朝食をともに
小気味のいい油の跳ねる音。
フライパンに乗せた卵が、気泡をはじけさせながらジュージューと焼けていく。
昨晩は結局、夕食も食べずにソファで眠ることになった。
「……」
今、腹の虫が盛大に鳴っている。もう限界らしい。
時刻は朝の七時半。
休日の朝なら、いつも通りもう少し惰眠をむさぼり、起きるのは昼前になる。
だが今日はソファで寝たせいか、早く目が覚めてしまった。
「……一応、二人分の目玉焼き焼いてるけど、食べるのか?」
いつもなら一人分で済む朝食を、今日は二人分作っていた。
理由は簡単。
昨晩、思いがけない人物を家へと上げてしまったから。
そのせいで晩ごはんは逃し、シャワーしか浴びていない。まああれは俺が勝手にやったことだし、あっちが悪いという訳ではないが。
当の彼女は今も寝室で眠っているのだろうか。
熟睡できているのなら別に問題は無いのだ。
一応、部屋の掃除や消臭には気を遣えている……はず。
――バンッ!
噂をすれば影というか、考えた途端にけたたましい部屋が扉の向こうから聞こえてきた。
……あれは多分、寝室の扉の音だろう。
起きたらしい。
随分早起きなんだな。
そんなことを考えているうちに、先ほどとは違って今度は慎重にリビング扉のドアノブが捻られる。
「え……幸村くん?」
開かれた扉の前には、花宮詩乃が立っていた。
「あ、えっと……よく眠れました?」
なぜだか彼女は、目を白黒させている様子。
状況がまだ飲み込めていないようだ。
「あの、昨晩のこと……覚えてます?」
昨夜、雨に濡れていた花宮の手を引き、俺は彼女を家へと上げてしまった。
今さらながら、やっぱりキモかったかもしれない――そう思わずにはいられない。
すぐにでも謝るべきか?
「あ、えっと……ごめんなさい、全然覚えてないの」
困惑をたたえる顔の彼女に、俺も同様の困惑の顔が浮かんでしまう。
覚えていない……とは。
どこからどこまでを覚えていないんだ?
いや、言葉の意味は分かるのだが、状況の理解が追い付かないのだ。
しかし、昨夜の花宮は俺の名前を確かに呼んでいたし、多少フワフワしていたが受け答えもはっきりしていた。
それに、いつもより饒舌だと感じたくらい……それが異常だったのか?
それこそまるで、別人のようで――
仮説を立てて整理することもできたが、ソワソワと落ち着かず、視線を泳がしている彼女を見ていると、それどころではなかった。
その時、タイミングよく炊飯器のリズムを刻んだ音色が流れる。
炊けた合図だ。
そうだ、朝ご飯。
せっかく作っていたのだし、何より気持ちを落ち着かせるには食事が一番なのかもしれない。
「朝ご飯作ってたんですけど……よければ食べます?」
今朝の献立はメインに目玉焼き。それに焼いただけのウインナーとレンチンしたハッシュドポテト。あとは炊き立てご飯と、インスタントだが味噌汁も。
わりと簡素ではあるが、1人暮らしの俺にとっては上出来な朝食だと思う。
俺の顔と、皿に盛られた朝食たちを交互に見やる花宮。
その表情には驚愕や困惑以外にも別の感情が入り混じっているようにも見える。
何か言いかけては口を閉じ、また少し開く。
言葉の代わりにわずかな呼吸音だけが聞こえてくる。
「た、食べます?」
改めて確認をするが、やはり断られるだろうか。
さすがにクラスメイトとは言え、ほとんど話したことのない男の手料理だ。
むしろ昨日ようやく会話したばかり――いや、彼女にとってはその記憶さえないのかもしれない。
「えっと……それじゃあ、ありがたくいただくね」
少し時間をかけての返事だったが食べてくれるらしい。
てっきり断られると思っていた。
けれど花宮は、気遣うように微笑み、俺に了承を取ってから椅子を引いた。
