偽りのアマテラス
神はいかにして神たりえるか。
人が二足歩行を始めてよりのち、数万年。日本列島に移り住んだその生き物達は長い狩猟の時代を経て、いつしか定住を主とした。一つ所に住む人々の、小さな願いや祈りこそが無形の神を象ってゆく。
神はいかにして人と寄り添うか。
やがて集落の数は増え、それぞれに神は興る。人はより多くの奇跡を求め、神はより多くの信仰を求める。争いの時代の中にあって、神は救いを与え、同時に命を奪うものでもあった。人々はただ多くを求めて争い、人の想いを拠り所とする神々もまた争いを是とした。神の意志を介することのできる希少な能力を持つ者は巫女と呼ばれ、神々の意を受け時に神の力を行使し、果ての無い大地を平定せんとする。
――そして。
神はいかにして人と訣別するに至ったか。
人はそれを識り得ない。それを憶えている者は、もう誰も残っていないのだから。
いつからか、そこには空があった。
いつからか、そこには輪郭も中身も何もなく。ただ確かにそれは存在した。
大地を俯瞰して漂い、ただそこに在るだけの空。
氷河期を越え、後に日本列島と呼ばれることになるその場所に二足歩行の動物が渡ってきたことも識らず。狩猟生活を送っていたそれらの動物が仕留めた獲物の死骸は僅かな靄を立ちのぼらせ、空は自身のがらんどうの中にそれを識らずのうちに取り込んでいった。
年月の経過の概念もなく意識もなく。ただ在るだけの、しかし確かにそこに在るもの。
やがて一万年ほどが経ち、定住を始めるようになった二足歩行の動物は、空の漂う場所に集落をつくった。それはまったくの偶然であり、その動物は自明、空のことを認識してはいなかった。自分たちの集落の上方、見渡す限り目に見えない何かがいることなど考えもしなかった。太陽と、雲と。その間に不可視の存在があるなど誰が想像できただろう。
けれどもしかし、この定住こそが、二足歩行のこの動物たちの定住こそが、空に変化をもたらす。
大地で生を営む彼らは、共に生活していた者の亡骸を手厚く土へ返した。生を受けるその前、母の胎内にあった時のように体をたたみ、大地に暖かく抱かれるようにと願って。そこから、細い靄が立ち上る。空に吸い込まれていく亡骸の残滓は、二足歩行のその動物らの意識を、また価値観をそのがらんどうの中へと満たしていった。
いくつもの夜を越え、いくつもの亡骸の残滓が空へと集まり。
そして空は意識を得た。それはあまりにも突然に、あまりにも当然のものとして揺るがぬ理解と共にそれを得た。
――私の下で生活するあれらが、私の基となったのだ。
手に入れた、意識という名の権能。それを、大地で生活するものへと向けた。今ならば、彼らの言葉も彼らの価値観もわかる。けれど。
――あれらは、どうして私と違うのだろう。
ただ彼らの上を漂い、実体を持たない空は、彼らを――彼らの暮らしを、実体のないその空のままでただ見つめていた。
その時、遥か遥か上の宙より一条の流星が空の中を抜けるように貫いた。燃え落ちていった一片の隕玉は空の一部を巻き込み、輝きと速さを失って静かに大地へと降った。
●
集落に住む一人の少女は、家族の帰りをいつも待っていた。集落では、人は助け合わなければ生きていけない。幼い彼女は父や村の男たちが狩猟で動物を獲ってくるのを待ち、母や村の女たちが木の実や山菜、野草や茸を採ってくるのを待っていた。
少女にも、村にいる他の子らにも役割はあった。それは幼子の世話であったり、水汲みであったり大人たちの使う道具の管理であったり。
集落そのものが、一個の生命体であると誰もが理解して行動し、生活を送っていた。
