いずれ魔王になる彼と、彼を愛した魔女の話
「僕を殺したら、君はきっと後悔する」
エレオス王の命を受け、制圧部隊と共に《魔の国マギア》の魔王城へと乗り込んだ勇者イリア。王の間で待っていた魔王ヴェルクラインは淀みのない目で彼女に言った。
魔性の者は悪である――魔族撲滅を掲げる過激派集団《ロワ》の助言により、世界から魔法と魔性の類いを消し去ろうという風潮が高まるなか、自らも魔法を操れる身でありながら、イリアは《マギア制圧部隊》を率いていた。
《ロワ》とエレオス王国に忠誠を誓うならば、この身は保証される。大切な人にも危害は及ばない。生きるためにマギアを侵攻したイリアに、ヴェルクラインは同情しているようでもあった。
「僕はかつて、エレオスの貴族の子どもだった」
ヴェルクラインは、イリアに自らの過去を語り始める。
優しい魔女に救われた少年の話。
やがてその昔話は、イリアとヴェルクラインの運命を大きく変えて行くことになる――
魔王の城というのはこの世で最も恐ろしく、おぞましく、不気味なものであるはずだとイリアは信じて疑わなかった。日中でも闇と瘴気に包まれ、生きとし生けるものを拒み、血肉に飢えた魔族が徘徊して喚き声が響き渡るような場所に違いないと。
大陸の東に位置するマギア王国には、既に世界中で禁じられた魔法や魔性の者達が多く存在し、魔族が棲み、魔王が実権を握っている。《魔の国マギア》と称される国で人々は卑しく怪しい力に支配されているのだと――彼女は幼少の頃からそう聞かされてきた。
だから、魔王城へと乗り込んで、柱や天井に彫られた美しい彫刻や、壁に描かれた壮大な歴史絵巻、丁寧に磨かれた調度品に衝撃を受けた。柔らかい陽射しに照らされ、崩れた壁や破れた窓さえ眩しいまでに輝いて見える。音は遠くまで透き通るように響き、不気味と言うよりは静謐だった。
心に僅かばかりの引っかかりを覚えつつも、イリアは仲間や部隊と共に魔王城の最深部を目指した。激しい抵抗に遭い、一人また一人と味方が減った。魔王城の奥へ進むにつれ、敵は確実に強さを増した。魔王が如何に偉大であるかを叫び、攻撃の手を緩めなかった。
気付けばイリアは一人きりになってしまっていた。
身体中傷だらけになって、それでもどうにか倒さねばと、魔王の間の重い扉を開けたところで――彼女の思考は停止した。
「貴様が、魔王ヴェルクラインか」
口からようやく漏れ出たのは、相手の正体を確認する言葉だけ。
目の前に居たのは、イリアの予想とは掛け離れた優顔の青年だった。
重い扉がバタンと閉まり、広い室内に二人きり。
「マギアの外の人間は、僕のことをそう呼ぶ。ヴェルで良いよ。君が噂の勇者イリアかな? お会い出来て、実に光栄だ」
玉座にどっしりと腰を下ろし、透き通るような青い瞳で、魔王ヴェルクラインはイリアをじっと見つめている。高い位置にある窓から差し込む日の光がヴェルクラインの長い金髪をキラキラと照らし、整った美しい顔が浮きだって見えた。
魔王などという称号さえなければ、彼は間違いなく美青年で――イリアの好みだった。
「随分派手にやってくれたね。お陰でマギアはほぼ壊滅だ。君達は《マギア制圧部隊》の名に恥じぬ功績を残した。マギア王国に存在する全ての魔族と魔性の者達を抹殺し、人民を解放せよと……、実に素晴らしい大義名分を持って攻め込んできただけのことはある。エレオス王と魔族撲滅派《ロワ》の幹部達は君と部隊の功績を褒め称え、未来永劫語り継ぐだろう。おめでとう。君の身分と将来は保証された」
パチパチと、ヴェルクラインは真顔で手を叩く。
高い天井に反射しして不気味に増幅された拍手の音は、イリアにはとても耳障りに思えた。
「こ、心にもないことを。狡猾だな。しかしそうやって私の心を掻き乱そうとしているなら……無駄だッ!!」
イリアは音をはね除けるよう大きくマントを揺らし、剣を抜いて魔王に刃を向けた。
