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うろくづのまなご

 《楽園》と呼ばれる山中のコミュニティで生まれ育った颯真そうまは、ある日、偶然に「外」の少女|巳緒(みお)と出会う。

 「外」の人間とは関わってはならない、というのが《楽園》の教え。教えに背く罪悪感を感じながらも、颯真は次第に巳緒の不思議な魅力に惹かれていく。

 巳緒との交流を深めるうちに、颯真は《楽園》の教えを疑うようになっていくが──


 一方、フリーのオカルトライターの斉木さいきは、とあるカルト集団の取材に東北某県を訪れていた。

 軋轢があって当然なはずのカルト集団が、思いのほかに地域社会に受け入れられている──そこには、何か秘密があるのだろうか。


 カルト村のロミオと因習村のジュリエットが出会う、ボーイミーツガール×ホラー。


※この作品には残酷な描写があります。

 旧約聖書の出エジプト記にいわく。


 エジプトを出たイスラエルの人々は、彼らを導いたモーセに不平を述べた。

 エジプトにあっては肉とパンを腹いっぱい食べていられたのに、モーセのせいで荒野で飢え死にしようとしている、と。


 モーセを介してしゅは答えた。

 イスラエルの人々は夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。それによってわたしが彼らの神であることが分かるであろう。


 果たしてその言葉通り、朝になると彼らの宿営地を霜のようなものが覆った。マナと名付けられたそれは白く甘く、余ることも足りぬこともなく、すべての人々に行き渡った。


 彼らが人の住める土地に着くまで、イスラエルの人々は四十年に渡ってマナを食べた。


§


 ごつごつとした地面の硬い感触を背中に感じながら、朽ちかけた落ち葉の湿った匂いを鼻に感じながら。どこまでも青く高い空を見上げて、颯真そうまはマナが降ってくれば良いのに、と思った。


 民を飢えから救った神の恩寵。殺さずとも刈り取らずとも人々の命を繋ぐ奇跡の甘露。

 軽く開いたまま乾きひび割れた彼の口にも、そんな救済が降り注いでくれれば、と。


(そんなものは、ないんだけど)


 聖書に記述されるマナとは何なのか──諸説はあれど、真相はいまだ謎に包まれている。というか、そんな都合の良いものは()()のだと教えられた。


 茉菜まな先生の授業の声が、颯真の耳に蘇る。生まれてから十六年、毎日のように聞いた優しい声は、いつでも彼の傍で語り掛けてくれるかのよう。


『神は人を救わない。罰することもない。少なくとも、現代においては。救済も神罰もないのなら、自らを律することこそが私たちの使命です』


 今は果てしなく遠い日常の懐かしさに、空に浮かんだ雲の輪郭が少し滲んだ。


 自らを律すること。その意味を、颯真はよく分かっている。それはつまり、罪を知ること、だ。

 生きるだけで、人間はどれだけ多くの命を犠牲にしていることか。衣食住を得るために、どれだけ環境を汚していることか。


 現代の人間は、自らの罪深さの自覚がないままに喰らい、消費している。だから、せめて気付いた者は目を背けてはならないのだ。その思想のもとに築かれた《楽園》で生まれ育った颯真たちは、人類の罪を償うために在るはずなのに。


「──痛っ」


 身じろぎすると、全身を襲う痛みに起き上がることはままならない。荒く息を吐くばかりで、大声を出すこともできそうにない。


 こんなことになったのは──ほんの一瞬の油断だった。

 山中に切り拓いた畑に向かう、慣れたはずの細道を歩いていた時のことだ。跳びだして来たのは鹿か猪か──とにかく、駆け抜けた獣を避けたはずみで視界が傾いだ。そして、浮遊感と、次いで落下感に襲われたのだ。


 意識も失って──痛みにうめいた時には、颯真は急な斜面を転げ落ちた底で、身動き取れなくなっていた。


(《楽園》は、すぐそこなのに)


 地面に横たわった格好のまま、颯真は丸一日は過ごしただろう。

 空の色が夕焼けに染まり、星空が広がり、また赤く燃えるのを虚しく見上げてきた。彼を呼ぶ声も聞こえてきたけれど、角度の問題なのか誰も見つけてはくれないようだった。


(もし、このままだったら──)