集落の近くには川が流れており、生活に使う水はそこから得ていた。山から平地になだらかに変わる扇状地の隅の集落。流浪の狩猟生活の果てに先人たちがたどり着いた豊かな土地だった。
少女が、縄目のついた土器を抱え、集落の少年と並んで水汲みへと向かう。
「おれ、次に栃の実が採れるようになったら狩りに連れてってもらうんだ!」
「すごいね! 私の母さんも毛皮の扱い方を教えてくれるって」
「じゃあ作るための獲物は仕留めてきてやるよ」
「ふふ、楽しみにしてるね!」
集落の人々に名は無い。それは集落という単位が一個群の生きものであるという証左でもあった。個人としての名は必要なかったのだ。
川の流れが緩やかな浅瀬で足首の細縄をほどき、足を包んでいた毛皮を置いて素足を流水にさらす。その冷たさに少女は思わず短く声を挙げた。少年は足包みのまま構わずざぶざぶと入り進んでいく。
「ひゃあ、冷てぇ!」
「そうだよねえ。こんなに冷たいこと今までなかったのに」
「まぁいいだろ別に。早く水入れて帰ろうぜ。父さんたちが狩りから帰ってくる前に火も起こさなきゃ」
少女は頷き、土器いっぱいにいれた水をゆっくりと運んで集落へと戻る。途中、同じように土器を抱えていた少年が歩く速度を上げて先に帰ってしまい置いていかれた少女は頬を膨らませてむくれたが、少年は自分の抱えていたそれを集落に置き、少女のものを代わりに持つために走って戻ってきた。少女は目を丸くする。
「ほら、持ってやるよ」
「えへへ、ありがとう」
彼らには名こそないが、助け合いとはまた別に好意は当然のように存在する。生物としてそれは当たり前のことだった。少年の少し後ろを歩く彼女が微笑んでいたことに、少年自身は気が付いていなかったが、少女にもまた、少し赤く染まった彼の頬は見えていなかった。
夕食を終えた後、蘆や茅で覆われた屋根の下。焚火の前で少女は、父と母が話をしているのを静かに聞いている。日が落ちる頃に雨が降り始め、屋根をぴしぴしと叩いていた。
「雨が続きそうだ。狩りにも影響が出るな」
「木の実が採れる量も減ってきてしまって……。本当に困りましたね」
「蓄えは僅かだがあるんだ。それに獲物がまったく獲れなくなるわけじゃないさ」
「雨が止むまでの辛抱ですね」
「ああ、そうだな」
真剣な顔の父と母に不安を感じながらも、焚火の熱が暖かく少女を包む心地よさについ、こくりこくりと首を揺らす。
「ああ、つまらない話をしてしまったな。大丈夫だ。安心しなさい」
「ほんとう?」
父は大きな手で少女の頭を撫で、微笑んで大きく頷いた。
母も笑顔を作り、はっと思いだしたように森での採集に使っている木皮の網籠へと手をやる。中から、掌に握り込めるほどの石を出してきて、少女へと渡した。
「わあ、綺麗な丸石!」
「森で見つけたの。火に透かしてごらんなさい」
「……すごい!」
艶みのある黒い石に見えていたが、明かりに透かせばそれが色の濃い青であることが分かった。夜紺色の中に、揺らめく火がうっすらと浮かぶ。焚火がぱちりと爆ぜ、呼応するように少女の拍動もとくんと強く鳴動した。
すっかり魅了された少女は、火を落としてもなお手の中に石を握り込んだまま眠りについた。
○
夜を幾度越えても、雨はやまない。
やがて集落の蓄えも底をつく。木組みの倉庫には木の実の一粒もなく、降りしきる雨の中では獣の跡を追う事もできず狩りも上手くいかなかった。水嵩が増え荒れる川では魚も獲れない。
食料を得るため、普段は立ち入らない森の奥まで大人たちは進む。濡れそぼった毛皮の衣類は重たく、持ち帰った僅かな木の実ではとても集落全体にゆき渡りそうになかった。
一人、また一人と動けなくなってゆく。
