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北限より来たりし物

 ひゅおおう、と風が音を立てた。

 細く長い風音が、窓ガラスを震わせる。


 スウェルは鋭い目を眇めて、じっと遠くを見つめた。

 風に多量の雪が激しく流され、視界は悪い。

 分厚い雲が空を覆って、夕方だと言うのにとても暗かった。


 ……こんな日は、良くないことが起きる。


 かつてもこんな雪の降る風の強い日に、やつらが来た。

 北限のさらに先。

 あらゆる生物が住み着かない極北の地に棲む物たち。


 人々はそれを奪いし者(アダージョ)と呼んでいた。


 スウェルは窓から目を離すと、家の中に視線を向けた。

 暖炉のパチパチと爆ぜる火に炙られて、ホワイトシチューがコトコト煮立っている。


 ミルクと油の焼ける甘く香ばしい匂いが、ふんわりと部屋に立ち上って、空腹が刺激された。


「にいさん! ごはんできた!?」

「ああ、ティセ。今日は兎と芋のホワイトシチューだぞ」


 台所にやってきたティセは、年の離れた妹だった。

 今年で八つ。


 あどけない顔をしていて、元気いっぱいに育っている。

 兄のひいき目もあるだろうが、とても村娘とは思えない可愛らしい顔立ちで、将来は相当な美人になることが予想できた。

 シチューと聞いてティセの目が輝いた。

 満面の笑みを浮かべて、両手をバンザイさせる。


「やたっ! シチューだ!」

「おい、火の前で走り回ると危ないぞ」

「おととと……。へへ、ごめんなさい」

「ほら、皿によそうから、テーブルに運んでくれ」

「あい!」


 猟師として日々狩りに出るスウェルと、家の細々としたことを手伝いティセの二人でこの二年ほどは暮らしてきた。

 今日のシチューの肉も、スウェルが弓で射た兎の肉を使ったものだ。


 二人して椅子に座って祈りを捧げると、湯気を立てるシチューにかぶりつきになった。

 口の周りをシチューで汚し、慌てたように舌でぺろりと舐め取ったティセが、照れくさそうに笑う。


 その姿にスウェルも目を細めてわずかばかり微笑を浮かべた。

 だが、ティセはその後にポツリと寂しそうな呟きを漏らした。


「おとさんとおかさんもこーんなにオイシいシチュー、飲めたらいいのにね」

「ああ、そうだな」


 ティセの優しい一言に、スウェルの心に鋭い痛みが走った。

 幼いティセには、父と母のことは伝えていない。

 王都に出稼ぎに行っていて、いつか帰ってくると話していた。


 ――父と母が生きてこの家に帰ってくることはない。


 スウェルはそれでも、胸の痛みを表情に一切出さずに、深く頷いてみせた。

 今はまだ、伝えないほうが良いと信じて。




 食事を終えた後は、ティセが皿を洗い、縫い物を。

 スウェルは射止めた獲物の皮を毛皮や皮革に仕上げる仕事を始めた。


 寒さが厳しい北の大地に住む者は少ないが、兎や羊、狼に驚くほどに太い木々と、資源には恵まれた。


 吹く風が強くなり、雪が屋根を滑ってドサッと音を立てる。

 暖炉に放り込んだ木が赤々と燃えていた。


 何事もなく終わるであろう一日の夜に――



 キヒヒヒヒヒ……!!



 外から甲高い、背筋が薄ら寒くなる叫び声が聞こえてきた。

 どどどどど、という雪を踏む多くの足音が、少しずつ家に近づいてきている。


 遠くから。

 北限の先から奴らがやってくる……!