 今年は秋の訪れが遅い。晩夏がいつまでも続くようなぬるい気候のお陰で、山中でひと晩過ごしても凍死せずに済んだ。

 でも、手の届く範囲に食べられる草葉はなく、水のせせらぎの気配もない。焦燥が、飢えと渇きをいっそう搔き立てる。


 死ぬ。数えきれないほど罪を重ねた上で。犠牲を積み重ねて生きてきた癖に、償わないままで。


 岩魚イワナアユコイの脳天に包丁を突き立てた。

 鶏の首を折って、羽根をむしった。


 豚の時は、彼ひとりではできなかったけれど、罪は変わらない。

 異変に気付いた豚の哀れな悲鳴。頭蓋骨をハンマーで思い切り叩いた時の、手のしびれ。喉に突き刺したナイフ、その切っ先で頸動脈を探る感触。光を失っていく目。滴り落ちる血の臭い。


 それは、飽食の罪のほんの一端。せめて、口に入るものがどのようにあがなわれるのかを毎食ごとに知らなければならない、というのが《楽園》の教え。だから、そこでは自らが殺したものしか口にしてはいけないのだ。


 お前は、食べるために殺した。お前の生は、他者の死の上に成り立っている。その罪を常に思い知れ。己の罪深さを決して忘れるな。


 ……忘れるはずがない。手の中で命が失われていく感触を。

 冷めていく血、動きを止める筋肉、生き物がモノに変わる、取り返しのつかない瞬間。

 殺した無数の命──その、肉の味。脂の旨味。美味しかった。


(……食べたい)


 心の中で呟くと、涙が込み上げてきた。

 飢えのせいでも、死への恐怖のせいでもなく、自分への情けなさのせいで。


 死は、本来恐れるべきことではない。それ以上ほかの命を喰わずに済むのだから。

 

 なのに、今の颯真は死を恐れている。殺してでも食べたい、と思っている。

 心身に染みついたはずの教えの、なんて虚しいことだろう。少し切羽詰まったくらいで、喜んで罪を重ねたいと思うなんて。


(俺、最低だ)


 颯真はそっと目を閉じた。

 余計なことを考えるのは体力の消耗でしかないだろう。それに──できるなら、浅ましい自分を直視しないまま、眠るように死にたかった。


§


 そして実際、颯真そうまは寝るか意識を失うかしていたのだろう。彼が覚醒したのは、()()が近づく音と気配を感じたからだった。


(誰……違う、()、だ……?)


 助けを期待したのは一瞬だけ。その音の密やかさと──そして、奇妙なほどの滑らかさは、人間の足音ではあり得なかった。


 獣──でもない。鹿の細い脚でも猪のがっしりとしたそれでも、四足の獣が歩けば、一本一本の脚が立てる音は判別できるものだろう。それが、その音はぱき、ばき、と()()()()()()颯真に迫ってくる。


 じわじわと、じりじりと。落ち葉や枯れ枝を踏み潰し、下生したばえを押し退けて。歩くのではなく、う音だ。こんな音を立てるとしたら──


(……蛇?)


 それも、とてつもなく巨大な。日本にそんな種はいないだろうに、けれど、冷たい呼吸が、長い舌がちろちろと動くのが、耳元に感じられるような。


 蛇のあぎとが開く。牙が剥かれて、彼を呑み込もうとする。


 そんな光景を幻視して、颯真は身体を強張らせた。と、打撲だか骨折だかで傷めつけられた四肢に痛みが走る。


 堪らず呻いた唇に──甘露のような雫がしたたった。


(……水……雨……?)


