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闇色の世界で、禁断の果実をほおばって

過ぎし日に栄華を誇った帝国は、荒廃の一途をたどっていた。

街には廃屋が目立ち、その日一日を生き残ることに精一杯の人々で溢れていた。

彼らは、日が暮れると扉を堅く閉ざし、家の中で息を潜める。30年前、一夜にして帝国が帝国でなくなったその時から、ずっと。

かつての帝都の夜は、ヴァンパイアに支配されていた。


深夜、死の影に覆われた街を、ひとりの男が歩いている。自分を待つ者が隠れ潜んでいる廃屋の地下室へと向かっていた。

彼は人間でありながら、昼は棺の中で眠り永遠の若さを保つ少女を守るために、その命をかけていた。人間からもヴァンパイアからも追われ、転々と旅を続ける中、帝都の下町に彼らは立ち寄ったのだった。

そして、その夜、男と少女の前に、招かれざる客が現れた。


 深夜、僅かに欠けた月以外に、街に灯りはない。

 人が住んでいるのかいないのか、ひどく傷んだ家屋が連なる路地を、長いマントの男が一人歩いていた。背にはずた袋を担いでいる。がっしりと力強い体躯だったが、うつむき気味に歩くその姿には疲労が色濃くにじんでいた。

 静かに歩いていた男だったが、生温かい風に頬を撫でられると、ぴたりと立ち止まった。そして、月光が差す足元をじっと見つめる。

 家と家の隙間から干からびた腕が伸び、男の足首を掴んでいた。


「あんた、匂うな……」


 その腕の主の顔は闇に隠されていたが、しゃがれた声が聞こえた。聞く者に嫌悪を抱かせる、そんな声だった。


「人間のくせに、えらく匂う。こんないい匂い、今まで嗅いだことがねえ。もしかしてあんた、とんでもねえお方に……」


 ザンと風が唸った。

 マントが跳ね上がった一瞬、男が振るった剣が白銀の円弧を描いた。

 声が最後まで言い終わらぬうちに、男の足を掴んでいた腕は手首で切断されていた。

 ざわざわと、邪気が闇の中で濃く重く圧を増してくる。


「ひでえことしやがる。いくら再生するったって、痛てえんだぜ」

「黙れ、下郎」


 男はトンと跳ねて、手首から先を失くした腕から距離を取り、自分の足に未だに爪を立てていた手を剣で薙ぎ払った。そして声のする闇を見据える。

 ずるずると這いずりながら、ソレが近づいてきた。


「あんた、貴種様に仕えてるんだろう? 俺も連れてってくれよ。頼むよ」


 その声音は、嘆願というよりは脅迫めいていた。だが、男に動揺はない。

 地面を這っていたモノが、突然と、人ならざる動きとスピードで跳ね起き、男に飛びかかってきた。茶色く汚れた乱杭歯が男の喉を食いちぎろうとしていた。

 その時、真っ赤に光る獣の眼を、男は確かに見た。

 ヴァンパイア。それが、男を襲ったものだった。

 生臭い息が男の顔にかかったが、その牙は彼に届いてはいない。ガードした男の腕を覆う金属の手甲を、むなしく食んでいたのだ。同時に、男の剣がヴァンパイアの胸を貫く。


「滅べ。永遠に」


 正確に心臓を刺し貫いた剣を、ぐるりと捻ると、聞くに堪えない絶叫が路地に響いた。





 30年前、栄華を誇った大帝国は一夜にして崩壊した。

 永遠の都と賛美された帝都の衰退ぶりは、ほかのどの都市よりも急速で著しく、人に例えるなら若く力強い青年が、突然、齢百を超える干からびた老人に変容したかのようだった。

 その夜を境に、人々は夜を恐れるようになった。つい先刻、男を襲ったようなヴァンパイアが闇を跋扈しはじめたからだ。夜を支配する彼らこそが、帝国を滅ぼした張本人でもあった。


 死の影に覆われたかつての都。その下町の路地を男は進んでいく。そして、一軒の家に入っていった。いや、廃屋だ。窓も扉もはずれ、屋根さえ落ちかけている。だが、彼は臆することなく奥へと進んでいく。

