2 マーガレット
「マーガレット!」
その時、マーガレットを呼ぶ声がした。
振り返ると、ヘンリー王子が急ぎ足でやって来た。
「手を振って合図をしたのに一人で先に行ってしまうから追いかけてしまったよ。」
マーガレットはヘンリー王子の言葉に驚く。
追いかけて来た?わたくしを?
今までそんなこと、あったかしら。
「ほら、鞄貸して?」
今度はマーガレットの鞄を引ったくるように奪い取る。
「鞄を持って頂かなくても大丈夫です。自分で持ちますから!」
王子に鞄を持たすなんてとんでもない。
慌てて取り返そうとするが、
「駄目だ。婚約者として当然だ。それよりさっき、婚約者を代わるとか聞こえて来たけど、何の話かな?」
ヘンリー王子が聞いてきた。笑顔だが、目は笑っていない。
「えっと……」
婚約者を代わってもらえないかと聞いていました。なんて勿論言えない。
「ヘンリー王太子殿下、お早うございます。何でもありませんわ。何かの聞き間違いでしょう。マーガレット様にご婚約のお祝いを申し上げていたところです。お二人は、本当にお似合いで素敵なカップルだと思いますわ」
エレオノーラがにこやかに言ってごまかしてくれた。
やっぱりエレオノーラは頼りになる。
「お二人のお邪魔をしたくありませんので、これで失礼します」
そう言って彼女はその場からさっさと立ち去ってしまった。何故か逃げ足の早いエレオノーラ。
そんな彼女の後ろ姿を見ていたマーガレットは、背中に手を添えられた。
「ほら、私たちも行くよ。マーガレット、一人で行動したら危ないよ。これからは私と一緒にいるように」
今度もヘンリー王子の言葉に驚く。
周りは同じ学生なのに何が危ないんだろう。
「殿下は忙しいと思いまして、先に来てしまいました。あの、新入生代表の挨拶、とてもご立派でした」
「ありがとう。でも、途中から下を向いて聞いてなかったようだね」
うそっ、見ていたの?
またもや驚く。
「え?そんなことは……少し気分がすぐれなかったので……」
「気分がすぐれない?大丈夫か?そういえば、いつもと様子が違うな。確か、学園には医務室があったな。連れていってやろう」
ヘンリー王子は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「だ、大丈夫です。ご心配には及びません!それよりも早く教室に向かいましょう」
そんな整った顔で覗き込まれたら、心臓が飛び出してしまう。
ヘンリー王子がいつもと違う!
彼はこんな人ではなかった。
いつも、冷静沈着で悠然としていて、こんな風にマーガレットを追いかけて来たりはしなかった。
自分や婚約者候補達には節度持った態度で、一歩引いた感じがしていた。その中でもエレオノーラだけには信頼を寄せていたと思う。
わたくしとは政略適な結びつき。それでも婚約者に選ばれた時は嬉しかった。
青光する黒髪に宝石の様なエメラルドグリーンの目。成長した今ではすらりとしながらも堂々した立ち姿、頭脳明晰で剣の腕も立つ。悪役令嬢でなくても好きになってしまうだろう。
今、その翠色の瞳が心配そうに見つめて来て、ドキドキしてしまう。
ヘンリー王太子殿下、優しいわ。好き。…はっ、駄目駄目。
きっと、婚約者の義務ってやつね。惑わされては駄目よ。避けようと決心したのだから。
そんなことを考えていると、いつの間にか教室に着いていた。
「席が離れているではないか。今日は仕方がないが、明日には席替えだな。じゃあ、マーガレット、帰りは一緒に帰るから」
「は、はい」
返事をしたものの、今日から一緒に帰ることはない筈だ。そんなことよりと、マーガレットは教室をきょろきょろと見ている。
先生が入ってきて、ヘンリー王子が一番前の席に座る。
席は成績順で、後ろにエレオノーラ、マーガレットは真ん中位の席だ。そして、ヘンリー王子の隣には、ハニーブロンドの髪色の女の子が座っていた。
いたわ。ヒロインね。預言書と同じだわ。
そして、周りには攻略対象者と呼ばれる、側近候補の令息達が座っていた。
彼らには少し前から、何度か交流のお茶会で会っていた。その時は、マーガレットにも紳士に接してくれていた。
将来あの人達からも、ヒロインに惹かれて、悪役令嬢のわたくしは非難を受けるのだわ。
複雑な心境で彼らを見ていた。
自己紹介が始まり、ヘンリー王子の時は、令嬢達の恍惚とした視線とエレオノーラの時は男女関係なく生徒からの崇める様な眼差しの後、ヒロインの番だ。
「ケイティです。宜しくお願いします。ご存知の通りあたしは平民の特待生で、お世話役を付けるという話ですが、貴族の方にお手間を取らせるわけにはいかないので、できればお断りをしたいんですけど……」
あら、これはヒロインが言っているの?断った?