二人分の茶碗にご飯をよそい、テーブルに並べる。
彼女のとなりにも椅子はあるが、そこに座る勇気はさすがになかったため正面に座ることにした。
「いただきます」
「どぞ……」
律儀に手を合わせ、軽く頭を下げる花宮。
……やっぱり、美少女って睫、長いんだな。
目を伏せた瞬間に、カーテン越しの朝の光が睫毛の先にきらめく。
化粧っ気のない横顔が、逆に目を奪うほど整っている。
俺の知る限り、花宮は学校でもほとんど化粧をしていないように感じる。
せいぜいリップクリームを塗るか、眉を少し整える程度だろう。
それなのに――スッピンの今でさえ、息を呑むほど綺麗だと思ってしまう。
「あ、ちなみに目玉焼きに何かける……?」
一応聞いておく。下手をすれば彼女の逆鱗に触れるかもしれない。
まあ、そんなことで怒るようなタイプには見えないが、これは“キノコタケノコ戦争”並みに根深い問題だ。
「あー、お醤油かな……幸村くんは?」
「俺はケチャップですね。味がマイルドになる」
「へぇ、今度試してみようかな」
醤油を花宮へ差し出し、彼女もまた短いお礼と共に受け取る。
必要最低限の会話を交わしたあとは、また静けさが降りた。
俺はケチャップを目玉焼きにかけながら彼女の様子を伺う。
行儀よく箸で目玉焼きをカットした後、小さな口へと入れる。
箸の持ち方はとてもきれいで、一口もそれほど大きくはない。
「美味しい」
「一応誰でも作れるような小食ですけど、口に合ってよかったです」
社交辞令だ……と思ったから口を挟んだのだが、明らかに変な顔をされた。
なにか癇に障るようなことを言ってしまっただろうか。
俺はケチャップをかけた目玉焼きをおもむろに切って口へ運ぶ。
……気まずい。この気まずさを取り除くために立ち上がって歩き回りたい謎の衝動を我慢する。
「……れで」
「え?」
なにか言っていたようだが聞き逃した。
「……それで、昨日は何してたのかな?」
短い息を吐き、意を決したような花宮の視線が、まっすぐに俺を射抜く。
しかし、不安が残るのか、その瞳はわずかに揺れていた。
「えと、俺は――」
「あ、違うの! 私が何かしちゃってたのかなって!」
顔を真っ赤にして、両手をバタバタと振る花宮。
さっきは昨夜の記憶がないと言っていたが、つまりその時のことを知りたいのだろうな。
記憶がないというのも変な話だとは思うが、夜の変心を見てもあながち間違いではないのかもしれない。
公園で1人立ち尽くしている花宮に会ったこと。その後の大雨のせいで俺の家に招くことになったこと。風呂に入れて、服を貸して、寝かせたこと。
俺は順を追って昨夜のできごとをできるだけ淡々と、内心を挟まずに説明した。
花宮はそれを黙って聞いた後、味噌汁を一口啜る。
箸を置き、そして、ゆっくりと両手で顔を覆い隠した。
「……恥ずかしい! 穴があったら入りたぃ……」
消え入りそうな声。耳まで見事に真っ赤だ。
けれど、数度深呼吸をして、彼女はぽつりと告げた。
「……私ね。夜中の11時を過ぎると、性格が変わっちゃうみたいなの。理由はわからないけど……たぶん夢遊病の一種だって、お医者さんが言ってた」
予期せぬカミングアウト。しかし、昨夜と今の花宮は明らかに雰囲気から口調、所作までなにからなにまで違う。
ならばそういうことなのだろう。
つまり、あの夜の花宮はもう一人の花宮だったということか。無意識の中に隠れていた、もう一つの本音。
「……そうなんですね」
「お、驚かないんだね?」
俺の心はいたって冷静だ。
昨夜のあれを見ているとあながち嘘ではないことがわかるし、彼女がそんなことで嘘まで吐くとは微塵も思わないから。
でも――知らなかった。
