第11話 恐怖の部屋(1)
――帰宅後。
勇人は、玄関で靴を脱ぐと、ほとんど反射的に自室へと戻った。
扉を閉め、鍵をかけた瞬間、ようやく肺いっぱいに息を吸い込む。
「……はぁ……」
制服のままでは落ち着かず、急いで学生服を脱ぎ、部屋着に着替える。
学生服を腕に掛けた。
――そして。
それらを仕舞うため、部屋の隅に鎮座する観音開きのワードローブへと歩み寄る。
その手が、扉の取っ手に触れた瞬間。
脳裏に、鮮明すぎる記憶が蘇った。
――あの夜。
――あの魔女が、笑みを浮かべたまま、この扉の中へ消えていった光景。
背筋に、冷たいものが走る。
「……いや」
勇人は小さく首を振る。
「まさか……な」
自分に言い聞かせるように、そう呟き――
思い切って。
バッと、扉を開いた。
――そこは。
ハンガーに掛けられた私服。
畳まれたセーター。
季節外れの上着。
ただの、普通の衣装棚。
「……」
数秒、固まったまま見つめた後。
「ふ、ふふ……」
乾いた笑いが漏れた。
「ひょっとしたら……あれ、幻覚だったんじゃ……」
喉の奥が、ひくりと鳴る。
「……ふふ」
無理やり笑って、制服を仕舞い、扉を閉める。
――その瞬間。
背後に、気配。
ぞわり、と空気が粟立つ。
勇人は、息を止めた。
ゆっくりと振り返る……が。
「……?」
そこには、何もない。
部屋は静まり返り、時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……気のせい、か」
大きく息を吐く。
「いやいやいや……僕、怯えすぎだよ」
独り言を言うことで、恐怖を押し殺す。
そして、ベッドへ。
腰を下ろし、両手をスプリングの上に置いた――その時。
「……?」
違和感。
指先に伝わる感触が、おかしい。
柔らかいはずの布団が、
どこか――盛り上がっている。
「……あれ?」
視線を落とす。
確かに、布団の中央が、微妙に、だが確実に隆起している。
(……気のせい、だよな)
喉が鳴る。
胸の奥で、嫌な予感が膨れ上がる。
怖くて――
後ろを振り返れない。
その時。
「……すー……すー……」
――耳元で、息遣い。
「……え?」
心臓が跳ねる。
冷や汗が、一気に背中を伝った。
「……ふーーー……」
はっきりとした、吐息。
布団の中から。
(……嘘だろ)
恐る恐る、視線を布団へ向ける。
――やはり、盛り上がっている。
はっきりと。
(……見なかったことに……)
勇人は、ゆっくりと腰を浮かせる。
――刺激しないように。
――音を立てないように。
一歩、足に体重を移す。
(お願い……気のせいであってくれ)
心臓の鼓動が、耳の奥で爆音のように鳴る。
胸が痛い。
息が浅くなる。
「はっ……はっ……」
過呼吸になりかけながらも、必死に耐える。
(気のせいだ……これは……気のせい……)
さらに、ゆっくりと立ち上がろうとした――
その時。
ギシ……
スプリングが、わずかに軋んだ。
――瞬間。
がしっ。
「――っ!!」
手首を、掴まれた。
氷のように冷たい指。
だが、力は異様に強い。
「ひっ……!」
喉から、悲鳴が漏れた。
――我慢できなかった。
勇人は、悲鳴を噛み殺すことすらできず、反射的に振り返った。
――布団の中から。
人の手。
白く、細く、関節の影が不自然に浮かび上がった指が、勇人の手首を掴んでいる。
「……っ」
喉が、ひくりと痙攣する。
逃げたい。
見たくない。
でも――このままでは、もっと酷いことになる気がした。
「う、うあ……」
勇人は、決死の覚悟で――
布団を、剥いだ。
ばさり、と布が捲れ落ちる。
――そこに、いた。
黒髪。
きっちりと結われた、おさげ。
陶器のように白い肌。
