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仕事:狩猟士  作者: まほさん
2/23

新米狩猟士レイの冒険はまだまだこれからだ! 2

 狩猟士(ハンター)が仕事を探すための狩猟士の酒場(ハンターズ・パブ)

 狩猟士などが持ち込んだ魔物の素材を買い取ったり、必要とする素材収集や狩猟士を派遣して魔物を退治して欲しいという依頼を仲介したりする場所だ。

 ならず者まがいの厄介者の最後の受け皿のような部分が強く、ともすれば野盗のたぐいと大差ないような人間性の者もいるため、問題を起こして責任追求を避けるために護衛などの依頼を受けることはほぼない。


 冒険者組合(ギルド)と混同されがちだが、冒険者との一番の違いはそこだろう。

 狩猟士は対魔物退治に特化している。

 そして冒険者ギルドは実力によって登録に制限を与えたり、階級によるギルド員の管理をしたり、階級ごとに仕事のノルマがあったり、組織に与する者に規則をきっちり守らせるよう目を光らせ、またギルド員自身を守る鋭意努力を図っている。

 加入は任意ではあるが、怪我で仕事ができなくなった場合の保険制度という、魔物が跋扈する典型的な中世ファンタジー世界観からはかけ離れた福利厚生も存在する

 狩猟士よりも実力が保証され、生存率が高く、なおかつ行儀がいい。ついでにギルドに所属するので社会的地位が一応ついてくる。

 なお、各冒険者組合が在る地域において第三級緊急事態発生時には、組合員の強制徴集があるのも特徴のひとつだろう。

 

 狩猟士の酒場は組合を名乗っていない。

 酒場同士の連携によりノウハウはある程度共有しているが、個人経営に近いものだ。そこに所属する狩猟士も言わずもがな。

 酒場があり、マスターに素材を見る目があり、買い取った素材を流通させる伝手があり、依頼を仲介できるだけの人手があれば、そこは狩猟士の酒場になる。

 登録による証などなく、そもそも登録なんてものもなく、狩猟士と名乗って仕事をこなせば皆狩猟士だ。

 

 街中にある困りごとを解決してやろうだとか、人を守る仕事をしようだとか。そんなものは一切なく、ただひたすら魔物を狩猟することを選んだ者が集う場所だ。 

 堅気の仕事に就くための伝手も実力もなく、最後の頼みの綱でもある冒険者としてすら登録できなかった落ちこぼれが悪党になる前に転がり落ちる最後の砦でもある。

 が、その程度の者はこの酒場に来た後は二度と姿を現すことはない。


 百年前に公国から独立し、商人たちによって国家運営される大陸中央部にある小さな国、商国。

 その大都市のひとつコハン。

 首都カセンより南下した位置にあり、大陸中央部特有の様々な東西の文化や種族が入り乱れる喧騒と活気に溢れた街だ。

 稼ぎ時の客を呼び込む飯屋の看板娘。路上に麻布を引いて占いで金を稼ぐエルフ。緑色の髪に飾りのような美しい花を咲かせた花人が楽しげな顔で服屋から出てていく。ドワーフは仲間と笑いながら酒場に向かう。一仕事終えた獣人が家族の待つ帰路につく。

 奴隷が主人の後ろにしずしずとついていきつつも、食欲を刺激する匂いに気もそぞろになりながら歩いている。

 街の外から帰還した冒険者もまた、今日の稼ぎを手に店にくりだす。

 独立の折に国家単位で都市構造を見直し、長い年月をかけて下水道が完備された人口五万人都市。商国はこれと同様規模の都市を他に二つあり、首都カセンとなると人口十万人を超す特大都市になる。

 所有する国土の割に人口密度が高いのは、独立の際に商国国教に定めた新教を通じて民に衛生という概念を持たせたことが要因だろう。

 街中に老廃物を捨て、ゴミを捨て、豚を放し飼いにしているような汚らしい都市の姿を、神の教えの名のもとに執念深く市民の意識ごと変えたのである。

 流行病の被害は周辺各国よりも減り、不潔が原因でかかる病にかかる患者が減った。

 そして貪欲に集めた知識と技能によって農耕法を模索し成功例を国全体に周知させ、領民を賄える食糧を爆発的に増やしたのだ。


 領民の食を支える周辺村落から毎日のように畜産物や野菜、果物が運び込まれ、冒険者たちの狩によって肉が運び込まれる。冒険者の活躍は市民を守り、また持ち込む素材は市民の生活をよくするものでもあったが、それ以上に市民にとっては日々の肉を得るための屠殺屋の一面が色濃かった。