 小さな扉の前で立ち止まった。ポケットから鍵を取り出し、手探りで開錠する。扉を開くと地下に向かう階段が現れた。男は扉をくぐり、内側からまた施錠する。

 腰に下げていたランタンに火を灯すと、男の顔が闇に浮かび上がった。乱れた髪には白いものが混じり、無精ひげが伸びている。濃い隈のできた目と深い眉間の皺のために、実年齢よりも老けてみえた。

 若かりし頃の精悍にして秀麗だった彼を知る者が見れば、なんと哀れにやつれたものよと嘆くことだろう。


 男は静かに階段を下り、地下室の扉を開ける。かび臭い小部屋に入ると、小テーブルの上にランタン置き、床にずた袋を降ろした。そして、部屋の中心に置かれているものを見つめる。

 深夜の地下室、つい今しがたまで闇に沈んでいたこの空間にあるもの、それは棺だった。影が凝り固まったような漆黒の古く小さな棺は、幼い子どもの亡骸を納めるためのものだ。

 男が椅子に腰かけ棺を眺めていると、蝶番が軋む音が響いた。ギシギシと音は続き、棺のふたが開いていく。中から押し上げている細い腕が見えたかと思うと、勢いよくふたが跳ね上がった。

 幼い少女が起き上がった。彼女は大きな欠伸のあと、男を見て微笑んだ。


「おはよう、ミハイ」


 陶器のように真っ白な肌をした美しい少女だった。まだ十を越していないだろう。ぷっくりとしたその頬には、赤ん坊のようなあどけなさが残っているというのに、唇は濡れて赤く艶めき、不思議な色香を放っていた。

 少女は棺から出てくると、手を後ろで組んで裸足でペタペタと男へと歩いてくる。短めのドレスの裾をふわりと揺らし、愛らしく微笑みながら。

 しかし、男は沈黙のまま、視線を逸らすだけだった。


「ねえ、ミハイ。挨拶くらい返してくれてもいいんじゃなくて?」

「…………」

「もう」


 男、ミハイのすぐ前まで来た少女は、両手を大きく広げて少し首を傾げる。それは、抱っこをねだるときのいつものしぐさだった。

 ミハイは無言でその要求に答える。脇の下に手を差し入れ、軽々と持ち上げると膝の上に彼女を乗せた。

 すると、少女は抱きついてミハイの髪を撫で始める。男の目を間近でじっと見つめながら、指に髪を絡めたり解いたりを繰り返した。そして、甘えた声で囁く。


「お腹、すいたの……」


 ミハイは少女の為すがままだった。いつも彼女の好きにさせている。

 しっかりと巻いていたスカーフを解かれ、シャツのボタンも外され、胸元まで大きくはだけさせられるのも、いつものことだった。だから、少女が自分の首に歯を当てても、動じることは無かった。

 ミハイの首の付け根辺りには、左右共に赤黒いケロイドとかさぶた、そしてまだ塞がっていないえぐれた傷がいくつもあった。塞がりかけた傷の上に、今夜もまた傷がつく。その痛みはもう慣れ親しんだものだった。

 傷口から溢れる血を、少女の生暖かい舌がチロチロと舐める間、目を閉じて彼女の頭を撫でてやるのもいつものことだった。

 夢中で血を舐める彼女の息が、次第に乱れてゆく。小さな手を男のシャツの中に差し入れ、その肌をまさぐり、そして、腕を背に回して爪を立てる。

 甘い吐息が、ミハイの耳孔に入り込む。


「ねえ、私のミハイ……」


 ゾクリと震え、ミハイの手が彼女から離れだらりと落ちる。額に冷や汗が浮いていた。自分の体の奥に灯った熱に嫌悪を覚えて、ギリギリと奥歯を噛みしめるのだった。

 少女は顔を上げ、もっと撫でてよと、緋に染まった唇で微笑む。潤んだ瞳と、血の香る唇が誘惑するように迫って来ると、ミハイは喉の奥で低く唸り、彼女の体を押し返した。そして素早く己の膝から降ろす。