「それは駄目だ。この特待生制度は王室と学園の共同の施策だ。失敗は許されない。貴族の世話役が必要だ」
ヘンリー王子が返した。そうですよね。預言書ではそうなってましたから。
「できれば、女の子がいいです」
「わかった。では、エレオノーラ・ローレライ嬢に頼むとしよう。彼女は優秀だし、家は公爵家で、世話役にはうってつけだ」
ええ?ヒロインの世話役がヘンリー王子ではなくて、エレオノーラ様?
そんな筋書きはあのノートには書いていなかったわ。
ヘンリー王子はヒロインの世話役をかって出るんじゃなかったかしら。
預言書によると、平民でも富裕層しかいない中にひとりぼっちの、貧しく可憐で清楚でけなげなヒロインを可哀想に思うのだ。そしてヘンリー王子の婚約者が邪魔しにくる。平民の癖に王子に近付くなとか言って。それをヘンリー王子殿下が止めるというイベントなるものが発生するのだ。
だから、大人しく成り行きを見守ろうと思っていたのに、全く違う展開になっていた。
「それと、隣国からの留学生、カインの世話役も一緒に頼むとしよう。それにはイーサン・ペリー、アール・ルイス、トーマス・ペレスの3人に世話役を任命するので、エレオノーラと4人で2人の世話役を頼む」
攻略対象者の令息が世話役になるのは預言書と変わらなかった。
どういうこと?どう対処したらいいのかしら。
もんもんと考えていたら、声を掛けられた。見上げたら、あの婚約者候補だった3人だ。名前は
ナンシー・ベイカー、コゼット・キャンベル、レジーナ・ブルックスだ。
「マーガレット様、改めてご婚約おめでとうございます」
「同じクラスで、嬉しいですわ」
「これからも仲良くして下さいね」
子供の頃には、足の引っ張り合いで彼女達ともギクシャクしていたが、それも最初の頃の話で、彼女達、婚約者候補同士はかなり仲がいいのだ。
「マーガレット様、帰りに学生街のカフェにでもいきませんか?」
彼女達が誘ってくれた。
いつの間にか、終わっていたらしい。皆が帰り支度をしている。
女の子とカフェでお喋りなんか憧れる!
「まあ、行ってみたいわ!」
今日は王妃教育が休みなのだ。マーガレットはウキウキして、即答した。
「やあ、ベイカー嬢、キャンベル嬢、ブルックス嬢、久しぶりだな。元気にしてたかい?申し訳ないけど、マーガレットは気分がすぐれないそうだから、私がデバル公爵家まで送っていくことになっているんだ」
そこにヘンリー王子が突然割り込んできた。
「まあ、ヘンリー王太子殿下!そうでしたの。それは気がつかず申し訳ございません」
「いいよ。これからもマーガレットと仲良くしてやってくれ」
そう言ってヘンリー王子はあっという間にマーガレットを連れて行ってしまった。
そして、今、そのヘンリー王子と一緒に王宮の馬車にガタゴト乗せられている。
「…………」
ヘンリー王子は黙ったまま、座っている。
何故、彼女達の誘いを勝手に断って、同じ馬車に乗っているのか。
「あの、ヘンリー王太子殿下」
マーガレットは問いただそうと、口を開いた。
「ヘンリー」
「はい?」
「婚約者になったのだから、ヘンリーと呼ぶように言ったはずだ」
「ヘンリー……様……」
「本当は様もいらないのだが、まあ、今のところはよしとしよう。それより私と一緒に帰る約束があったのに、彼女達と街に繰り出すつもりだったのかい?」
そうだったわ!
ヘンリー王子はヒロインの世話役になってそのままヒロインを送っていくと思っていたから、忘れていたわ。
「あの、申し訳ございません。ヘンリー王太子でん……ヘンリー様はお忙しいのに、お手を煩わすのはよくないと思いまして……」
マーガレットは気まずくなった。約束を忘れていたのはこっちなのだ。しどろもどろ、言い訳をしていたら、
ヘンリー王子がおもむろに口を開いた。
「そんなに学生街のカフェに行きたいのか?しかし街は危険だ。行くなら私が連れていってやるぞ」
「本当ですか?」
マーガレットは嬉しくなって、すぐ返事をしてしまった。
「ああ、約束しよう。マーガレットが行きたい所は、全部私が連れて行ってやる」
ここで我に返る。
ええ?何の罠かしら。ヘンリー王子からこんな事を言われるなんて。
だって、あのヒロインがいるのだもの。
そして、だんだんとヒロインに惹かれていって、私を
疎ましく感じ出すのだ。そして、最終的に断罪、処刑……
ぎゃーっ!やっぱり、近づかない様にしないと。
そんなことを思っていると、馬車が止まった。デバル家に着いたらしい。
ヘンリー王子が先に降りて、続いて降りようとしたマーガレットの手を取って降ろしてくれた。
優しい。紳士だ。やっぱり好き。はっ、駄目駄目、絆されちゃ。優しいのは今だけなんだから。
「それでは、明日の朝、迎えに来るよ。今度は約束を忘れないようにね?マギー」
「はい?」
ヘンリー王子はにっこり笑ってそう言うと、馬車に乗って行ってしまった。
本当にどうしたのヘンリー!