ところが、鈍く光る剣先にも魔王ヴェルクラインは動じなかった。
鎧を身につけ武装するイリアとは対照的に、ヴェルクラインは軽装で、まるで戦うつもりなどないように見える。マントを羽織り全身黒づくめの軍服姿ではあるが、胸当てすらしていない。腰には宝剣さえ携えてはいないのだ。
「魔王ヴェルクライン! 魔性の者にして、魔族の長。善良なる人民を惑わし束縛する諸悪の根源よ!! この勇者イリアが貴様を倒し、マギア全土を解放する!!」
精一杯声を振り絞り、イリアは叫んだ。
叫んだが――……、魔王に向けた切っ先は震え、声は上ずっていた。怯えが前面に出て、威嚇にすらならなかった。
一切ブレない魔王の視線。ひしひしと感じ取れる魔力はそれまで出会ってきた何者よりも大きく、とても一人では太刀打ち出来ないと悟ってしまう程だった。それでも立ち向かわねばと虚勢を張ったが、イリアの本能がそれを拒んだ。適わない、殺される。恐らくまともに戦おうとすれば一瞬で肉塊になってしまう自信がある。
何より恐ろしいとイリアが感じたのは、純粋なまでに透き通った瞳。青い瞳の奥に、炎が見えた。青白い炎が、イリアの攻撃は無意味とばかりに燃え盛っている。
「君と戦うつもりはない」
ヴェルクラインは静かに言った。
「かと言って、簡単に殺されるつもりもない。……僕を殺したら、君はきっと後悔する」
イリアは、息を呑んだ。
魔王に向けていた剣先が、大きく下にブレた。
「命乞いか。臣下は倒されても、自らは生き延びようと言うのか。魔王が聞いて呆れる」
「――僕は、魔王ではない」
「な、何の冗談ッ!!」
「マギアの外の人間が勝手にそう呼ぶだけで、僕はマギアの国民に望まれ王になった、只の人間だ」
「に、人間……? しかし貴様のそれは、只の人間の魔力じゃ……」
両膝に肘を置き前屈みになって、ヴェルクラインはイリアを睨んだ。
「魔力は生まれと境遇に影響される。《深緑の魔女ラヴェンダ》が僕の力を引き出した。そして僕の境遇が、魔力を必要とした。生きるために強くなった。大切なものを守るために、強くならざるを得なかった。つまりは君と同じだよ、勇者イリア」
ウッとイリアは息を呑んだ。
剣先がガタガタ揺れた。身体中から汗が吹き出し、視線が泳ぐ。
魔王ヴェルクラインは静かに笑い、おもむろに立ち上がった。
「魔族撲滅を掲げる過激派集団《ロワ》がエレオス入りしてから先、国は狂った。魔法を使える人間は魔族と同等に扱われた。君も随分と苦労したのじゃないか。勇者の魔法は強大で、この国の魔族達を悉く焼き尽くしたと聞いている。……炎の魔法が得意なんだね。僕と同じだ」
段差を降りて、ヴェルクラインはゆっくりとイリアの方へと近付いてくる。感情を抑えたような顔で、視線を逸らさず、真っ直ぐ彼女を見据えたまま。
そうしてイリアのすぐそばまで来ると、ヴェルクラインはそっとイリアの震えた右腕に手を添え、優しく剣を下ろさせた。彼女は彼に従い、力を抜いた。ごくごく自然に……そうするしかないのだと、思わされたかのように。
「マギアの外で魔法を許可されるには、所属する国の王と《ロワ》に信頼される必要がある。その力が間違いなく有益で、決して主を裏切ることはないのだと証明し続けなくてはならない。……人質を取られているのだろう? 可哀想に。君は強い分、他者より多くの人質を取られているのではないか?」
魔王ヴェルクラインの美顔がイリアの眼前に迫った。魅惑の魔法に掛けられたように、イリアは一瞬意識を手放しそうになった。が、慌てて正気を取り戻し、一歩下がってブンブンと首を横に振った。
「だ、黙れ魔王!! わ、私はこの世界の平和と秩序を維持するために……!!」
「――《ロワ》が暗躍する限り、この世界は平和にならない。秩序もずっと乱れたまま。賢い勇者イリアは気付いているんじゃないか? マギア侵攻は間違いだった、《ロワ》に唆されて世界は暴走している。魔性の者や魔族が全て悪とは限らないこと、危険とは限らないってことに」