 聖書に語られるマナは、降るはずはない。とはいえ、乾いた身体に染み渡る水は、蜜ほどに甘く感じられた。目を開ける気力も、湧く。


 颯真は、よだれを垂らした大蛇に見下ろされているところを半ば想像していた。あり得ないとは分かっていても、すぐ横に迫った冷たい巨体の気配はそうとしか思えなかった。でも──


「──良かった。起きた」


 真っ先に、澄んだ高い声が颯真の耳を打った。


 次いで目に映ったのは、赤く燃える空。ほふった豚の頸動脈から流れたような、鮮烈な赤。二度目の夕暮れが近づいていたらしい。

 視界をも焼くような眩しい赤に目を細めると、黒い影が空を切り取っていた。人間の形をした──つまりは、蛇なんかでは、ない。


「きみ、は──」


 掠れた声で呟きながら瞬くと、逆光にかげっていたの顔かたちが次第にはっきりとしていく。


(女の子、だ)


 華奢な肩や細い首から、何となくそう判じる。艶々とした長い髪が、ひどく邪魔そうだ。それに、彼女の着ているものも動きづらそうに見える。


 白い、合わせの上衣のそでも、あかい──たしかはかまとかいったズボンもゆったりとたっぷりとして。

 昔の人が着るものだったはず、とは何となく知っているけれど、ではこんな服装をする人もいるのかどうか、颯真は知らない。


(若い、よな……? 俺と同じくらいの……?)


 髪型も服装も、彼の常識とかけ離れた格好の少女──だと思う──の正体を判じかねて、颯真は目を細めた。

 不審と警戒を露にしているであろう颯真に、少女は軽く微笑んだ。そして、ポケット状になっているらしい袖の膨らみから、何かを取り出した。


の施設の人……だよね? 迷ったの? 遭難って感じ? 良かったら食べる? 口の中の水分持ってかれるけど、水はまだあるから──」


 颯真の口元に差し出されたのは、銀紙に包まれたクッキーのようなものだった。市販品だ。何をどうやって作って、どうやって流通したか知れたものではない。


 甘ったるい香料と油脂の強過ぎる臭いから逃げようと、颯真は懸命にもがいた。

 芋虫がうような無様な動き、かつ、痛みに泣き声めいた呻きをあげながらの必死さを、少女は察してくれたようだった。


「……なんか、色々あるっぽいね」


 少女は、軽く肩を竦めると添加物たっぷりであろうモノをひっこめてくれた。彼女の視線が、先ほど言った通りのほうをちらりと撫でるのは、たぶん、《楽園》の位置する方向に当たるのだろう。


の子なんだ……)


 では、彼女は罪を知らないのだ。にいるのは無造作に食べて飲んで消費する、無知な人たち。

 先生たちは哀れみと蔑みの響きで語るけれど、罪悪感で心が縛られていないと、人はこんなに眩しく見えるものなのか。一日ぶりの人との対峙が、今の颯真には刺激が強いということなのかもしれないけれど──少女の声も仕草も、彼の五感を刺激して頭をくらくらさせる。


(マズい……!?)


 と、颯真は重要な教えを思い出した。

 《楽園》の在り方を理解する人は多くない。だからの人と接してはいけない、《楽園》の存続に関わりかねないから。


 何かしらの弁明をしようとして。けれど何も浮かばなくて。地面に転がった格好のまま、颯真は虚しく口を開閉させた。


 でも、少女は《楽園》について触れることはなく、ただ、笑みを深めた。同時に、朱色の袴の膝を地について、颯真のほうへ、ぐいと顔を近づける。身を乗り出して──まるで、肉食獣が獲物に襲い掛かる姿を彷彿ほうふつとさせる。


 夕闇が迫る中で、ますます黒い彼女の目が、間近に黒々と濡れていた。目を見開いた颯真自身の姿が見て取れそうなほどの至近距離だ。


 少女の細い指が、颯真の頬から首筋を撫でおろし、肩を掴む。


「私の目、見て」


 言われるまでもなく、目を逸らすことなどできそうになかった。覚醒した時の音がそうさせるのか、蛇に睨まれたカエル、なんて言葉が頭に浮かぶ。

 身動きも取れないまま──颯真は、少女の唇が不思議な言葉を紡ぐのを見た。そして聞いた。


 かけまくもおそろしきあまやのみやまのいわくらの

 みおやおおかみにうろくづのまなごの

 みけみきくさぐさのよきにへそなえまつる


 独特の抑揚。歌のような呪文のような音が、少女の澄んだ声に乗って颯真の耳に届き、脳を揺らす。酔う、というのはこんな感覚なのだろうか。

 唱えているのはたったひとりなのに──無数の人声が同時に囁きかけてくるかのような。


 おおかみのわけたまひしうろくづをよすがにて

 しずたまきうからやからにもにへあひなめさせたまへ

 うみかはやまのよろづもののませたまへたうばせたまへ


 くらくらと、目眩のような感覚がするのに、少女の黒い眼差しだけがひたと彼を捕らえている。


 そうして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。


「どう? 動けそう?」


 やっと、意味が分かる言葉で問いかけられた、と気付くのに数秒かかった。そして、起き上がれることに気付くまでに、さらに数秒が。


(……どうして?)


