第二章 一時休戦
その建物が、かつて礼拝堂だったのだと気づいたのは、崩れかけた聖印を見たときだった。
天井は半ば崩れ、壁は風化し、信仰の名残はほとんど残っていない。
だが地下へ続く構造だけは、奇跡的に形を保っていた。
魔力嵐をやり過ごすには、これ以上ない場所だ。
部下は撤退できたはずだ。
最後尾に残った俺は嵐に呑まれた。通信は途絶え、視界は一メートル先も見えなくなった。
気づいたときには、戦場には俺ひとりだった。
丘を這うように登り、この建物を見つけたのは理屈じゃない。本能だ。
「まだ、生きているらしいな……」
独り言が、崩れた壁に吸い込まれていく。
安堵した途端、全身に疲労が押し寄せた。
握り続けていた剣が、急に重くなる。
内部を確認し、地下へ向かう。
――その途中で、足が止まった。
いる。
息を止め、剣を構える。
向こうも、こちらに気づいているはずだ。
薄暗がりの奥。
紫紺のローブ。細く長い影。
「……ここまで来るとは思いませんでしたよ、白銀剣」
カルディア。
他に気配はない。ひとりだ。
杖に体重を預けて立っている。戦場と変わらぬ姿勢だが、呼吸は荒い。
「奇遇だな。魔導連合の切り札が、同じ逃げ場を選ぶとは」
剣は下げない。距離も詰めない。
正直、今いちばん戦いたくない相手だった。
ここで派手にやり合えば建物は崩れ、魔力嵐の餌食になる。
それに、今の消耗では、勝てたとしても帰還できる保証がない。
外では嵐が唸っている。
世界そのものに閉じ込められたような感覚だった。
「追撃ではない、という顔ですね」
「そっちもだろ」
視線がぶつかる。
探り合い。だが、殺気は薄い。
カルディアが小さく肩をすくめる。
「安心してください。魔力はほとんど残っていません。あなたを仕留めきるには足りません」
「正直だな」
「戦場で嘘をつくほど、器用ではありません」
妙に率直だ。
「……一時休戦。どうだ」
本来ならあり得ない提案。
だが彼女はすぐに頷いた。
「同意します。ここで相打ちなど、合理的ではありません」
「嘘はないな?」
「嘘をつく余力も、ありません」
空気が、ほんの少しだけ緩む。
剣と杖は構えたまま。
だがもう、今すぐ斬り合う距離ではない。
彼女は壁にもたれ、腰を下ろした。
隠しきれない疲労が滲む。
「以前から思っていましたが、噂よりずっと細身ですよね」
唐突な一言だった。
「初めて白銀剣の噂を聞いたときは、重装の騎士だと思っていました」
「よく言われる」
俺も、距離を保ったまま腰を下ろす。
「その代わり、噂よりよく動く自負はある」
「そうですね」
口元だけで笑う。
「王国では、“禁忌魔法に溺れた研究者”とも言われているのでしょう、私は」
「言われてるな」
「実際に会って話してみた印象は、どうですか?」
少し考えてから答える。
「……思ってたより、まともに見える」
彼女の目がわずかに見開かれた。
「それは、褒め言葉として?」
「そのつもりだ」
嵐の音が遠くで唸る。
敵のはずなのに、次の一手を考えなくていい。
その緩みが、口を軽くする。
「なぁ。あんた、部下に怖がられてるだろ」
「なぜですか」
「目がな。怒ってなくても怒ってる」
「……あなたも同じです」
「俺は優しい目だ」
「いえ。処刑人の目です」
「ひどいな」
思わず笑う。
彼女も、ほんのわずかに笑った。
戦場では絶対に見せない顔だ。
「意外でした」
「何が」
「あなたが、そんな軽口を叩く方だとは」
「戦場で会う俺しか知らないだろ」
「ええ。正直、少し腹が立ちました」
「勝てそうだったのに、って顔してた」
「あなたもです」
「バレてたか」
沈黙。
しかし居心地は悪くない。
「指揮官ってのは、割に合わない」
「……どういう意味ですか」
「自分が死ぬより、部下が死ぬほうがきつい」
カルディアの表情が、わずかに和らぐ。
「……ええ。わかります」
「逃げたいと思ったことは?」
「あります」
即答だった。
「ですが、逃げられません」
「真面目だな」
「あなたもでしょう」
「まあな」
少し間を置き、レオンは言う。
「でも今は逃げてるな」
「……一時休戦です」
「便利な言葉だ」
「あなたが言い出したのですよ」
軽い空気。
ふと、さきほどの「逃げたい」という言葉が引っかかった。
「なぁ」
俺は彼女を見る。
「どうして、戦場に立ってるんだ?」
カルディアはわずかに首を傾げた。
「どうしてとは?」
「お前は戦闘員というより、研究者のように見える。それにさっきは、逃げたいとも言った。そんな奴が、どうして最前線にいるのかって思ってな」
責めるつもりはなかった。
ただ、純粋な疑問だった。
少しの沈黙。
「生活が脅かされていて、自分に力があるなら、戦うという選択をするのは自然ではありませんか」
淡々とした声。
「……まぁ、それはそうだな」
侵攻している側の人間である俺には、強く言い返せない。
王国は“非人道的な扱いを受けている住民を守るため”という名目で侵攻を始めた。
だが裏では、魔鉱資源の豊富な土地が目的だという噂もある。
どこまでが正義で、どこからが欲望なのか。
俺にはわからない。
カルディアは続けた。
「それに、家族はもういませんが……同郷で、家族のように接してくれた方が軍の幹部にいます。その方の力になりたいとも思っています」
「そうか」
そこには、確かな理由があった。
彼女も俺と同じだ。
いくつもの事情を背負って、ここに立っている。
人生というのは、どうしてこうも単純ではないのだろうか。
問答を重ねるうちに、嵐の音が弱まる。
「……収まりましたね」
「ああ」
終わる。
この奇妙な時間が。
「あなたと話せて、よかったと思っています」
一瞬、息が止まる。
「俺もだ」
迷いなく答えた。
「次に会う時は、戦場です」
「ああ。恨みっこなしだ」
「はい」
彼女は背を向け、出口へと向かった。
しばらくして、俺も外へ出る。
嵐は消え、戦場の輪郭が戻っている。
遠く、本陣へ向かう小さな影が見えた。
次は、殺し合いだ。
わかっている。
それでも。
――また会いたい。
できれば、戦場ではない場所で。
敵に対してそう思ってしまった自分に、わずかな嫌悪を覚えながら、俺は王国の本陣へ歩き出した。




