1 マーガレット
わたくしは、マーガレット・デバル。ヘンリー王子と婚約したばかり。ヘンリー王子はこのセルニナ王国の王太子、いずれはこの国を納めるお方だ。
婚約者候補の一人だったマーガレットは学園に入学となる歳にヘンリー王子の婚約者となった。
婚約者に選ばれた時は嬉しくて天にも昇る気持ちだった。
しかし、今は気持ちはどん底だ。
王宮図書室で彼女はずっと机にかじりつき、ある外国語の文章を翻訳していた。
座る後ろ姿は、鮮やかな赤い髪が豊かに背中に流れている。グレーの瞳はいつもはやさしげだが、今は怪訝に細められている。
「……ヘンリー王子は、王立学園の入学式で……ヒロイン?ケイティ……と出会い、様々なイベント?……困難の事かしら……を乗り越えて、結ばれる……」
「……その、最大の障害であるヘンリー王子の婚約者、である、……悪役令嬢?……と婚約破棄して、断罪する」
マーガレットは突然、前世の記憶を思い出した!
ではなく黒いノートを辞書を片手に翻訳していた。
「……断罪された悪役令嬢は、最悪、処刑…!!……
よくて、国外追放で……」
このノートは、王宮の庭に落ちていた。
ノートには名前がなく、中を開いて見てみると、外国語で書かれた文章が連なっていていた。持ち主を探す為に調べてみたらとんでもない事が書いてあったのである。
そのノートに書かれていた外国語とは、隣国パルム王国のその又二つ程向こうの辺境の国、ヤウタ国の言葉である。
その小さな国のヤウタ語の辞書を片手に訳しながら読み進めていた。
「一体誰が?何の為にこんな話を……」
ノートには、この世界は、乙女ゲームなるものの世界で、
ヒロインと呼ばれる平民の少女が特待生として、王立学園に入学するところから始まる。
そして、そのヒロインの名前はケイティといい、ヘンリー王子と惹かれ合い、様々な困難を乗り越えて、二人は結ばれるという話だ。
ヘンリー王子がヒロインと呼ばれる女の子に惹かれていく。では、婚約者のわたくしはどうなるの?
ヘンリー王子の婚約者は悪役令嬢と呼ばれ、二人の最大の障害であり、その悪役令嬢はヒロインを苛めまくって二人の邪魔をし、それ故、最後には卒業式で婚約破棄、断罪されて最悪処刑、よくて国外追放になるという、かなりショッキングな内容だった。
「婚約破棄に処刑って……何て惨い結末なの」
裏切られた上に、命を取られるかもしれないなんて。
これは、誰かが書いた妄想話?
にしては、書いてある未来が細かく具体的だ。それにわざわざ、ヤウタ語で書く必要がある?
まさか、預言書?
ヤウタ国は占いやおまじないなど、神秘的なものが、盛んと聞いている。もしかして、ヤウタ国から未来を教える為にマーガレットの元に届けられたものとか。
そんな突飛の考えが頭に浮かんだ。
それとも、王室や学園を巻き込んだ陰謀?
