第4話 獺祭魚(だっさいぎょ)こと李商隠
確かに女性が一人いるだけで、李商隠に続き杜牧も若返っていた。どのような理屈が働いたのか謎である。が、魚玄機の存在が二人を若返らせたのだ。それをカラオケ機と同列に理不尽な現象とするのは、野暮ではないかと白居易は感じるのだった。
若返った李商隠と杜牧はしきりに魚玄機に目配せする。二人揃ってプレイボーイの香りを隠そうともしない。魚玄機はわざと熱々の茶で二人の茶碗を満たしてやった。
茶碗で指を火傷しそうになあった李商隠は話しに興じることにした。
「白居易先生が晩年に私の詩風を気に入って下さったとは、嬉しいですよ。私ときたら官場では変節者だの裏切り者だの、毀誉褒貶から二文字を抜いて呼ばれていましたから」
白居易は肯いた。
「中央で職を干されて地方にいたからこそ、君は独特の詩を追求できた。獺祭魚と綽名されるほどに。なかなか出来ることではない、私には無理な道だ」
杜甫が訊いた「獺祭魚とはカワウソが獲った獲物を岩場に並べることでしょう。詩に関係があると?」
応えたのは魚玄機だった。
「李商隠殿の詩は典故がはなはだしく、カワウソに例えられるほどなのです」
典故とは古典からの引用であり、詩の世界観を広げる手法である。魚玄機は「例えば」とタブレットに李商隠の『錦瑟』を入力しながら詠った。今度はいよいよ艶めかしくも澄んだ声であった。満点を表示したカラオケ機を無視し、彼女は解説を始めた。
錦瑟無端五十弦 (美しい大琴はその昔には五十弦あったという)
一弦一柱思華年 (弦にも琴柱にも一つ一つ麗しの青春が込められている)
莊生曉夢迷蝴蝶 (荘子は胡蝶の夢を見て、うつつか夢か迷うて生きた)
望帝春心托杜鵑 (望帝は失恋を血を吐く杜鵑に託した)
滄海月明珠有涙 (仙界の海に月が明るく人魚の涙は真珠になり)
藍田日暖玉生煙 (玉を産む藍田は暖かな煙を上げて玉が輝く)
此情可待成追憶 (この失意は朦朧と追憶する今に始まったものか)
只是當時已惘然 (だが、見定め難いものは当時からすでに朦朧としていた)
「第1句の五十弦がそうですね。伝説の皇帝・伏犧は五十弦の琴の音色のあまりの悲しさに、琴を打ち壊したという故事を含んでいます。それに『錦』は『琴』の言葉遊び。そうですね、李商隠殿」
王維と李白と杜甫は「ほう~」と声を揃えた。彼らは自然や人間の機微をそのまま詩に読んできたので、こうした方向に技巧を凝らした句を解説されて感心してしまった。
しかし、獺祭魚には問題があった。ほとんどの句に典故が盛ってあるので、その引用元が分からないと、ただ難解なだけである。魚玄機が7つ目の典故を明らかにした時点で李白は「めんどくせえ~、『四書』に『五経』に『荘子』『捜神記』『抱朴子』とにらめっこかよ、めんどくせえ~」と言い放った。
若返った李商隠は、やっと持てるまで冷めた茶椀をがちゃりと置いて立ち上がった。
李白も「やるか、若造」と立ち上がる。李白は少年の頃、任侠の世界にいたこともあり、軍務の経験もある。本気を出せば、優男の李商隠の腕一本くらいはへし折りそうだ。
杜甫がまぁまぁと割って入る。
「怪我しても、ここには薬の一つもないのですよ。子供じみたことは止めなさい」
王維が李白の袖を引っ張る。
「そなたは天衣無縫に言葉を操る才がある。それで好いではないですか。皆で詠えば心地よかったことでしょう。ここにいるのはそれぞれに己が詩文を追求してきた者ばかり。必要なのはリスペクトです」