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白い沈黙

作者: 吉江一樹
掲載日:2026/06/16

 低く長い警笛が冬の白い空に、突然鳴り響き、私はおもむろに列車の中で目を覚ました。列車はほとんど何もない、誰もいない淋しい駅に今にも止まろうとしているところだった。

 

 私は列車が止まると、車内の冷たい冬の空気が、僅かに揺れた気がした。

 

 私は列車を降りようと、少し大きめの、やや重たい何時もの黒いカバンを持って立ち上がると、車内にはもうほとんど乗客はいなかったし、列車の扉が音もたてずにゆっくり開くと、冷え込んだ外気は少しづつ、車内にいきよいよく流れ込んでも来た。

 

 私は少し大きめの、やや重たい何時もの黒いカバンを背にぶら下げたまま、列車を素早く降りて誰もいないホームにゆっくりと立った。ほとんど雪に埋もれたホームを踏みしめると、靴底のかすかな音が小さく耳に届いた気がした。

 

 すると乗客のほとんど乗らない列車は次の駅に向かって静かに走り出して行った。


 ホームにはひと一人誰もいない、ただ空に二匹のカラスが遠くで鳴きながら飛んでいくのが見え、やや錆び付いた白い板が、雪で覆われ、掠れた平仮名で綴られた駅名の輪郭だけがぼんやりと浮いていた。

 私はそれを見ただけで、振り返らなかった。

 

 改札を出ると、町……、と言うよりは、ほとんど村に近いわずかな家並みは静かに、何も期待の無い様に眠っていた。

 

 しかし、町は何も変わっていなかった。

 少し古びただろうか……。

 道も、家も、空に低く手が届きそうに重たく垂れ込んだ灰色の雲で一面が覆われて、おかげで町には光はなく、今にも雪が降りだしそうだった。

 

 ホームを出て歩き出すと、影は道に映らなかった。

 

 少し歩くと、私の前方に薄くやや小さめの人の影がぼんやりと現れた。

 

 女だった。

「久しぶりね……」そう言った女は、

 暖かそうに真白なセータを着て、私を見ながら立っていた。

 近づくと、相変わらず黒髪が真っ直ぐ背に流れていた。

 そしてその髪はつややかで美しく長い黒髪だった。

 

 

 私は何も言わなかった。言えなかった。私達は目が合ったが、その女はすぐに視線を逸らせた。

 

 私は少し進み、足を止めた。

 振り返ると、女は立ち止まったまま、まだそこに立っていた。

 「こないのか」

 「どこいくの……」

 声は、すぐに途切れた。

 

 私は答えなかった。答えるほどのことはなかった。

 私が歩き出すと、女は私に近づき、何も言わずにそのまま私の横へと並んだ。

 

 「川は、この先よ」

 少しすると女が言った。

 私は答えなかった。

 私はやや大きめな声で訊ねた

 「どうやって行くんだった……」

 すると、女は立ち止まり、無言で前を指した。

 

 細く長い指先の、その先が白く美しかった。

 

 私はうなずき、歩き出した。

 少しして、後ろを見ると、女は既にそこにはいなかった。

 私は俯いたまま再び一人で歩き出した。

 やはり足音が、だけが耳に届いていた気がした。


 川に着いた。

 

 川はまだ凍りきっていなかった。

 中央に細い流れが残っている。

 そこだけが黒く、動いていた。

 

 風もなく、音はほとんど聞こえない。

 

 私は川岸に立ち、しばらくその動きを見つめ、やや重たいいつもの黒いカバンから少し小さめのキャンバスを取り出してキャンパスを立て掛け絵を描く準備をした。

 

 そして立て掛けたキャンバスの真っ白な紙面に、真直ぐに黒い線を引きかけた。

 

 一本引きかけたが、止めた。手が動かなかった。それ以上、続かなかった。

 何時の間にか降り始めていた真っ白な小雪がキャンバスの上につもり、弾きかけた一本の線が消えて行ってしまった。俯いたまま私は鉛筆をしまい、川岸に腰を掛けて煙草に火をつけた。

 

 振り向くと、いつの間にか真白なセータを着た女が近づいて来ていたが、彼女のその髪はやはりつややかで美しく長い黒髪だった。

 

 彼女は私に近づくと横に座った。

 真直ぐと川を見ているが、私の方は見ていない。

 「冷えますね」彼女が言った。

 私は煙草を咥えたまま答えなかった。答えられなかった。

 

 私は、しばらく動かなかった。動けなかった。

 「昔、ここで……」

 彼女は言いかけて、やめた。

 

 沈黙に落ちた。降り始めてきていた真白な雪の粒は細かく、風もなかった。

 二人の沈黙は白く長く続いた。

 

 私はタバコを手に、そのつややかで美しく長い黒髪を見た。

 

 「描かないんですか?」彼女が問いかけて来た。

 

 私は答えなかった。答えられなかった。

 

「あなた、何しに来たの?」

 彼女は再び問いかけて来た。そして視線を川から外さないまま、かすかに笑ったようだった。

 

 「変わってないわね……」

 

 それだけ言うと、つややかで美しく長い黒髪の女は立ち上がり歩き出した。来たときと同じように、音もなく何処かへ消えて行った。

 私は一人、その場に残った。

 川岸に立て掛けていた、キャンバスは真っ白い、ままだった。引かれてあった、細い一本の線は、いつの間にか降り始めた真白な雪が積もり消えていた。

 

 雪は、少しだけ強くなってきていた。風も出て来た。北風だった、強く悲しく吹き付けて来た。


 

 やがて私は、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がるしかなかった。

 町へ戻る道は、来たときと同じだった。

 同じはずだった。

 

 街灯にまだ灯りのない道。古く寂しげな、しかし立派な構えの数件の家々の前を通り、同じ道を踏んだ。

 振り向くと、白く薄く積もった雪の上に足跡は残っていなかった。

 何のために来たのだったろうか、歩きながら私は思ってしまっていた。


 

 宿に着くと部屋は、とても冷えていた。

 扉を閉めても、温もりは戻らない。

 

 私は、暗く寒い部屋の中で、しばらく立ったままでいた。

 「昔ここで……」

 しかしそれ以上何も思い出さなかった。何も思い出せなかった。

 あるいは、思い出していたのかもしれなかったが、型にはならずにいたのかもしれなかった。

 

 暗く寒い部屋は私に問いかけてくるようだった「何をしに来たのか?」


 夜は、静かで長かった。

 窓の外では雪が降っている気配だけがあった。

 

 私は、灯りを消して眠ろうとした。

 暗さには、すぐに慣れた。

 そしていつの間にか深く孤独な眠りに落ちて行った……。

 

 

 朝になって、私は起き上がり、窓を開けた。空一面を覆ていた灰色の雲は消え、青空が広がり町には光が満ちていた。

 

 私は外に出てみた。

 川の方へ歩いてみた。 

 探したわけではなかったが、つややかで美しい黒髪の女はいなかった。

 昨日と同じ場所に立ち、同じ流れを見た。

 

 ポケットから煙草の箱を取り出した、が、煙草はなかった。

 箱を川岸に投げ捨てた。

 

 しばらくして、顔を上げた。

「来年、そう、題名は 川岸に立つつややかで美しい黒髪の女……」

 いつの間にか私は心に決めていた。

 

 雪は、また降り始めていた。

 私は動かなかった。動けなかった。

 そのまま、しばらく立っていた。

 何も起こらなかった。


                

                                 おわり

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。もしよろしければ他作ものぞいていただけると嬉しいです。

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