごジュースがなくなってしまわないようにと、このまま大切にとっておきたいと、そんな風に願っているかのようだった。


「こんな僕でよかったら、これからも君の誕生日を祝いますよ」


「…………」


 僕は勇気を振り絞ってそう言ったのだが、それでもなかなか続かない僕らの会話は、二人の緊張を最もよく表していたのだろう。

 目の前の彼女はその沈黙を破りたくて、それ以上に僕に向かって何かを確認したくて、必死で何かを語ろうとしていたのだと、その時の彼女の様子を見る限り僕にはわかった。

 彼女の瞳は、頼りなさげに揺れていた。

 それから長い沈黙のあと、ようやく彼女は口を開いた。


「……あの、私。……私でいいのですか?」


 彼女は顔を赤く染めて、消え入りそうな声で僕に答えを求めた。

 恋愛ごとにはとことん奥手な僕でさえ、そんな彼女の不安げな様子を前にしてしまうと、こう言わざるを得なかった。


「もちろんですよ。僕はあなたが、大好きですから」


 彼女は僕の言葉に、首を縦に振ることで答えてくれた。

 その瞬間、僕たちは人生で初めての男女交際が始まったのだと喜び合った。

 二人でお互いに胸に秘めていた熱い想いを夜が更けるまで語り合って、僕たちは相手の目を見詰め合いながら笑った。

 たった数時間がとても長く感じられたその日の終わり、彼女はありがとうと言って涙を流した。僕は彼女の涙をそっと拭いながら、こちらこそ、と言って笑いかけた。

 すると彼女はもう一度、ありがとうと言った。

 ――それから数日後、とあるニュースが報道された。

 それは、ある女性の自殺だった。

 彼女の傍らには、こんな遺書が残されていたという。







 Yさん、勝手なことをしてしまって申し訳ありません。

 でも、これだけは誤解しないでください。私は本当にあなたのことが好きでした。決してあなたを嫌ってのことではないのだと、どうか理解していただけたら幸いです。

 私は小さいころからずっと一人ぼっちで、とても寂しい日々を送っていました。けれど、そのくせ人と会ったり話したりすることが、とても怖かったのです。

 思えば子供のころから人見知りが激しくて、自分から人の輪に入っていくことができませんでした。

 そんな臆病な私のたった一人の味方であったのが、今は亡き母です。

 私はそんな母がよく買ってくれたアップルジュースもまた、母と同様に大好きでした。

 今でも悲しいことがあったときや、不安なときには、必ずと言っていいほどアップルジュースを飲みたくなってしまいます。

 けれどそんな母も、私が小学生のころには病気で死んでしまいました。

 ところが、母は私に思い出以外には何も物品を残さなかったからでしょうか? 彼女を失った私にとって、いつも買ってもらっていたアップルジュースだけが母の形見になりました。

 父は仕事ばかりでした。私はそれを誇りに思いますし、間違ったことでもありません。ですが父は、母を失ってから人が変わってしまいました。

 次第に暴力を振るうようになり、私のことを無視するようになり、家にもなかなか帰らなくなりました。

 それでも小学校、中学校、高校、そして大学と、私は学ぶ機会に恵まれていました。

 しかし、どうしてもうまく同世代の人たちとはなじめなくて、私はいじめられてばかりでした。誰ともしゃべらない日が何日も続きました。私は自分の孤独が悲しくて、それ以上に惨めでした。

 Yさんと出会ったあの日、私はとうとう自殺を決意していたのでした。

 ですが、これは亡くなった母の優しさのおかげか、アップルジュースのおかげでYさんと親しくなることができたのです。

 Yさん、ありがとうございます。私の初めての友人であり、初めての恋人。一番大切な人であり、ずっと一緒にいたい人。

 Yさん、あなたは私を助け出してくれました。私の人生を変えてくれました。私は本当に、本当の意味で幸せというものを知りました。

 だからでしょうか、もう失うのが怖くなりました。

 これほど愛した人に、いつか好きじゃないと言われてしまうかもしれないことが怖くなってしまいました。

 私の誕生日に、あなたは告白してくれました。

 私はそれで十分でした。それだけで満足でした。この美しい思い出を、美しいままで抱きしめたい。その幸せの瞬間を、生涯失いたくありませんでした。

 あなたにいつか嫌われてしまう前に、私は好かれたままでこの一生を終えたいと、そう思いました。

 Yさん、すみません。今まで人に愛されたことなんてなかったから、愛し方がわかりませんでした。愛され方も、それ以上に思いつきませんでした。

 ……けれど、どうか誤解しないでください。

 私はあなたに好きだと言われて、本当に幸せでした。

 ただ、この幸せな私たちの関係が壊れて消えてしまうことだけが、死ぬことよりもずっと怖くて、つらかったのです。

 アップルジュースは子供の頃から大好きです。ですから、なくなってしまうのがいやでいつしか飲めなくなりました。

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