水たまりの百合
雨上がりの朝、真帆は店先の水たまりを見下ろしていた。
花屋の前にだけ、いつも水たまりができる。
空は晴れている。
道も乾いている。
なのに、そこだけが濡れていた。
水面には、白い鉄砲百合が一本映っていた。
店の中に飾った花だ。
振り返って、花瓶を数えた。
昨夜は四本あった。
今朝は三本しかない。
消えた一本は、水の底に根を張るように咲いていた。
白い花弁を、ゆっくりと開いて。
その日から、鉄砲百合は毎朝一本ずつ消えた。
消えた花は、そのたびに水たまりの中で咲いた。
三日目の朝。
花瓶には一本だけ。
水の中には、三本。
数は合っている。
合ってしまうことが、いちばん気味が悪かった。
店の奥で寝起きしている店主は、水たまりを決して見なかった。
店先を掃くときも、箒の先は水たまりの縁で止まる。
目を伏せたまま、ぐるりと遠回りをして戻ってくる。
「あれを覗くな。呼ばれるぞ」
低い声だった。
理由を訊こうとして、真帆は口を閉じた。
店主の指先が、小さく震えていたからだ。
けれど、その夜。
閉店後の片づけの手を止め、真帆は戸口に立った。
覗くなと言われたものほど、目が離れなくなる。
街灯の光が、水面に細く伸びている。
そっと、覗き込んだ。
水の底に、誰かが立っていた。
こちらを見上げる、青白い女。
胸には、鉄砲百合が突き刺さるように咲いている。
女の唇が動いた。
声はなかった。
それでも真帆には分かった。
――次は、あなた。
真帆は店の奥へ駆け戻った。
床に座り込んだまま動けず、いつのまにか眠っていた。
翌朝、店主はいなかった。
奥の戸は開いたままだった。
床には、濡れた足跡だけが残っていた。
足跡は店の奥から入口へ向かい、水たまりの前でふつりと途切れている。
誰かに連れていかれたのなら、足跡はもっと乱れるはずだった。
店主は、自分の足でそこへ歩いていったのだ。
警察が来た。
調べて、首をひねって、帰っていった。
「ただの雨水ですよ」
そう言い残して。
パトカーが角を曲がるのを見届けてから、真帆は水たまりの前に立った。
見てはいけない。
そう思うのに、膝が勝手に折れた。
水の底に、店主が立っていた。
いつもの前掛けのまま、こちらを見上げている。
胸には、白い百合が咲いていた。
花瓶の最後の一本は、まだ店にある。
水の中の三本も、そのままだった。
店主の口が、ゆっくりと動く。
何を言っているのかは、分からなかった。
次は私だったはずだ。
なのに、先に呼ばれたのは店主だった。
順番など、最初からなかったのかもしれない。
その日から、花瓶の最後の一本は、消えなくなった。
数日後、店を閉めることになった。
片づけの最後に、花瓶には一本だけ、鉄砲百合が残っていた。
見ないふりをして終わらせたかった。
捨ててしまえば、全部なかったことになる気がした。
茎を掴んで、引き抜く。
その瞬間、茎がぬるりと脈打った。
花ではなかった。
血管のような、生き物の拍動だった。
その拍動が、てのひらにまで移ってくる。
悲鳴をあげて手を離す。
百合は床に落ちなかった。
入口へ向かって、まっすぐに倒れていく。
そこには、外の水たまりが、敷居のすぐ手前まで迫っていた。
花の先が、水に触れた。
ぽちゃん、と。
ありえない深さの音がした。
水面が、波紋ごと持ち上がった。
外にあったはずの水が、敷居をまたいで、店の中へ流れ込んでくる。
真帆は後ずさった。
足首が冷たい。
気づけば、水は脛まで上がっている。
硝子戸の向こうでは、通りが乾いたまま光っていた。
戸に手をかけても、水の重みで動かない。
水面に、顔が浮かんだ。
知らない人々。
泣いている人、叫んでいる人、口を開けたまま動かない人。
そして、店主。
全員の胸から、白い鉄砲百合が咲いていた。
水の奥から、青白い女がゆっくりと手を伸ばす。
真帆は叫ぼうとした。
そのとき、胸の奥で何かが脈打ち始めた。
さっき、百合の茎からてのひらに伝わってきた、あの拍動だった。
痛みはなかった。
代わりに甘い花の匂いが、濃く、冷たく、喉の奥まで満ちていく。
白い蕾が、胸の中でほどけていく。
口から出たのは、声ではなく水だった。
翌朝。
花屋の前の水たまりは消えていた。
店先には、見事な鉄砲百合が一本だけ咲いていた。
通りかかった人が足を止める。
「綺麗ね」
そう言って、誰かが花に手を伸ばした。
指先が、花弁に触れた。
その人は小さく手を引いた。
指先が濡れている。
ハンカチで拭いながら、首をかしげて去っていく。
花弁の奥から、小さな水音がした。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
次に立ち止まる人を、待っているように。