 都市部においては1000人の常設兵を有し、緊急時において街の防衛員となる冒険者は、およそ600人ほどコハンの街に滞在している。

 狩猟士は書類登録がないため役所で正式な数を把握しきてれていないが、50人ほどが街にいるであろう。

 

 この街の狩猟士の酒場は、門をくぐって外壁沿いの左手側にずっと奥へと進んだ先にある。


 破落戸(ごろつき)めいた連中が、解体した素材の血のにおいや荒事や探索で付けた汚れた姿のまま街を歩かれるのを避けるため、街の中支部から外れた場所に作られていることが多く、この街の酒場もその例に漏れない。


 閑散時で、人気のない店内で退屈そうに勘定台(カウンター)に頬杖をついていたマスターの前に、風早はずた袋をどんと置いた。


「サヒール平原のトレントの討伐を終わらせてきた。これが討伐証明の魔核だ」


 コハンから西へ整えられた街道をあるくと、サヒール平原がある。かろうじて人々が生活圏内の一部としているとおぼしき歩きやすい草原、それをさらに先に進むと、人の手が入らず雑然とした道なき雑算とした草むらが広がっている。その一帯がサヒール平原だ。

 近頃トレントが平原を歩き回っており、それが街道に出て往来の者を襲っては困るとコハンの役所からの依頼が来た。

 冒険者組合にも同様の依頼を回しており、討伐数を達成するごとに報償がでる。

 それだけでなく、植物系モンスター討伐の依頼は多い。街道を使う商人や、運送屋。市壁の外に菜園を構える者など、みな困っているのだ。

 多数の者から依頼が届くほど、植物系のモンスターがここのところ多かった。 


「……依頼数の達成に数日がかりになると思いきや、初日で随分と採ってきたみたいじゃねえか」


 ずた袋の口を開けて中をざっと確認した髭面のマスターは、やや目を見開いた。


「それだけ異常事態だっていうことだろう。一度でこんなに相手をすることになるのは私たちにとっても予想外だったよ。

 こちらが予想していた数の倍はいた。トレントは普段五体程度で動き回っているという話だけれどね、植物系の魔物がやたらと多く活発化しているという情報を加味して、平原の一地域で会うのは最大で二十体程度かと予測していたんだが、それだけじゃすまなかった」


「トレントはそう強くないとはいえ、これだけの数を相手にするのは骨だったな。まあ、レベル5四人なら相手にもならんか」


「相手をしたのは主に旭日だけれどね」


「ふん、言われんでもわかるわ。これでそこのチビが全部倒したといったら驚くがな」


 マスターはトレントの魔核を手に取り、しげしげと見やる。

 木の瘤の形をしたトレントの魔核。植物のモンスターの心臓のようなものだが、植物ではなくほとんどが石でできている。研磨していない宝石の原石のように所々小さな輝きが見え、見た目にも美しい。


「トレント討伐二十体ごとに4000ゴールド。四十体だから8000ゴールドだな。魔核はハネもんから良品ひっくるめて全部で6800だ。トレントの木材は持ってこなかったのか?」


 量と大きさを考えると持って帰ってくるには手間がかかるが、木材なのでいつでもどこにでも需要がある。

 魔石焜炉をもっていない一般家庭は毎日の炊事に薪を使うし、コハンにある公衆浴場には大量の薪を使って湯を沸かさなければならない施設もある。鍛冶屋とて炉を燃やすのに薪を使う。建築にも必要不可欠だ。