 彼女が不満を口にする前に立ち上がり、背負ってきたずた袋に向かったのだった。


「今日、上地区で死人がでた」


 ミハイが呟くと、少し口を尖らせていた少女の表情が喜びに変わる。


「木登りをして遊んでいた子どもだ。足を滑らせて木から落ち、首の骨を折った」

「へえ、そうだったの。また、犬かと思ってたわ」


 しゃがんで袋の口を縛っていた紐を解き始めたミハイの背後で、少女が瞳を輝かせている。


「男の子? 女の子?」

「男の子だ。葬儀は明日行われる予定だった。だから、今夜遺体を運んできた」

「あらミハイ、それは盗んできたって言うのよ?」


 少女はクスクスと笑った。

 袋の口を大きく開くと、中には白蝋色をした少年の遺体が入っていた。十歳ぐらいだろうか。顔の擦り傷以外には、目立った外傷は無さそうだった。

 少女はミハイの横にしゃがんで、興味深そうに少年を見つめた。


「この子が木から落ちたあと、息絶えるまでじっと見てたのね?」

「…………」

「もしかして本当は殺した?」

「……事故だ。少年と家族にとっては不運な……。お前にとっては幸運な」


 少女はクスリと笑った。そして、俯くミハイの背に頬を寄せ、困った人ねと呟く。


「苦しむ必要なんてないのよ、ミハイ。悩まなくていいの。あなたは私だけを見ていればいい」


 少女はうっとりと彼の背に頬ずりを繰り返し、彼の心臓の鼓動を聞くと満足そうに微笑んだ。


「喜びも悲しみも、全部私が決めてあげるから。今日のことは、あなたが言ったように幸運なのよ。ねえミハイ、喜びましょう。神に感謝しなくっちゃ。病気もなく大した傷もない、こんな理想的で新鮮な死体が手に入るなんて、幸運と言うしかないわ」

「リディア……まだ、神を信じていたのか?」

「もちろんよ。天国も地獄も本当にあるんだから、神もいるわ。と言っても、ソイツがどんな神かは知らないけど」


 リディアは、ミハイの背から離れると遺体のボタンを外し始めた。硬直した体から服を脱がせるのは難しく、リディアに代わってミハイが上品なスーツを丁寧に脱がせていった。


「いい服ね。死出の旅にでる時は、誰でも身なりを整えるものなの?」

「下地区ではこうはいかない。この子の家は、上地区でもかなりましなほうに見えた。我が子への最後の贈り物だ」

「ミハイも昔、私にとっておきのドレスを用意してくれたわね。真っ白で、まるで花嫁のようなドレスを……。まあ、まだこうして生きているんだけど」

「…………」


 目を逸らすミハイに、リディアはクスリと笑う。

 自分の吐く言葉が彼を刺すことは承知していた。それでも言葉を選ばないのは、自分が全てを受け入れたように、彼も受け入れてしまえば苦しむことはないのにと、恨みがましく思っているからだった。

 この30年の間、ミハイの体は年老いたが心は変わることはなく、幼い姿のままのリディアだけがその内面を老成させていた。二人の姿と心は、まるで裏腹だった。


「……ねえ、ボタンを外してちょうだい」


 くるりと背を向け髪をかき上げ、細いうなじを見せる。

 ミハイはやはり無言のまま従った。リディアが脱ぎ去ったドレスと下着をひとまとめにすると棺にしまった。

 裸になったリディアは少年の隣に座り、彼の胸に手を当てた。肌はひんやりと冷たい。そっと胸に耳を寄せてみるが、当然鼓動はなかった。

 リディアは、少年にまたがり冷たい胸を人差し指でつうっと腹の下まで撫でる。瞳が次第に妖しい光を放ちはじめ、唇は美しい弧を描いた。右手をミハイに差し出し、短刀を受け取る。それを逆手に握ると、躊躇なく少年の腹に突き刺し切り裂いた。死者の身体から血が溢れることはなく、美しい色をした臓物が空気にさらされた。

 そしてリディアは手を差し込む。肘が埋まるほどに腕を潜らせ、少年の体内を探っていた。

 ミハイは、リディアに背を向けた。彼女の行為を見ていることなどできはしなかった。何をするか分っていて、いや、それをさせるために、少年の遺体を盗んできたのはミハイ自身だったが、それでも見たくはないのだった。