少女の母もまたその一人であり、栄養の不足から倒れ伏してしまった。高熱に浮かされ視線は虚ろにどこかを見ている。
「母さん! 母さん!!」
「しっかりするんだ。大丈夫だ。今に食べ物をもってくるから。頼む、頑張ってくれ、頼む……!」
声も虚しく、願いも届かず、母は目を覚まさずその身から熱を失った。少女の涙は、慟哭は雨音の中に溶ける。
いつ止むとも知れぬ雨。父は集落の何人かに知らせ、母を埋葬するための穴を掘る助けを乞うた。掘る者誰も目を合わせず、濡れるままに下を向いて一心に穴を掘った。手伝いの中には、少女と仲の良い少年の姿もあった。
母の手足を葦縄でまとめ、そっと体を折りたたむ。大地の中で安らかに包まれて眠れるようにと。少女は母からもらった夜紺色の丸石を、母の体に重ね、きつくきつく握りしめる。
「母さん……」
母の体から、薄い煙のようなものが立ちのぼるのを少女は見た。
それは雨に逆らって上へ、上へ。やがて何かに吸い込まれるように、するりと消えて。土が被せられて、誰もがそこに埋まっている母を見る中で、少女だけはただ母の昇った先を見ていた。
それが始まりだった。
ついに、がらんどうは満たされた。
――あれらは、私とは違う。けれどもしかし、あれらのことを、私は良く識っている。いま、私は哀しみを識った。
ずっと彼らを見てきた空は、意識に重ねるように人の感情を理解した。少女の母の魂を迎え入れ、永きに渡る傍観の果ての先へと、たどり着いたのだ。
少女が握る石が、とくんと脈打つ。
それは少女の拍動か。それとも総身を満たした空のものか。
「母さんが……いる」
少女は雨を受けながらつぶやく。見上げる先に、確かに、何かが存在することを知覚した。それが何万年も前からそこに在ったものであるとは微塵も思わず、昇っていった母がそこにいると間違いなく信じた。
それは意識の外の本能で、何かに促されたように少女は石を握りこみ、膝をついて天を仰ぎ見る。
光条細く一筋、雲が割れる。少女に差す僅かな光。降り続いた雨はついに緩やかになってゆく。
「雨の中に。母さんがいる」
少女の涙が雨と混ざり頬を伝う。
――ああ、そうとも。私はここにいる。私がここにいることを、ああ。識ってくれた。偽りの母であろうとも、私は少女の祈りを受けた。
雨音が柔らかくなると同時に、人々は別の音を聞いた。地の底から低く低く響く、気味の悪い振動音。それは長雨によって引き起こされた災害。集落の近くを流れる川が氾濫し岩や木々を伴って集落を飲み込もうとする破壊の音だった。
人々には地鳴りのみが聴こえ濁流の姿は見えない。けれど誰も聞いたことのないその音は彼らを恐怖の中に置き留める。みな、少女に倣って膝をつき、祈りと共に天を仰ぐ。
どうか。どうか恐怖を彼方へ。
「母さん……助けて」
少女は腕を伸ばし、夜紺色の石を掲げた。雨に濡れた石に射す雲間からの浄光。少女の、人々の祈りは空へと届く。
――私は信じられている。私を仰ぐあれらがいる。ならば守ろう。ならば応えよう。私は、あれらを民と呼ぼう。
一陣の風。
己が周りに大気を集め、凝縮し、巻き上げ、少女の祈りを現して人の形を、女性のそれを模す。密度の高い大気の人形は、雲間から差す光の条を揺らがせる。山の如く至大なその輪郭をなぞるは雨粒。
そして人々は見る。風吹きすさぶ中、光を透かした巨大な拳が。少し離れた平野に振り下ろされたその拳が、大地を穿つのを。大きな地響きと、立ち昇る水柱。集落に押し寄せようとしている濁流は渦を巻いてそこへ溜まってゆく。
逆巻く風はなおも止まず、立ち込める灰雲を散らす。
久方ぶりに見える澄んだ青。人々を見下ろす、青を透かすもの。人々の上に在って、人々の願いを受け入れるもの。