マーガレットは自分が婚約者に選ばれたのは、自分の身分、実家は公爵家で隣国にいる祖母は隣国の元王女だ。それが理由だと思っていた。その公爵家を陥れる、陰謀かも。
両親に相談しようと思ったが、図書室を少し離れている間に肝心のノートがなくなっていた。確かに鞄に入れておいたのに、慌てて探すも見つからない。図書室の受付の役人に聞いても、誰も入ってこなかったし、出ていかなかったと言うだけだ。
取り敢えず、家に帰り両親に相談してみた。
そしてら、馬鹿な事を言うなと一喝されただけだった。
そんな馬鹿馬鹿しい話、信じられないと。だいたい、婚約破棄なんて、公爵家、ひいては隣国に喧嘩を売る行為だ。国際問題にも発展してしまうようなことを、王家が起こす筈がない。だから、マーガレットもそんな話、絶対に余所でしてはならない。それは王家がそんな馬鹿な事をするのかと逆に思われて不敬になってしまうと。
姉には笑われた。
「そんなの、マーガレットをやっかむ誰かの悪巧みでしょ。しかも婚約者候補にもなれなかった、そんな姑息な方法しかできないような小者のね。それを読んでマーガレットが婚約者を辞めるようにしむけたのよ。そんな内容信じる方がおかしいわ」
そうよね。同じ婚約者候補だったら、マーガレットに決まる前に何かしらしてくる筈。
「ノートもその小者に回収されたのよ。証拠にならないように。そんなものに惑わされるなんて、敵の思うつぼじゃない。まさか、また隣国の祖母の所に逃げるんじゃないでしょうね。あなた一回逃げてるから、2回目はないわよ」
「うっ」
祖母の所に逃げようと思っていたのがばれていた。
マーガレットは婚約者候補の時に一度、王太子妃教育にも行かずに隣国の祖母の所に療養の名目で滞在していたことがある。その時の記憶は曖昧だけど、それからヘンリー王子の態度はよそよそしくなった。
そう言われると言い返せない。それにそんな気もしてきた。
「特待生のこともそうよ。これは今年度から始まった、王室と学園の共同の施策なんだから。そこに入学してきた、特待生が王子を誘惑するかもなんて言ったら、それこそ非難を浴びて、どうなるかわからないわよ」
貧しき者にも教育をということで、今年度から、授業料免除や学園でのあらゆる経費も援助の鳴り物入りの特待生制度なのだ。それにけちをつけたら、入学前に早くも断罪かも。
全く、姉の言う通りだ。
でも……
ノートには特待生の名前がケイティで、ヒロインの容姿やパン屋の娘ということが書いてあった。
王太子妃教育の先生も選考委員なので聞いてみた。
特待生は決まりましたかと。
そしたら、まだ決まってないというではないか。
なら何故ノートに書かれているのか。
やっぱり預言書かも。もし、このノートの通りの特待生が入学してきたら、それこそ未来が書いてあることになる。
このノートには乙女ゲームやイベントなど理解できない言葉が多数あった。その中でも気になる言葉が、ヤンデレと言う言葉だ。攻略対象者なるものはヤンデレで、特にメインヒーロー(この言葉も意味不明)のヘンリー王子はヤンデレ王子とも呼ばれ、よくわからないが、危険らしい。
だから、例え、公爵や隣国との関係が悪くなったとしても、自身の婚約者をばっさり断罪してしまうのかも知れない。
家族は当てにできない。自分ひとりで対抗しなくては。
断罪されたら、その時こそ隣国に逃げだしたらいいのよ。
家族もそうなったら、逃がしてくれるだろう。
しばらくして、特待生が決まったと聞いた。
それはノートに書かれてあったヒロインと同じ、名前はケイティで、パン屋の娘だった。
決まりだわ。あのノートは預言書だったのよ。
でも、それを誰にも言うつもりはない。だって、このケイティという女の子は何も知らないのだから。姉に特待生制度の事を言われて気が付いた。この女の子は特待生に選ばれて、夢を持って入学してくるのだから。
覚悟を決めた。
ヘンリー王子とヒロインの恋を邪魔せずに、円満な婚約解消を目指すわ。いいえ、邪魔どころか、応援するわ!