 ぐちゅぎちゅと湿った音が部屋の中に響く。ああ、と喘ぐような声と同時にブチブチと何かが切れる音がして、ミハイを総毛立たせる。


「……素敵。この香り久しぶり、堪らないわ。やっぱり人間が一番美味しい」


 じゅるじゅるとすすり始めた。

 少年の心臓を握り潰し、耽溺の呟きをこぼしながら滴る雫をすすっている。

 怖気のするその音を、ミハイはただ背中で聞いていた。


「ねえミハイ……私を見てよ。ありのままの私を」


 甘い猫なで声でリディアがねだる。目を逸らさずに、自分を見ろと。

 しかし、ミハイは振り返らなかった。


「意地悪な人。……ああ、これが体温を持っていたら……。ねえ、私を見たくないっていうんなら、それでもいいけど。だったらせめて、生きてるのにしてよ」

「だめだ。それだけは」


 ようやくふり返ったミハイに、リディアが笑いかける。口から下を血で汚し、裸の白い肌に大小の赤い花が幾つも咲いていた。ねっとりと粘度の高くなった血で、彼女の小さな腕が赤黒い手袋をはめたように染まっている。その指をしゃぶりながら、小首をかしげてリディアは天使のごとく笑った。

 ミハイは、震えるように首を振るのだった。


「いいじゃない。あなたはそうやってずっと背を向けてればいいんだから。現実から目を逸らすのは得意なんでしょう?」

「……生きた人間は絶対にだめだ」


 ミハイは頑なに首を振る。

 彼女の要求の大半は受け入れ叶えてやるミハイだったが、この願いだけは聞くわけにはいかなかった。遺体を盗むなど、すでに人の道を外れた行いをしているミハイだったが、それでも生きた人間を与えることだけはできなかった。

 ミハイの返答を予想していたリディアだったが、その顔には苛立ちが浮かんでいた。


「あんたの血は毎日口にしてるんだけど!?」

「俺以外はだめだ。きっと、舐めるだけでは済まなくなる」

「いいじゃない! 殺したって!」


 立ち上がり、握っていた心臓を床に叩きつけた。ずっと抑えてきたミハイへの苛立ちが、なぜか今夜は溢れだしてしまった。


「生きるために、ほかの生き物を殺すことは自然なことよ! この乾きは、あんたには分からない!」

「だめだ、リディア。本物の化け物になってしまう」

「は! 何を今さら! 私はとっくに化け物じゃない!」

「違う。今は、今はただ、病気なだけだ……。俺がきっと治し」


 ミハイが振り絞った言葉は、リディアの引きつった笑い声でかき消された。


「アハハ! これが病気?! もしも本気で言ってるなら、ミハイ、あんた狂ってるわ! 卑怯よ、私をこんなにしたのは、あんたのくせに……」


 ミハイをキッと睨みつけながらも、リディアの目からはポロポロと涙が零れていた。お前のせいだと何度も繰り返して。

 堪らず、ミハイの顔も大きく歪んだ。すまないと呟き、膝をついて両手を広げると、彼女は泣きながら駆けよってきた。ミハイが腕の中に閉じ込めるように優しい力で抱きしめ続けると、だんだんと泣き声は静まっていった。


「お願い、私を捨てないで……パパ」

「当たり前だ。お前は、俺の大切な娘なんだ」


 ミハイはリディアの髪をなで、額に口づけを落とした。そして、自分のスカーフで少女の身体を拭き始めた。ぐずる彼女をあやしながら、涙と死者の血をゆっくり優しくぬぐってやるのだった。

 リディアの着替えが終わり、そして何を話せばいいのかと思案し始めたその時、ミハイの耳が異変を察知した。

 弛緩していた空気が一気に張りつめる。さっと天井を見上げた。扉のある壁側だ。

 リディアも同じ場所を睨んでいる。


「いるわ」


 チッと舌を打ち、ミハイは幼い少女を抱えて部屋の奥へと走る。その間も、視線は異変へと向けられていた。天井から壁へ、そして壁の向こうにある階段を下って扉へと。そして、剣を握り仁王立ちになって構えた。

 リディアも扉の向こういる何者かに、鋭い視線を送っている。そして、ミハイの邪魔にならぬように距離を置いた。


 唐突に、大きな音を立てて扉が倒れた。

 強烈な力が加えられたらしく、蝶番が弾け飛んでいた。

 もうもうと舞い上がった埃の向こうに、大剣を肩に担いだ人影が見える。


「はじめまして、ミハイ・フロレスク伯爵。俺はしがない賞金稼ぎです。今から狩りますんで、どうぞよろしく」


 白々しいほど優雅にお辞儀をして、青年は獰猛な笑みを浮かべた。

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