布団の中で、膝を抱えるように座り――
天井の一点だけを、じっと見つめている少女。
瞬きすら、しない。
「――ひっ!!」
勇人の足から、力が抜けた。
腰が砕けるように崩れ落ち、床に転がる。
「あ、あ、あわわわわわ……!」
四つん這いになり、必死に床を掻く。
逃げなきゃ。部屋を出なきゃ。
――そう思っているのに、足が動かない。
腰が、立たない。
「は……はー……ひゃ……ひゃ……」
肺が、酸素を拒絶している。
過呼吸。
声にならない、壊れた呼吸音だけが、喉から漏れる。
――その時。
「……どこへ行くの?」
背後から、声。
柔らかい。
子守歌のように、優しい。
――なのに。
底冷えするほど、低く、冷たい。
勇人の背中を、氷水が流れ落ちた。
振り返りたくない。
でも、振り返らない方が、もっと怖い。
ぎこちなく、首を回す。
――そこにいた。
この前、転移陣の中で消えたはずの――魔女。
ベッドの上。
相変わらず天井の一点を見つめたまま、微動だにしない。
無言。
静寂。
――次の瞬間。
目だけが、動いた。
ぎろり、と。
首は動かさず、
視線だけが、真横に滑り――勇人を捉える。
「……っ!」
心臓が、止まるかと思った。
「ふーーーーーー」
魔女の喉から、異様に長い息が吐き出される。
生き物のものとは思えない、湿った呼気。
「……どこに行くの?」
もう一度。
逃げ道を塞ぐように、問いかける。
「ひゃ……ひゃ……」
声が、出ない。
本当に怖い時、人は叫べない。
本当に怖い時、人は――動けない。
勇人は、その場に凍りついたまま、瞬きすら忘れていた。
――ぎし。
ベッドが、軋む。
魔女の上半身が、ゆっくりと起き上がる。
関節が、正しく使われていない。
人形を無理やり起こしたような、不自然な動き。
「……どこに、行くの?」
距離が、縮まる。
逃げられない。
叫べない。
助けも、来ない。
勇人の視界いっぱいに、
歪んだ微笑みが、落ちてきた。
――こうして。
終わりのない、恐怖の時間が始まった。
――魔女は、ゆっっくりと起き上がった。
本当に、信じられないほど、ゆっくりと。
関節が一つずつ思い出されるみたいに、
きし、きし、と時間そのものを引き裂きながら――ベッドから立ち上がる。
影が伸びる。
部屋の灯りが、歪む。
「あ……あわ……あわわわわわ……」
勇人は声にならない音を喉から漏らし、四つん這いのまま床を這った。
出口はすぐそこだ。ドアノブが見える。
――行け。
――行け、行け、行け。
必死に腕を伸ばした、その瞬間。
「……どこへ行くの?」
耳元。
――あまりにも近い。
吐息が、耳殻を撫でる。
冷たく、湿った気配が、皮膚の奥にまで染み込む。
「……っ!」
勇人は口を開いた。
叫ぼうとした。助けを呼ぼうとした。
だが――
「ーーーーーーー」
音が、出ない。
喉は動いているのに、声だけが切り取られたように消えている。
(た、助けて……)
頭の中が、真っ白になる。
(助けて……助けて……助けて……)
思考が、恐怖に塗り潰される。
視界が狭まり、心臓の音だけが異様に大きく響く。
背後に、確かな“存在”を感じる。
振り返らなくてもわかる。
――見られている。
逃げ場はない。
抵抗もできない。
魔女の影が、勇人を覆った、その瞬間――
世界が、ぷつりと途切れた。
――勇人の意識は、闇へと沈んでいく。
最後に残ったのは、
耳元で、楽しげに息をする――
**何かの、気配だけだった。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
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