 嫌な予感が当たった。

 スウェルは表情を険しくすると、すぐさま作業の手を止めて、準備を始めた。


 壁に立てかけてあった弓を取り、弦を張る。

 腰のベルトにサーベルを差し、毛皮を丁寧になめした鎧と兜を着込む。


 ティセは初めて聞く気味の悪い音と、突然動き始めたスウェルの行動に、恐怖を感じているようだった。

 幼いながらに、事態が逼迫していることを察しているのだろう。


「にいさん……こわい、なにが起きてるの?」

「いいか、ティセ。よく聞くんだ」

「こわい! こわいよ! ねえ、にいさん、いかないで!」

「ティセ、時間がない。よく聞くんだ。大丈夫だ。俺は大丈夫」


 震えてしがみつくティセに、スウェルは心から優しい気持ちで話しかけたが、あまり落ち着かせることができない。

 こんなとき、もっとうまく口が動けば。


 自分の口のまずさに苛立ちながら、スウェルはティセを抱きしめた。

 小さく、頼りなく、それでいてとても温かい。


 このぬくもりを絶やしてはならない。

 ティセは、必ず守る。


「いいかい、ティセ。兄ちゃんはすぐに戻ってくる。約束だ。少しだけ出てくるけど、絶対に外に出てはいけないよ」

「やだ、やだっ。いかないで!」

「地下の物置に入って、暖かくしてじっとしているんだ。大きな声を上げてはいけないよ」

「にいさん!」


 この小さな体のどこにこれほどの力があるのか。

 驚くほどしっかとしがみつくティセの頭を撫でてやりながら、ゆっくりと手をほどいていく。

 顔と顔を合わせて、一度額に優しく口づけをした。


 荒れた親指で優しく目尻の涙を拭いとってやると、スウェルは精一杯の笑みを浮かべた。


「大丈夫。俺はきっと無事に戻ってくる。にいさんが嘘ついたことあったか?」

「いっぱいあったじゃん、うそつき!」

「そうか。でも今度は本当だ。ちょっとは兄を信じてくれ」

「……うん。ぜったい、ぜったいにもどってきてね?」

「ああ。約束だ」


 小さなティセの親指と、スウェルの親指を突き合わせる。

 誓いの証。


 スウェルはもう一度しっかりとティセを抱きしめた。

 涙を流すティセの顔をじっと見て、身を切るような苦しさを覚えながら身を離し、隠し戸に入らせて、戸を閉じる。


 あっ! という声とともに、ティセが戸越しにスウェルを呼ぶ声を必死にあげていたが、その声は分厚い板に遮られて、小さくなっていた。

 スウェルは戦いの準備を整え確認すると、すぐさま家を出た。

 迷っている暇はなかった。


 扉を開けると、途端に強い風が体を凍らせる。

 雪が舞い、視界はきわめて悪かった。

 だが、それでも優れた猟師であるスウェルには、遠くから近づいてくる異形たちの姿がよく見えた。


 わずかに差し込む月明かりに雪が照らされる。

 雪を蹴立てて魔獣に乗った異形どもがやってきていた。


ああ(ジャッグ)……チクショウ(ジャッグ・ロー)


 スウェルは短く嘆息し、言葉にならない思いを吐き出した。

 迫りくる小規模の集団。

 その先頭の二人組には、見覚えがあった。

 いや、見覚えなどという話ではない。


 誰であろう。

 その姿は、敬愛すべき父と母の顔に違いなかった。

 《奪いし者》たちは、かつて捕食した大切な人の姿を装って、襲撃してくる。

 それがもっとも効率の良い狩りになると、やつらは知っているのだ。


 スウェルは知識として知っていたが、これほど怒りに震え、悲しみに満たされるとは思ってもいなかった。


「誇り高き父と母の姿を奪って、今度は俺の命まで奪いに来たか! 俺は負けん! ここが貴様らの墓場だ!」


 スウェルは怒りと悲しみと、身を焼く殺意に叫んだ。

 だが、多勢に無勢である。

 頭の中の冷静なところでは、自分が間違いなく死地にいることを理解していた。


 せめて、ティセだけでも。


 愛すべき妹だけでも狙われないようにしなくては。





 ――その夜、誓いは守られなかった。


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