「そ、それは違っ」
「違わない。君の迷いが確たる証拠だ。僕の愛する臣下達は、無抵抗の者を襲ったか? 無闇に傷付けたか? 僕は常々言い聞かせてたんだ。『どんなことがあろうとも、絶対に先に手を出すな。相手が敵意を見せ、大切なものを奪おうとした時だけ全力で相手を打ちのめせ』と」
イリアは言葉を詰まらせた。
特に魔王城へと入ってから先、妙な違和感が付き纏っていたのは確かだ。
城の中には多くの敵が居たが――先制された覚えは一度もない。マギア国内へと入る前は、人間と見れば襲ってくる魔族も多く居た。なのに、マギアでは一切先制攻撃を受けていない。
――王のために、マギアのために。
まるで人間と変わらんなと、イリアは彼らを一蹴した。魔族は魔王に生かされている。だから忠誠を誓っているのだとばかり……。
「誰かを傷付ける目的で力を使うのは間違っている。君が殺した者達は、本当に悪だったのか? 君は一体どんな正義で僕の大切な者達の命を奪ったんだ?」
決意が揺らぐ。
マギアを制圧し人民を解放せよと――エレオス王の命を胸に抱き、勇者として仲間と軍を引き連れ必死に駆け抜けてきたことを、魔王ヴェルクラインは簡単に否定する。
右手に握り締めた剣をもう一度振り上げ、戯けとばかりに剣先を魔王に向けられたのならどんなに楽か。イリアの迷いは既に腕に達していて、上手く剣を握り続けるのさえ危うくなってしまっている。
震えるイリアの手に、ヴェルクラインは静かに視線を落とした。
「……哀れだな。君も所詮繰り人形か。己の意志で正義を執行するならば、決して揺るぎはしないだろうに」
ヴェルクラインはその大きな手で、擦り切れた革手袋ごとイリアの右手を包み込んだ。
「きゃっ!!」
柄から手が離れ、剣がふらっと前に倒れた。
ヴェルクラインの手が伸びる。倒れきる前に掴まえた剣を、彼はスッとイリアに差し出した。
「君を《ロワ》の呪縛から解放したい」
イリアは慌てて飛び退いた。
剣はヴェルクラインが握ったまま。彼女はグッと腰を落とし、短剣を引き抜いてヴェルクラインに襲いかかった。
「だ、黙れ黙れ黙れ!!!! 魔王の言葉になぞ、私は騙されん!!!!」
シュッと刃先が空を切る。ヴェルクラインは口角を上げ、サッと短剣を躱す。
それどころか、彼女に渡そうと持ったままの剣が誤って彼女を傷付けぬよう、彼は器用に立ち回った。それが益々イリアの癪に障った。
幾度となく振り回した短剣が、パラッとヴェルクラインの長い髪の先端を切り取ったところで、彼はグイッとイリアの右手を掴み、高く捻り上げた。
「い、痛っ……」
短剣がコロンと絨毯の上に零れ落ちる。
「な、何をする?!」
「振り回す物を間違えてる。そんな短剣如きで僕は殺せない。僕を殺すつもりなら、大事な聖剣を離さない。……いいね」
ヴェルクラインはスッとイリアに剣を差し出した。勇者の聖剣――《太陽の剣》と人は呼ぶ。全ての悪を白日の下に晒すため、強力な聖魔法が込められた剣。
彼が完全なる“悪”ならば握ることも触ることも出来ぬはずだ。だのに彼は、イリアの手から零れ落ちた剣をしっかり握っていた。
彼女は剣を受け取って、しばらく思案した。
《太陽の剣》と、魔王ではないと断言した男。一体彼は何者で、何が本当なのか。彼の言う通り認識の齟齬が生じているのだとしたら、自分達は恐ろしい罪を犯したことになる。それこそ、大虐殺をしでかした大罪人。正義を振りかざし、残虐非道に無実の人間を、魔族を、殺しまくっていたのだとしたら――……。
「君と戦い、殺したところで僕の大切な者達は元に戻らない。禁呪を使ってまで彼らを蘇生させるつもりもない。君は勇敢に戦った。そしてマギアの王たる僕の元へ辿り着いたことは褒め称えよう。――だが、それは《ロワ》の正義で、君の正義ではない。夢から、覚めるべきだ」
ヴェルクラインは、目を細めた。