 それにトレント木は錬金術師が植物紙を作るのにも、ちょうどいい材料になる。


「そちらは私たちが使う予定があったからね。全部運ぶのは無理だったし、こちらの必要量を確保するのでいっぱいだ。今回は素材として取引するのは見合わせるよ」


 風早は朗らかに答えた。


「置きっ放しとはもったいねえなあ。場所を教えろよ。こっちで人をやるからよお」

「おや。それはいいけれど、私たちが倒したのだから取り分は貰えるんだろう?」

「馬鹿言うなよな、カザハヤ。捨てたも同然のものになんで金を払わなきゃいけねえんだよ」


 彼がマスターと会話している間、手持ち無沙汰になった雷は依頼が書かれている掲示板を眺めていた。

 掲示板といっても、メモのような依頼書やチラシなどが貼られてるわけではない。

 この世界では紙はそこまで貴重ではないにしても、気軽に使えるほど普及していない。

 冒険者組合のように大きな組織であれば、紙の依頼書が貼られているが狩猟士の酒場ではとんと見かけない。


 黒板に依頼が書かれている。

 三十人ほどが座れる酒屋のスペースの脇、追いやられたような目立たぬ場所に、木枠が古びて所々ささくれだっている黒板がある。白墨で書かれた文字が雑に消された痕に、もう一度上から書かれるのを繰り返しているからか、板が白っぽくすすけて全体に汚く見える。


『岩蜥蜴討伐、強壮剤の材料の心臓と肝臓求む【薬師組合】』

『蛇腹牛の肉を仕入れてくれ【鴨と鉄鍋亭】』

『水猪の皮、状態によって報酬に差額あり【衣装屋・マーリン】』

『ドラゴニクス草の一斉排除【コハン役場】』

『リリク丘を徘徊する血涙花獣の討伐を頼む【馬車組合】【運送組合】共同依頼』

『コハンに安全に行き来するために街道に出る魔物を倒してくれ【ミカヅチ村】』

『孫のお祝いに宝告鳥を贈りたい。捕獲頼む【ジュエット商会】』

薔薇の乙女(ローズ・レディ)を畑で見かける。早く倒してくれ【ブラセル】』


「人里離れた場所ならともかく、市壁のそばにローズレディが出るのは恐ろしいでしょうね」


 同じく掲示板をしげしげと眺めていた椎名が依頼のひとつに目を止めた。


「ローズ・レディ……コハンの近くにいましたっけ?」


 雷は頭の中にある薔薇の乙女に関する記憶を引っ張り出す。

 薔薇の乙女はいばらの蔦と花を少女のような形に整えた植物系の魔物だ。

 四肢と女の胴を模し、二足歩行のように移動し、腕にあたる箇所が鋭いいばらの鞭に変形し、それを思い切りぶつけてくる。

 トレント一体と戦う場合の適正レベルは3(それも複数人のパーティーを組んだ状態で)だが、薔薇の乙女を相手にする場合レベル5はあったほうがいい。

 コハンの周辺地域のどこかにいた記憶があるが、街を出てすぐにある畑でなんて見た記憶はない。 


「記憶に一切ありませんねえ。でも、データの中の世界にある通りの杓子定規にはならないということは、この半年間の経験で実証ずみですから。そういうものなんでしょう」


「まあ、そうですね」


 万事がプログラムされた通りにしか動かず、何も起きず雷たちが話しかけなければ黙っているだけで、街の名前しか言わないような者がいるとなったら、空恐ろしいだけだ。


 ひとがいないせいか、何も知らない者が聞けば理解し難い単語をぽんぽん口に出す椎名。

 それに対して雷は「いいのだろうか」と内心おっかなびっくりだが、例えこの世界の住人に一から十まで話を聞かれたところで、頭が可笑しいやつだと訝られるだけだから問題ないのかもしれない。


 雷は見覚えのあるモンスターの名前を視線でたどる。

 何が弱点で、どんな状態異常が効いたっけ、攻略本の情報でも見たくなるな、なんで手元にないんだろう、ネットも見れないんだろう。不意に、そんな不満が湧いて出た。即座に無駄な感情であることに気付き、雷は益体もない思考に軽く首を振る。今、ここにいる自分が夢の中にでもいるような頭がぼやけた感覚だった。そうであったならどんなに良かっただろう。何度、思ったか知れない。

 我知らず直面している現状から逃避する考えを、ふとした折に、抱く。

 理性が目減りしている独特の浮遊感は、雷が心的負担を相当に抱えているときに自身の内側から訪れる。訪れて、蝕んでいく。経験則で分かっていた。

 学校でいじめられて登校するのがとても嫌になったとき、周囲の大人に邪魔者扱いされ阻害されたとき、両親を失ったとき……

 

 吐き気を催すほどに、ここはひっくり返りようがない現実だ。なのに、雷の心は自身の平穏と安定のために降って湧いたような曖昧な感覚に任せて、正常な判断能力を失いそうになる。これはいけない。駄目だ。雷は自分に言い聞かせる。