学校では誰もが一目を置く、完璧で手の届かないと思っていた存在が。こんな秘密の顔を抱えていたとは。
花宮詩乃の秘密、それを俺は、偶然とはいえ知ってしまった。
「あのね、これを知ってるのは蒼空ちゃんたちだけなの」
言葉を選ぶように、花宮はそっと俯いた。
指先で茶碗の縁を撫でながら、申し訳なさそうに微笑む。
蒼空ちゃんたち――いつも花宮と一緒にいる三人の女子だ。
きっと、信頼している友人たちだ。仲の深さがあってこそ、こうして打ち明けたのだろう。
……もしくは、俺のように夜の花宮に遭遇したのかもしれない。
胸の奥がざわつく。
つまり――男でこのことを知っているのは、俺だけ。先生ですら知らない、彼女の裏の顔を。
ただの秘密共有じゃない。その重みが、じわじわと心臓にのしかかる。
花宮詩乃という完璧な象徴の、ほんのひと欠片を、俺だけが握っている。
妙な優越感と、どうしようもない罪悪感が入り混じり、息が詰まりそうになる。
いや、やめよう。ちょっと申し訳ないな。
小さく息を吐いた俺に、花宮がぽつりとこぼす。
「でも、バレたのが幸村くんで良かったかな」
思わず手が止まった。
「え……?」
その言葉の意味を測りかねて問い返すと、彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。
「だって、幸村くんって、クラスメイトに過干渉しないでしょ? それに……私のこと、恋愛対象に見てないと思うし……」
声が少しずつ細くなって、最後のあたりは消え入りそうだった。
言葉を終えると同時に、彼女は視線を逸らし、頬までほんのり赤く染めていく。
両手で湯気立つ味噌汁の茶碗を包みながら、まるで自分の言葉に照れているかのようだった。
誤解がある。
別に、異性に無関心なわけじゃない。
確かに俺は花宮のことを恋愛対象だとは思っていないし、そもそも仮にそんな関係を築けたところで彼女の箔を下げてしまうだろう。
それに、男の俺を安全だと思わない方がいい。理性があっても、いつ野獣になるのかわからないのだ。
もし俺が彼女に好意を向けたとして、その想いが届く保証なんてどこにもない。
花宮の周りには、俺よりずっと明るくて、格好よくて、積極的な奴らが山ほどいる。
勝てる見込みのない試合に挑むほど、俺は単純でもなければ、馬鹿みたいに自信家でもない。
彼女の「恋愛対象じゃない」という言葉は、そういう意味ではあながち間違ってはいない。
むしろ、正解すぎて、何も言い返せなかった。
「ああ、えっと、朝ごはん美味しいね!」
花宮は、この空気にいたたまれなくなったのか、慌てて話題を転換させた。その慌てぶりが少し可笑しくて、口の端がわずかに上がり、薄い笑みがこぼれる。
「あ、今日初めて笑った? ていうか笑ったとこ初めて見たかも」
花宮はきれいな瞳を細め、俺の顔をじっと見つめてくる。さっきまでの慌てぶりはどこへやら、その顔にはイタズラっぽい、あどけない笑みが浮かんでいた。
やはり、花宮の本質はこういうところなのだろう。
「花宮さんは、みんなが言うほど清楚じゃなさそうですね」
「それ、失言だよ! まるで私が悪い子してるみたいでしょ」
張り詰めた空気が、いつの間にかやわらかくほぐれていた。
なんだか絆された気分だ。
普段、人を自分の家に招くなんてほとんどない俺だが――まさか、こんなにも簡単に花宮詩乃という少女に心の扉を開けられるとは。
この気持ちがなんなのか、まだはっきりとはわからないが、胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、それが大切なものだという確信だけは、なぜかあった。
分割しないとこの話だけ8000文字超えるとこだった……