雨の残滓がその姿を煌めかせ、見上げた少女がぽつりと呟く。
「雨に包まれた、母さん……」
それは、それこそは神の興り。
何者でもなかった空は、祈りを基にそうあるべきものとしてついに成った。
名もなき集落の人々とは、決して同列でない存在。一個群として生活していた彼らには必要のなかった、固有の名という概念。彼らはそれを空に捧げた。
――アマテラス。そう呼ぶならば、私はそう在ろう。私を信じる者を守ろう。私を仰ぐ者を導こう。私はそれを信仰と呼ぼう。
神は、人によって成り、人と共に在る。
これが神と人の始まりの形であった。
●
神の見守るその土地は、豊かな生活を続けることができた。少女と少年が健やかに育ち、子を成し、その子らが、また次の子を成す。かつて少女であった女性は天寿を全うしたが、子々孫々、神への信仰は絶えることなく続く。集落の近くにある大池は神が作りたもうたものだと言い伝えられていた。
幾年月。幾星霜。
神の起こりは人。神は人を守り、人は神へ信仰を捧げる。雨纏う母の他にも此方、彼方を問わず多くの場所で神は興った。みな、そのがらんどうに人の祈りを束ねていた。
列島に人が増えていき、土地どうしでの交易も行われるようになれば自明、人々は己の所属や地位を示すために、神だけでなく人にも個々の名前をつけるようになり、名が存在を表すように在り方が変化していく。
さらに遥か遠く大洋の向こうからも人は訪れ、農耕の智恵をもたらした。神に守られた土地とそうでない土地の間には、実りや豊かさに差が見える。
遠方から伝来した稲を育てられる集落は、いつしか農と呼ばれるようになった。
いつか雨纏う母と初めて心を通わせた名もなき少女の、その幾代目かにあたる子孫の。名をヤマヨとつけられた少女が農を見渡せる物見台の上にいる。夜紺色の石、代々伝わり祈りと共に手の平に包んできたそれを静かに握りしめ、姿の見えない神と対話していた。見えなくとも、存在していることは分かる。
年月を重ね手中にあり続けたその石は磨かれ、より握り込みやすいようにやがて雫のような丸形から、母の胎内で眠る赤子のような勾玉形となっていた。
「ねぇ、アマテラスさま。山向こうのムラの人達、最近見ないね」
――ついぞ前に来たばかりであろうよ。
「そうかなあ。稲籾を撒く頃に来たっきりだよ。もう刈りの時期だもん」
――ふむ、願いは口に出せば通ずるもの。あれを見やれ。あれではないのか。
「わ、ほんとだ。さすがアマテラスさま! これで足りない黒曜石を交換してもらえ……あれ、なんだか様子がおかしい?」
農の外、大池のその向こう。遠くに見えるその男は踏み固めた土道をやけにゆっくりと、時にふらつきながら歩いていた。
少女、ヤマヨが物見台から勢いよく降りる。張り巡らせた木柵の間、正面の門を抜けてしばらく走り、男の元へと駆け付けた。
「この、先の……ムラの者、だな」
「どうしたの!? 大丈夫?」
男は力なく膝をつき、掠れた声で言った。喘鳴の中に、僅かに血の匂いが混ざっていることにヤマヨが気付く。
「助けてくれ……、我らの、ムラを。我らの、神を」
そう告げると、男はヤマヨの返事を待たず地面に倒れた。細い靄が彼の背中からするりと抜けて上がっていく。
「あっ、魂の緒が……」
――ヤマヨ、離れよ。その者は生を閉じた。
「……うん」
あちらの農にも、神がいることは知っていた。一体、何が起こったのだろうとヤマヨは麻服の裾をつまんで何も言えず口を引き結ぶ。
土道の先、山向こうを見つめる。そこには稲刈りの時期にそぐわぬ安穏ならざる灰雲が重たく広がっていた。