 何を見ようとしたって、自分が見えているものしか見えない。

 何を欲しがったって、今あるものしか自分の手の中にはない。

 何を望もうと、見えないものを勝手に見て聞こえたつもりになっていては、本当に望むものは手に入らない。

 都合のいい世界を頭の中で作りあげて逃げていては、本当に大事なものを、雷にかろうじて残ったものを失ってしまう。

 それは、絶対に嫌だ。


 今、雷自身をとりまく環境。世界、人間、空気、文字、言葉、文化。それら全てが命と生々しさを伴った現実だ。

 決して夢の中ではない。現実なのだ、ここで生きている。

 ここで、生きていくしかない。

 思い詰めるほどに、雷は己に言い聞かせる。

 同時に、振り下ろすさきのない怒りにも似た疑問が浮かび上がる。

 

 どうしてこうなったんだろう、何度も反芻し、そのたび答えが出なかった疑問。



 『精霊の贈り物』という、ARPGゲームがあった。



 友達に「一緒に協力プレイしてくれ! あと、なにか生産系職を一個とってくれ。作ったアイテム交換しよう!」と誘われ、アクションゲームがあまり得意でないにも関わらず、雷はそれに手をだした。

 ゲームの舞台となるのは中世ファンタジーな世界観の大陸、ディオサ・イピロス。

 種族、性別、体格、容姿、職業、技能、特技……などなど。

 そういったものを細かく設定するキャラメイクを経てから、物語がはじまる。


 雷は苦手なアクション部分をできるだけ簡単にするために、当たり判定が小さくなるという理由で、体格を設定できる数値の最小値にした。その大きさ、わかりやすくいうと1.2メートル。

 比較的初期から入手できる強い装備の中に、性別が女性限定のものがあったため、性別を女性を選択した。


 シナリオや設定面で癖があるゲームだった。

 プレイ始めのうちは、序盤で投げかけた。オリジナリティを出したかったのかもしれないが、RPGの定石通りのシステムにすればいいものを、取っ付きのなさに雷は何度悪態を吐いたことか。

 ダークな世界観を表現するためにR18指定になっていて、胸糞の悪い描写を見せつけられる面も多々あった。

 ゲーム中で主人公の特殊性や特別性を出すために、システム面で不便にしてあるのも腹が立つ。

 6段階ある魔法のうち、ストーリーの仲間となるNPCが使えるのはほとんど3段階までだとかアイテム制作においてもNPCは最高ランクのものを作れないだとか、制約が多かった。

 PC以外の存在が高いランクのアイテムを作れないという設定から、総じて店売りの物はストーリーが進めば進むほど強くなる敵の難易度に合わなくなっていく。

 友人が協力プレイを頼んだのはこのためだった。武器職人や、アイテム職人などそれぞれの生産系のジョブレベルを上げて作った物をプレイヤー間で交換し、やっと高レベルの装備やアイテムをストーリーモードの仲間に行き渡らせられる。

 一度、人類が絶滅寸前まで追い込まれ、過去にあった優れた文明が崩壊したことにより、強大な魔法や貴重な道具の制作方法が失伝した世界という設定のためらしい

 主人公はそんな世界に唐突に現れた特異な存在で、魔法系ジョブを取得してレベルを上げれば最高位魔法を難なく扱え、生産系ジョブを取得すれば伝説級の品々を作りあげる。

 プレイヤーの操るキャラクターに対する安易な持ち上げが鼻について、苛立ちが湧き上がることもあった。

 不満点は他にもある。だが、それらにさえ目を瞑れば、そこそこ面白いゲームだった。

 そういうゲームだった。


 ゲームだった、のだが。


 雷たちは、不運な事故に巻き込まれた死後、どういうわけかゲームで設定した容姿になり、このディオサ・イピロスという世界で生まれ変わっていた。


 雷はてのひらを見る。

 本来であれば雷は二十三歳のれっきとした男性であり、こんな小さくやわい子供の手ではなかった。

 この体になって半年、体を動かすこと自体には慣れたが、どうしてこんな体なのだろうと我に返る瞬間はいまだに何度も経験する。

 彼は万能であり奇跡を起こす神という存在を信じてはいなかったけれど、姿形が変わり、自身を取り巻く世界すら変貌したこの事実に、神はいるのかもしれないと苦々しく認めるようになった。そして実在する神は、とびっきりに悪辣で趣味が悪いに違いないと雷は断言できる。