嫌な予感がして、イリアは剣を再びギュッと握り締めた。今度は両手で。――それでも、身体が拒否する。手を上げてはならない、刃を向けてはならないと。
「マギア王国は……既に壊滅状態だ。各地に飛ばした伝令が、事細かく教えてくれた。魔力を帯びていると知れば、女子どもも容赦なく殺したそうだな。エレオスではそうなのか? 魔法を操れる人間は、悪魔に魂を売ったと未だに信じられているのか?」
――ズンと、ヴェルクラインはイリアに迫った。
逆光で見えにくくなった表情。青い炎を宿した瞳が、爛々とイリアを見下ろしている。
「何の権限があって、《ロワ》が魔族を撲滅したがっているのか僕には分からない。機械文明が徐々に発達し、人々はより自由で便利な生活を手に入れていると聞く。……しかしそれが、なぜ魔族撲滅へと飛躍したのか。滅ぼすべきは《ロワ》ではないかと僕は思う。違うか?」
違う、とは言えなかった。
イリアはヴェルクラインから目を逸らした。
このままでは魔王の思うつぼだ。完全に彼のペース。倒さなければならない男の話に耳を貸している場合ではないというのに、悲しいかな恐怖で身体が動かない。情けない。勇者などと担ぎ上げられ、必死に繕ってきたことを見透かされた。一体、どうすれば。
「何が……望みだ。報復か。エレオスを滅ぼすのか」
違う、とヴェルクラインは首を振る。
「共に生きる道があるはずだ。僕は平和を望む。かつて絶望の淵にいた僕に、生きるとは何か、愛とは何かを教えてくれた《深緑の魔女ラヴェンダ》の意志を継ぎたい」
魔王と呼ばれた男のものとは思えぬ台詞に――イリアは面食らった。
理解出来ない。出来るはずがない。彼は何を考えて……。
「僕はかつて、エレオスの貴族の子どもだった。傍若無人な僕の父が下女を襲って産ませた不貞の子で、生まれながらに魔法が使えた。僕には人権がなかった。いつだって僕は、非難と差別の対象だった」
「――ま、待て魔王。私にそんな話をして、同情させようとでも? 貴様を見逃す口実を作らせようとしているのか?」
と、ヴェルクラインは小さく吹き出し、イリアの表情を確かめるように距離を取った。
妙だ。
殺しに来た人間に、何故彼はこんな話を。
「僕が死ねば、この話は誰にも届かない。《深緑の魔女ラヴェンダ》の存在も忘れ去られてしまう。せめて僕を殺すなら、彼女の話を全部聞いた後にしてくれないか。話し終えるまで、僕は絶対に君を傷付けない。同郷のよしみだ。全部話を聞いた後で、それでも僕が間違っていると君が判断したなら、躊躇なく僕の首を撥ねれば良い」
「――なっ!! 貴様、何を考えて!」
「僕を殺しに来たんだろう? でも、簡単に殺されるつもりもないと言った。僕の望みはそう多くはない。まずはラヴェンダの話を最後まで聞いて欲しい。そして君を――《ロワ》の呪縛から解き放つ」
イリアの気のせいでなければ――……ヴェルクラインは笑っているように見えた。
国中を焼き払い、部下を皆殺しにして、聖剣を手に殺しに来たイリアを前に、魔王ヴェルクラインは穏やかな表情を見せている。
「魔王……では、ないのか。貴様、その魔力と威厳で魔族を操っているのでは」
「心外だな。今は魔王じゃない」
「今は?」
「魔族撲滅だなんて戯れ言を何時までも言わせておくつもりはないんだ。《ロワ》壊滅のために、これから魔王になるかも知れないけどね」
敵なのか、味方なのか。
そもそも何が正しく、何が間違っているのか。
確かに彼を殺してしまえば……その判断が正しかったのかさえ分からなくなってしまう。マギア制圧とは何だったのかも。
「き、貴様が魔王になれば殺すしかなくなる……!」
「殺せば良いじゃないか。君は僕を殺しに来たんだから」
ヴェルクラインは迷わず言った。
「イリア、君に聞いて欲しい。いずれ魔王になるかも知れない僕と、僕を愛した魔女の話を」
イリアはこくりと頷いた。
その様子を――……思いがけない人物に見られていたとも知らずに。




