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水たまりの百合

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/11/01

 雨上がりの朝、真帆は店先の水たまりを見下ろしていた。


 花屋の前にだけ、いつも水たまりができる。

 空は晴れている。

 道も乾いている。

 なのに、そこだけが濡れていた。


 水面には、白い鉄砲百合が一本映っていた。

 店の中に飾った花だ。

 振り返って、花瓶を数えた。


 昨夜は四本あった。

 今朝は三本しかない。


 消えた一本は、水の底に根を張るように咲いていた。

 白い花弁を、ゆっくりと開いて。


 その日から、鉄砲百合は毎朝一本ずつ消えた。

 消えた花は、そのたびに水たまりの中で咲いた。


 三日目の朝。

 花瓶には一本だけ。

 水の中には、三本。


 数は合っている。

 合ってしまうことが、いちばん気味が悪かった。


 店の奥で寝起きしている店主は、水たまりを決して見なかった。

 店先を掃くときも、箒の先は水たまりの縁で止まる。

 目を伏せたまま、ぐるりと遠回りをして戻ってくる。


「あれを覗くな。呼ばれるぞ」


 低い声だった。

 理由を訊こうとして、真帆は口を閉じた。

 店主の指先が、小さく震えていたからだ。


 けれど、その夜。


 閉店後の片づけの手を止め、真帆は戸口に立った。

 覗くなと言われたものほど、目が離れなくなる。

 街灯の光が、水面に細く伸びている。


 そっと、覗き込んだ。


 水の底に、誰かが立っていた。

 こちらを見上げる、青白い女。

 胸には、鉄砲百合が突き刺さるように咲いている。


 女の唇が動いた。

 声はなかった。

 それでも真帆には分かった。


 ――次は、あなた。


 真帆は店の奥へ駆け戻った。

 床に座り込んだまま動けず、いつのまにか眠っていた。


 翌朝、店主はいなかった。


 奥の戸は開いたままだった。

 床には、濡れた足跡だけが残っていた。

 足跡は店の奥から入口へ向かい、水たまりの前でふつりと途切れている。


 誰かに連れていかれたのなら、足跡はもっと乱れるはずだった。

 店主は、自分の足でそこへ歩いていったのだ。


 警察が来た。

 調べて、首をひねって、帰っていった。


「ただの雨水ですよ」


 そう言い残して。


 パトカーが角を曲がるのを見届けてから、真帆は水たまりの前に立った。

 見てはいけない。

 そう思うのに、膝が勝手に折れた。


 水の底に、店主が立っていた。

 いつもの前掛けのまま、こちらを見上げている。

 胸には、白い百合が咲いていた。


 花瓶の最後の一本は、まだ店にある。

 水の中の三本も、そのままだった。


 店主の口が、ゆっくりと動く。

 何を言っているのかは、分からなかった。


 次は私だったはずだ。

 なのに、先に呼ばれたのは店主だった。

 順番など、最初からなかったのかもしれない。


 その日から、花瓶の最後の一本は、消えなくなった。


 数日後、店を閉めることになった。


 片づけの最後に、花瓶には一本だけ、鉄砲百合が残っていた。

 見ないふりをして終わらせたかった。

 捨ててしまえば、全部なかったことになる気がした。


 茎を掴んで、引き抜く。


 その瞬間、茎がぬるりと脈打った。

 花ではなかった。

 血管のような、生き物の拍動だった。


 その拍動が、てのひらにまで移ってくる。


 悲鳴をあげて手を離す。

 百合は床に落ちなかった。

 入口へ向かって、まっすぐに倒れていく。


 そこには、外の水たまりが、敷居のすぐ手前まで迫っていた。


 花の先が、水に触れた。


 ぽちゃん、と。


 ありえない深さの音がした。


 水面が、波紋ごと持ち上がった。

 外にあったはずの水が、敷居をまたいで、店の中へ流れ込んでくる。


 真帆は後ずさった。

 足首が冷たい。

 気づけば、水は脛まで上がっている。


 硝子戸の向こうでは、通りが乾いたまま光っていた。

 戸に手をかけても、水の重みで動かない。


 水面に、顔が浮かんだ。

 知らない人々。

 泣いている人、叫んでいる人、口を開けたまま動かない人。

 

 そして、店主。

 全員の胸から、白い鉄砲百合が咲いていた。


 水の奥から、青白い女がゆっくりと手を伸ばす。


 真帆は叫ぼうとした。

 そのとき、胸の奥で何かが脈打ち始めた。

 さっき、百合の茎からてのひらに伝わってきた、あの拍動だった。

 

 痛みはなかった。

 代わりに甘い花の匂いが、濃く、冷たく、喉の奥まで満ちていく。

 

 白い蕾が、胸の中でほどけていく。

 口から出たのは、声ではなく水だった。


 翌朝。


 花屋の前の水たまりは消えていた。

 店先には、見事な鉄砲百合が一本だけ咲いていた。


 通りかかった人が足を止める。


「綺麗ね」


 そう言って、誰かが花に手を伸ばした。


 指先が、花弁に触れた。

 その人は小さく手を引いた。

 指先が濡れている。


 ハンカチで拭いながら、首をかしげて去っていく。


 花弁の奥から、小さな水音がした。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 次に立ち止まる人を、待っているように。

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