 あのまま死んで終わってしまってよかったのかと問われれば否と答えるが、ここに来たくなかったかと問われれば、是と返す。

 サブカルチャーによく触れていた雷は、異世界転移や転生ものの物語を娯楽として楽しみはしていた。

 しかし、それを実際に体験したいとは思っていなかった。

 家族がいなくても、幸せな過去がなくても、働くのが大変で生きるのが辛くても。

 雷は、叶うならば雷礼央として日本で生きていたかった。


 日本だって、犯罪に巻き込まれたり、事故で死んだりする。突然のできごとに寿命なんて関係なく突然命を奪われることもあるだろう。

 実際、雷は社員旅行で乗っていたバスが事故を起こしたことで、百舌の速贄のような状態になって二十三歳という若さで死んだ。

 即死できず、少しの間だけ意識があった。

 ショック状態のホルモンの過剰分泌のおかげか痛みはなかったが、どうしてこんなことにという絶望は深く覚えている。


 日本だって生き難いところはあった。

 それでも、雷が二度目の生を受けたこの世界よりもよっぽど生きやすく、快適だ。


 人間関係によるいじめや、施設育ちの雷への目に見えた差別もあったが、この世界ほど死は近くない。魔物なんていない。街中に武器をもった奴らがうろうろしたりなんかしない。

 弱者として蹴落とされた先が、いきなり奴隷生活なんていう物騒な事態は発生しない。

 国民にそった法律があり、秩序があり、利便さがあって、目移りするほど娯楽があって、数少ないが友達だっていて、家族のように育った親友だっていた。

 

 日本で手に入れてきたものは、全て自分の努力で手に入れた大切なものだった。

 友人も、自分の気に入ったものを集めたワンルームのアパートも、居心地の良さを感じられるように人間関係が良くなるように励んだ職場も、長年の親友も。

 ありふれたものでも、突然なくしてはいそうですかと諦め切れるものではない。

 

 雷は運良くこの世界で居場所を作り、安定した生活の基盤を整えることができているが、それでも雷は日本に帰りたかった。これは自分の物ではないと、暴れたくなる衝動に気が狂いそうになる。


 こんな異世界転生だか異世界転移だかの奇跡を起こすくらいなら、事故で奇跡的な生還を果たして生きていたかった!


 親からもらった体。

 まさしくその通りだ、雷の両親が彼に残してくれたのは、雷の命そのものと両親の遺伝子を引いた体だけだった。

 雷はついにそれさえも失ってしまった。その時の絶望は言葉にし難い。

 幼くして父と母を亡くした雷は、ふたりとの思い出なんてほとんど残っていない。

 二人が雷に与えてくれた愛情の欠けらだけは、明確に瞼裏に思い描けないまでも少しだけ残っている。

 頭では覚えていなくても、手で掴めそうで掴めないぼやけたものであったが、深く自分自身の中へと意識を沈みこませると胸を突く匂いの記憶がある。

 きっと、悲しいことなんて知らない、瑕なんてひとつもなかった頃の幸せだったころの匂いの記憶だ。泣きたくなるくらいの郷愁が、雷の鼻腔をかすめていき、そしてすぐに途切れてしまう、わずかな思い出。

 雷礼央という男の肉体が持っていた残骸のようなわずかな幸せは、今の雷にはない。

 嗅覚という感覚器がかろうじて残していた微細な風のような匂いは、肉体の変質によって完全に雷の中から失われた。


 この幼い女の子の体を、自分のものと認めるのは今も酷く嫌悪感が湧く時がある。衝動的で、一時のものだ。諦観のほうが大きく、すぐに去っていく感情の津波。

 その原因は、体が変わってしまっただけでなく、自分の内側にあった、自分だけしか触れられなかった、雷礼央という存在が生きてさえいれば決して失われることがないと信じていたものが、硝子細工のようにあっけなくうち崩れてしまったからだろう。


 今も夢物語の中にいるようなものだが、日本に帰ることはもっと夢物語なのだろう。

 こういった転移だのを題材にした創作物の場合、なんらかの大目標を達成すると元いた場所に帰れるのだろうが、雷礼央は、確実に死んでいる。仮に魂などというものだけが帰ったとしても、その後の雷にできるのは成仏くらいだ。

