第10話 朝食事変
次の日――
目を覚ました瞬間、勇人は違和感を覚えた。
――匂いだ。
味噌の香り。
炊きたての米の、ほのかに甘い湯気。
「……?」
布団から起き上がり、廊下に出た瞬間、その光景は目に飛び込んできた。
台所に立つ少女。
ブレザーの上にエプロンを身につけ、慣れた手つきでフライパンを扱っている。
「おはよう、勇人」
振り返った翠は、朝日に照らされながら、にこやかに微笑んだ。
――あまりにも自然で。
――あまりにも、当たり前の朝だった。
「……は?」
思考が追いつかない。
さらに。
「おお、起きたか」
食卓には、新聞を広げる父の姿。
勇人は、固まった。
「翠さん、いつもありがとうねぇ」
父は心底感心した様子で、湯呑みを置く。
「しかもお弁当まで。
でもいいの? 本当に、我が家にお嫁に来て」
その言葉に。
翠は、ぴたりと手を止め――
「え……」
ブレザーにエプロン姿のまま、
両手で頬を包み、みるみる顔を赤らめた。
「そんな……お義父さん……」
もじもじと視線を落としながら、
けれど、はっきりと。
「もう、戸川家の嫁ですから……」
――その一言で、勇人の思考は完全に停止した。
(……今、何が起きた?)
食卓には、完璧な朝食が並んでいた。
炊きたての白米。
湯気を立てる味噌汁。
皮目が香ばしい焼鮭。
小鉢に盛られた納豆。
まさに、THE・和食。
「いただきます」
三人で手を合わせる。
その光景を見ながら、翠は思う。
(……こういうの、ずっとやりたかったんだ)
特別な呪文も、魔法陣もいらない。
毎朝の食事。
同じ食卓。
それだけで、人は「家族」になる。
父が先に会社へ出て行くと、家の中は一気に静かになった。
翠と勇人は、それぞれの高校へ向かうため家を出る。
途中までは、同じ道。
「そのさ……」
勇人は歩きながら、頭を抱えた。
「朝、いきなり居るからびっくりしたんだけど……
父さんには、なんて説明したの?」
翠は、少し首を傾げて。
「え? 説明とか、してないよ」
「……は?」
「そういう認識の魔法をかけただけ」
さらり、と。
「えっ!? 洗脳したの?!」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」
翠は頬を膨らませる。
「だって私、嫁だよ?ホントのことじゃない」
そして、少しだけ声を潜め――
「……ほんの、少し脚色しただけ」
(“少し”ね)
勇人の背中に冷たいものが走る。
「以前から二人は将来を誓い合ってて、
高校卒業して、あんたが就職したら結婚する――
そういう認識にしてもらってるの」
「……」
「でも、ほんとのことでしょ?」
翠は、にこっと笑う。
「いいじゃん」
まるで、逃げ道など最初から存在しないような口調で。
「間違ってないけど……間違ってる気がする……」
勇人は、深くため息をついた。
「それはそうと」
ふと、手に持った弁当袋を見る。
「……弁当、ありがとう」
その一言に。
翠の胸が、きゅっと締めつけられた。
「うん……」
嬉しそうに、頬を赤らめながら。
「今日から、毎日作るから」
――当然のように。
「お義父さんと、あんたの分」
翠は続ける。
「それと、朝と夕は勇人の家で食事するからね」
さらっと、生活の主導権を確定させる。
「もちろん、嫁の私が作るから」
(ここまで来たら、もう誰にも邪魔させない)
翠は確信していた。
家。
家族。
日常。
すべての外堀は、すでに完全に埋まっている。
そして――
(むしろ、ありがたい)
昨日、勇人から聞いた“ストーカー”の存在。
(牽制として、こうして外堀を埋められるなんて)
漁夫の利。
完全勝利。
翠の足取りは、軽かった。
気づけば、二人の手は自然と重なっていた。
勇人が驚く間もなく、翠は指を絡める。
「行こ」
逃げ場はない。
朝の光の中、
二人は手を繋いだまま、学校へ向かう。
――その登校風景を。
二階の窓。
分厚いカーテンの、ほんの指一本分ほどの隙間から。
誰かが、じっと見下ろしていた。
朝の光を背に、影は顔を隠したまま動かない。
だが、その指先だけが――ぎり、と音を立ててカーテンを掴んでいた。
「…………」
視線の先では。
勇人と翠が、指を絡めたまま歩いている。
あまりにも自然で、あまりにも――幸せそうな距離。
「……くっ」
喉の奥から、押し殺した声が漏れた。
「私というものが、ありながら……」
言葉には、湿った怒りが滲んでいた。
嫉妬ではない。
独占欲でもない。
それはもっと粘着質で、
もっと執念深い――所有権を侵された者の怒りだった。
影は、ゆっくりと身を引く。
カーテンの向こう、薄暗い部屋の中。
そこには、ベッドも机もない。
あるのは――
壁一面に貼られた、勇人の写真。
登校中、帰宅中、気づかれぬ角度から撮られた無数の瞬間。
そして。
「……これは」
影は、くすりと笑った。
「お仕置き案件ね」
その声には、怒りよりも――
愉悦が混じっていた。
手を伸ばす。
光を受けて、
二本の刃物が、鈍く、妖しく煌めく。
刃先には、うっすらと魔力がまとわりつき、
空気がひやりと歪む。
「ふふっ……」
笑みが、ゆっくりと歪んでいく。
「大丈夫よ、勇人」
誰に向けたとも知れない囁き。
「悪い子はね……ちゃんと、躾けてあげないと」
刃が、かちりと重なる音がした。
その時。
家の向かいの電柱。
じっと、その光景を見つめる一羽のカラスがいた。
黒曜石のような瞳が、
二階の窓と、登校する二人を、交互に捉える。
「……カァ」
短く、意味ありげに鳴く。
そして。
羽を広げると、朝の空へと舞い上がった。
――まるで。
すべてを見届け、すべてを報告するために。
その姿はやがて、森の方角へと消えていく。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。
今後もよろしくお願いします!