そして入学式の日が来た。貴族の子供は14歳から17歳迄の3年間、王立学園に通う。勉強と貴族間の交流を目的としている。平民の裕福な商人の子供達も貴族と繋がりを求めて入学してくる。そして特待生のヒロインも。
入学式では入学試験で最上位を取ったヘンリー王子が壇上で新入生代表の挨拶をしていた。
やっぱり、ヘンリー王子殿下は優秀なのね。それになんてカッコいいのかしら。
遠目に見るヘンリー王子の黒髪は、ここからでも濡れているように艶やかで美しい。話す姿は凛々しく、同年代の男子の中でも際立っている。
マーガレットはいつもの様に手を前に組んで目をキラキラさせてヘンリー王子を見ている。
はっ!駄目駄目。ヘンリー王太子殿下の事は避けなくてはならないのだから。
今度は下を向いて、膝の上で手をぎゅっと握る。
この円満な婚約解消の作戦は、上手くいくと思っていた。ヘンリー王子は自分に愛情はないのだ。でも、マーガレットは違う。ヘンリー王子に気持ちがある。婚約者候補に選ばれた、子供の時からずっと。その気持ちは思ったより厄介だった。彼女は気持ちをぎゅっと押し込めた。
入学式が終わり、生徒達は皆教室に向かった。
ヘンリー王子をちらりと見ると、壇上からマーガレットに小さく手を振っている。
え?わたくしに手を振っているの?気のせいかしら。
一応礼をして踵を返すと生徒達と一緒に講堂を出た。
マーガレットは歩きながらきょろきょろと、ある人物を探す。そして、歩いている生徒達の中にひときわ目立つ金髪の令嬢を見つけて、声をかけた。
「おはようございます。エレオノーラ様」
エレオノーラと呼ばれた令嬢はビクッとして振り向いた。
「おはようございます。マーガレット様。あら、殿下とご一緒ではないのですか?」
「ええ。ヘンリー王太子殿下の新しい出会いを邪魔してはいけないと思いまして」
「………」
エレオノーラ・ローレライ。輝いている見事な金髪と吸い込まれるような深い碧い瞳の持ち主のとても美しい令嬢だ。家は同じ公爵家で彼女も婚約者候補だった。
候補は5人いて、王宮で5人一緒に王太子妃教育を受け、その後の時間をヘンリー王子との交流の為にお茶会をしていた。
彼女は昔から少し大人びた令嬢だった。そして、とても優秀で美しい。周りの人間はヘンリー王子の婚約者には、十中八九、エレオノーラが選ばれると思っていた。マーガレットもそう思っていたが、驚いたことに自分が婚約者になったのである。
同じ公爵家だけど、わたくしは隣国の王家の繋がりがある。自分が婚約者に選ばれた理由だ。そして、預言書にはその身分を笠にヒロインをいじめると書いてあった。
やっぱりわたくしが悪役令嬢なのね。
でも、自分じゃない誰かが婚約者なら……
「それでは失礼致します」
「ちょ…ちょっとお待ちになって」
いつもは優しくマーガレットと話をしてくれるエレオノーラだが、何故か素っ気なく立ち去ろうとしたのでマーガレットは慌てて呼び止めた。
「はい?」
「不躾な事を言いますが、エレオノーラ様はヘンリー王太子殿下の婚約者の最有力候補でいらっしゃいましたよね。
王太子殿下の婚約者、未来の王妃様には優秀なエレオノーラ様こそ、ふさわしいと皆も言っていますわ。わたくしも自分が王太子妃教育の時から勉学もいまいちで王太子殿下にそぐわないと思うのです」
「はい?」
「今からでも、婚約者を代わってもらえないかと思いまして」
「何を急に仰られるのかと思えば……。マーガレット様をお選びになったのはヘンリー王太子殿下なのです。あなた様は優しい心遣いができ、明るいお人柄。いずれ国王となられ心労も絶えないと思われる王太子殿下を支えるのにはそういった癒されるお方が必要なのです。なのにそんな風にふさわしくないなどという人がいるなんて。そんな輩は不敬として、警告せねばなりませんわ」
「え?ふ、不敬?け、警告?」
彼女は交流のお茶会でいつも出遅れるマーガレットを助けてくれていた。彼女との会話は楽しく、二人で喋っていたら、いつの間にかヘンリー王子も混ざり、楽しく会話できるようになった。
勉強もエレオノーラが手助けしてくれて、なんとか皆に追い付けた。
マーガレットはエレオノーラには自分が選ばれて申し訳ないという気持ちがあった。
だからという訳ではないが、婚約者を代わってくれないかしら。優秀なエレオノーラ様ならきっと婚約破棄なんかされないわ。ヘンリー王子も美しいエレオノーラ様が隣にいたらヒロインには惹かれないと思うの。だって彼女はずっとヘンリー王子のお気に入りだったから。
だが、そんな邪な考えはエレオノーラからの力説とも言える返しにすぐに打ち消された。
「マーガレット様はヘンリー王太子殿下の婚約者に本当にふさわしい方ですわ。ご自分でそぐわないなどと言ってはいけません。ましてや、婚約者を代わって欲しいなどと、絶対に口に出すべきではありませんわ」
エレオノーラが力強く言い立てる。