 滑落による怪我の痛みも、空腹による脱力も倦怠感も。消えてなくなった、とは言わずとも、無視して動けるていどには後退していた。訳の分からない、呪文めいた声を聞いていただけで。


 なぜ、と。驚愕に見開いた目で問う颯真に答えず、少女は困ったように笑った。


「君の家──なのかな? まで、たぶん少しだから。帰れるんじゃないかな。私のことは黙っていてくれると嬉しいんだけど」


 白い頬が夕日の残照に映えたからだろうか。その笑顔は目が痛くなるほど輝いて見えた。


§


 「マナを待つ会」の講習セミナーは、斉木さいきの耳にはありふれた陳腐なものに聞こえた。つまり、オカルトだの心霊現象だのを扱うライターである彼にとっては、ということだ。


 清潔感のある装いの女性講師が、聴衆を見渡しながらにこやかな笑顔で語っている。


「『マナ』の正体については、キノコや果実、樹液などの説があります。中には虫が分泌する蜜を採取したものである、なんて説もありますね」


 斉木には既知の情報も、()()()()講習に参加する──主に──若い女性には新鮮で、しかも()()()()気持ち悪かったらしい。控えめかつ楽しそうな悲鳴のさざ波が起こり、そしてすぐに静まった。


「将来的には、あるいはマナのような奇跡の食糧が開発されて、あらゆる問題が解決するのかもしれません。ですが、今現在ではその見込みがない以上は、私たち個々人の意識が──」


 要するに、「マナ」のような画期的な解決方法が開発されるまでは、環境に配慮して食べるものに気をつけましょう、がこの団体の趣旨なのだ。

 配布された資料も、宗教団体というよりは、料理教室を思わせる。何しろ、並んでいるのは会が経営する農場や牧場で作った野菜や果物や肉加工品を使ったレシピばかりなのだから。


(ヴィーガンなんかよりは食べ物の縛りは少ないからなあ。そりゃ、受けるだろうさ)


 講習会場は、ファッションビルも立ち並ぶ都心の一角のレンタルスペース。斉木以外の聴衆は、概ね街並みに相応しい若々しく華やかな装いをしている。

 彼ら彼女らには、ヘルシー志向というかナチュラル志向というか、とにかく()()()()()は好まれそうだ。


「いわゆるヴィーガンのように、いたずらに制限を増やしても意味はありません。偏った食生活で健康を損ねるのも、自然なことではないですから」


 と、講師の女性の口調に、やや皮肉っぽいが滲んだ。まるで斉木の考えを読んだような主張だから、彼は思わず笑ってしまう。


(だから、について自覚的に。かつ、由来のはっきりした食べ物を、か)


 それで、自分たちの商品の売り込みに繋げるのだからよくできている。


 資料をめくったところ、「マナを待つ会」が生産する農産物は、かなり割高には見える。

 とはいえ、彼らの主張通りに有機農法だか何だかでやっているなら、大手スーパーと同じ値段という訳にはいかないのはまあ当然だろう。あるていど高額なほうがかえってありがたがれるものなのだろうし。


()()()の胡散臭さ、だよなあ)


 何色かはともかくとして、思想の色がついているのは間違いない。ただし、それも誰かに害を与えるたぐいのものではないだろう。

 それはすなわち、記事のネタとしては弱い、ということになってしまうのだが──まだ、分からない。


 「マナを待つ会」は農場を所有している。過疎化した地方自治体をターゲットにして広大な山地にし、独自のを築いているのだとか。


「トマトも本当に真っ赤で──」


 通販番組のようになってきた講師の言葉を聞き流しながら、斉木は密かにほくそ笑む。


(カルト団体と地元の軋轢あつれき──なんて、面白そうじゃないか?)

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