 そうなるくらいだったら、不承不承、ディオサ・イピロスという世界や、女になってしまったこと、中途半端な奇跡、不便な生活、恐ろしい魔物たち、いろんな不満に無様に文句を垂れながら、生きていくほうがましだ。

 

 雷にできるのは、日本という場所に寂寥を抱き、同じように転移した仲間と生きること。

 三人は同じ会社に所属する同僚や上司で、雷同様、事故で命を落としてここにきた。

 彼らとは会社だけでの付き合いではなく、私的な交流で飲み会をしたり、『精霊の贈り物』の協力プレイをすることもあった。


 雷が、真に雷礼央として得た友人たちだった。

 この世界での新たなる出会いを、少しだけ生まれた縁を、雷は自分のものだと自信を持って言い切れない。

 今の自分を認められないから、そこから経験したものを己のものだと飲み込みきれない。


 背丈も性別も変わり、二十三年間の肉体の感覚も、とうに子供の物に変わってしまった。変わらざるを得なかった。雷に残っているのは、雷礼央としての二十三年の時間が築いた“内面”だ。二十三年の間に形成された性格。あまり賢くないなりに蓄えた知識。人格と知識に基づく今この瞬間鬱々と巡っている思考回路。

 

 そして、友だち。 


 姿形は変わってしまったが、そのときの友人関係は変わっていない。常識では考えられない出来事に出くわした仲、ということで信頼関係は以前よりも増したと思う。


 プレイしていたゲームが下地になっているとはいえ見知らぬ場所、そのうえ雷は子供の姿。所属部署は違うとはいえ上司であった風早、温和な性格で話しやすい椎名、高卒で入社して以来の仲である旭日、彼らは三人は異邦の地において雷にとってとても頼りになる年上の友人であった。


 頼りになる友人であったが、思惑というか思想というか、この世界で生活するにあたっての目的の違いに、雷は呆れつつも戸惑うこともある。


 雷よりも年上なのだからもっと保守的に危機管理をするのかと思いきや、向こう見ずな目的を抱きがちだ。

 椎名は四十九歳、風早は四十八歳、旭日は三十五歳。

 日本とはまったく違う価値観に放り出され、悲嘆にくれるてやさぐれるかと思えば、意外なほどに順応が早かった。雷のほうが非現実的な現実を受け入れることに時間がかかった。


 おおまかにまとめてしまうと「残った家族のことは気がかりだが、こうなってしまったからには、日本では出来なかったことを体験しよう!」というノリだ。正直その盛り上がりには付いていけない。

 この世界に生きることを一種のアミューズメントか遊びのように捉えている節がある。

 雷にはそんな真似到底不可能だった。

 

 生々しい呼吸の音、熱い血潮、むせるような血や汗の匂い。

 雷礼央として死ぬ瞬間すら感じなかった激しい痛み、焼け付くような動悸。

 この世界に来て初めて体験した恐ろしい記憶を、今でも夢に見る。

 バスの窓から放り出されて太い枝に突き刺さった記憶なんかよりも、ずっと生々しく雷の脆い部分に刻まれている。


 雷は、戦うことが今でも恐ろしい。

 しかし、年上の友人たちはこの世界で魔物と戦って得られる報酬で生計を立てる術を選んでしまった。

 雷が一人違う道を行くと決断すれば、子供の姿がゆえに苦労することはあっても、戦いに携わることはなかっただろう。選んだ種族が年長の他者から保護を得やすいから、手段を選ばなければ平穏の道は比較的簡単に得られる。


 けれども、雷はその手段を取らない。戦うことよりも自分の知らない場所で彼らが傷つくことのほうが、ずっと嫌だった。どこかで死んでしまうかもしれない。そう考えると、居ても立っても居られない。

 戦う恐ろしさよりも、友達を失う恐怖のほうが強かった。理屈ではないのだ。

 二つの恐怖を秤にかけ、雷はここにいる。

 仲間と共に、いるのだ。


 雷は心中で時折戦いに閉口し、口汚く不平を漏らすが、もっと本質的な源泉のような感情においてはその選択を後悔しない。

 彼らは、自分自身すら失ってしまった雷にかろうじて残った、大切な人たちなのだから。


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