第五章 まだ遠い夜明け
四度目は、早朝だった。
空は白みはじめている。
静かすぎる朝だった。
――嵐の前は、いつもこうだ。
レオンは東の丘に立ちながら、遠くの陣地を見た。
今日だ。
王国軍の総攻撃。
それを、俺は知っている。
夜明けと同時に西側戦線を突破する。
その裏で、敵主力の転移網を破壊する強襲部隊が動く。
自分は、その中心にいる。
そして。
あいつもきっと、気づいている。
カルディアほどの女が、この不自然な静けさを読めないはずがない。
スパイ網もある。
戦況分析もある。
今日どこかで大規模作戦が動くことなど、推測しているだろう。
だから。
これが最後になるかもしれない。
――わかっている。
わかっていて、ここに来ている。
足音。
「……来ると思ってた」
振り返らずに言う。
背後から、落ち着いた声。
「根拠のない自信はおやめください」
振り向く。
朝霧の中に、紫紺のローブ。
銀に光る髪。
胸の奥がひりつく。
戦場で何度も刃を向けた相手の姿を、
自分はこんな目で見るようになってしまった。
「今日は無傷だな」
できるだけ、いつも通りに。
「あなたも」
「朝から五体満足。ありがたいことだ」
軽口を叩く。
それが、今できる最大の臆病だ。
本当は言いたい。
――今日、総攻撃だ。逃げて、生きのびてくれ。
だが、それは言えない。
カルディアは相手軍指揮官のひとりなのだ。
距離は近い。
吐く息が白い。
この距離が、あと何時間保てるかはわからない。
「今日は偶然じゃない」
カルディアが言う。
やはりな、と思う。
「そうだな」
「あなたが来ると思ったから来ました」
心臓が一拍、強く打つ。
言うな。
そういうことを言うな。
「それ、朝から心臓に悪いな」
笑う。
冗談に変える。
そうしないと、自分の顔が持たない。
「……訂正します」
「おう」
「あなたに会いたかったから来ました」
朝の静寂が、深くなる。
逃げ場がない。
この女は、知っている。
今日がどういう日か。
それでも、こう言う。
「それは」
「告白ではありません」
「どこが」
「戦略的確認です」
ふっと笑う。
戦略的、か。
なら俺も戦略的に返そう。
――生き残る理由を増やしてやる。
沈黙。
太陽が少しだけ顔を出す。
カルディアが言う。
「もし、戦争が終わったら」
その言葉に、レオンの喉がわずかに詰まる。
戦争が終わる未来。
それは、二人とも生きている前提だ。
「終わったら?」
「あなたは何をしますか」
即答しない。
本当は。
――お前を探す。
そう言いそうになる。
だから別の答えを選ぶ。
「……釣りでもするかな」
静かに待つ。
魚がかかるまで、じっと。
戦場では絶対にやらないことだ。
「あなたは待つより、突っ込む方でしょう」
「それは否定できん」
笑い合う。
その間も、頭のどこかで戦術図が浮かんでいる。
時間だ。
あとどれくらいだ。
誰が最初に動く。
それを互いに、絶対に口にしない。
カルディアが言う。
「私は、研究を続けるでしょう」
「禁忌か?」
「……いいえ。人を守るためのものを」
ああ。
だから厄介なんだ、おまえは。
心の奥で、そう思う。
「似合ってる」
カルディアが、まっすぐ見る。
「そのとき、隣に誰かいますか」
試されている。
未来に、自分を置く覚悟があるかどうか。
ここで、冗談を言うつもりはなかった。
「いるといいな」
「どんな人が?」
「目が怖くて、怒ってなくても怒ってる顔してるやつ」
呼吸が乱れるのがわかる。
「でも、本当は誰よりも臆病で、誰よりも優しい」
これは告白だ。
だが、言い切らない。
戦場の男の、最大限の卑怯。
「本当に、卑怯です」
そう言われて、少しだけ救われる。
ああ。
同じことを思っている。
俺はそっと手を伸ばす。
触れる。
逃げない。
振り払わない。
それだけで十分だった。
この温度を覚えておく。
次に会うのが敵としてでも、
死体としてでも、
覚えていられるように。
「次に会うとき」
「……ああ」
「私は、全力です」
当然だ。
そうでなければ困る。
本気で来い。
本気で生きろ。
「迷いません」
「迷うな」
自分に言っている。
迷えば、剣が鈍る。
――轟音。
来た。
西だ。
王国軍の第一波。
同時に、東で巨大魔法陣が展開される気配。
やはり読んでいたな。
カルディアの目が変わる。
女ではなく、指揮官の目。
「……始まりました」
「ああ」
手を離す。
その瞬間、世界が戻る。
「次に会うときは」
「戦場だ」
数歩、距離を取る。
たったそれだけで、遠い。
「……生きてください」
約束はしない。
それが正しい。
戦場での約束は、呪いになる。
俺は剣を抜く。
「魔導連合の最終防衛ラインを突破する」
嘘ではない。
本当にそうする。
だが。
その先に、お前がいるなら――
切る覚悟はできている。
それでも、生きろ。
視線が絡む。
迷いはある。
だが、迷いを抱えたまま進むしかない。
カルディアが光に包まれ、消えた。
さっきまで、そこに彼女がいた証拠みたいに。温もりだけを残して。
俺は逆方向へ駆け出す。
胸の奥が焼けるようだ。
だが泣かない。
泣くのは、生き延びてからだ。
通信魔法を開く。
「隊列を整えろ!!総攻撃開始だ!!」
声は、いつも通り。
完璧な指揮官の声。
だが胸の奥で、ひとつだけ願う。
――生きていろ。
夜は終わった。
だが。
俺たちの戦いは、これから始まる。




