恐怖の味
あの場所からどれだけ歩いただろうか、どれだけ時間が経過しただろうか。
辺りを見渡しても、振り返っても出てきた洞窟やあの廃墟は見えず、そればかりか、かなりの時間が経過していたことに気づいた。
暖かく、穏やかな薄暮だったはずが、少しの肌寒さ、そして物寂しさが感じられる宵闇に変わり、月明かりが眩しく感じられるほど照らしてくる。
だいぶ離れたのか土煙を含んだ埃風はなく空気はだいぶ綺麗に感じられる。
遠くから水が流れる音と虫たちの鳴き声が寂寥感を強め徐に頭を上げる。
無意識に手が拳を作り、無意識に口が開き、無意識に少し頬が上がり、無意識に瞳を左右にゆっくりと動かし、
ーー無意識にただ、心を奪われていた。
少し手を伸ばせば届いてしまいそうな星々、まるで光が自身から出ていると思わされる月、それら全てに陶酔していた。
この美しさの星空を久しく見てないせいか抜けた力がなかなか戻ってこない。
目の前の景色を独り占めしたくなるなんて、自分とは無縁と思い込んでいた、だがまさかそう思うようになるなんて。自分の気持ちの変化具合に呆れつつ、
「だけど僕が見ている間は、僕のもの。ね...」
それにしても、いつまで見てても綺麗な景色で、確か星空は辺りの明るさが少なければ少ないほど見えやすい、綺麗だと言われているがそんなに周りは暗くなかった。
冷静に周りを見たらそれもそのはずだ。辺りの光源は全てあの月光で、それも自然に、月明かりがこの世界を照らしていた、ただそれだけだった。
アレほど大きく見える月に何故気付かなかったのか、そんな些細なことすら今はどうでも良くなっている。
そんなことを考えている間に体も思うように動くようになり、疲れからか夜空を見上げたまま地べたに腰をつき座っていた。
ため息をつきつつ星空を改めて見渡し再確認する、そしてもう一度ため息をつきつつ、
「やっぱ、知ってる星座が何一つないな」
最初の遺跡もそこから出た場所も、目の前の景色も、やはり何一つ、記憶にある場所にはないものだった。
「ーーなるようになるか」
少しの間、頭を働かせて出た答えがこれだった。
不思議と焦りや不安感はなく、疲れからなのか行動にもそう言った考えにも結びつかない。
仮にもし、ここから出られたとして、元の場所、元の環境に戻れるのならそれを望むのだろうか。
この自問自答は、悩まず心の中で即答された。
そんな選択肢があったとしてもここから出ないだろう、だから無理矢理に連れてかれる事だけを警戒しなくては、そんな愛国心のカケラもない答えが自分の中で解っただけの時間だった。
「さてと...そろそろ寒くなってきたな」
ここに来てから、あの空に魅了されてから数分たった頃だった、夜もあってか流石に寒さを耐えられなくなり、安全に寝られる場所か最悪、朝を迎えられる場所を探そうと思った時だった、
後ろから感じられる嫌悪に今まで感じたことのない寒気が体を襲うのが分かる。
その正体を見ようとゆっくりと顔を後ろに向ける。
「ーーッ!?」
ーー瞬間、黒い影が自分を回り込むように反対の草むらに走っていった。
速い、何か認識出来なかった。それと同時に数多の後悔が襲いかかる。
さっきの民家で知っていたはずなのに油断していた、ここは危ないと理解していたのに、少し歩いただけで安全だと誤解していた。
「いや、今そんな事考えてる場合じゃない...」
下唇を強く噛み、思考を安定させ、震えた体をいつでも動かせるように準備する。
熊や猪の様な獣ならばすぐに襲いかかってくる、それに猫や狸のような小動物ならすぐに逃げるはず、あれは逃げたんじゃない、回り込んだんだ。
何より回り込まれた、その事実がより濃い恐怖心を生む。今もなお確実に目の前の草むらの中にいてこちらを警戒し続けている。少なからず知性があるものと考えて動くべきだ。
「に、逃げるにしてもどっちだ」
恐怖心からか呼吸が荒くなり何とか頭を使い考える。
目の前の木々は確実に危険、来た道を戻るとなれば民家を壊した何かに遭遇するかもしれない、奴がいた後ろに行くのもあまりいい考えとは思えない。
唇の痛みではどうにもできないほど体が震えているのが分かる。ドラマや映画に色々口ざしをし、自分なら最善を選べると驕り高ぶっていた、それなのに、いざ死を目の前にするとどの選択が正しいか逡巡し行動に移せなくなる。遺憾にたえない、
「けど、そんなこと考えてる時間もないな」
アイツが群れをなしてないとも限らない、最悪を考えこれ以上は時間をかけれない。
左右や黒い影が最初に出てきた後ろにも他の気配はない、正面の木々にも恐らく一体のみ、それなら、
「危険だが奴が来た後方に走る!」
あの生き物が何かわからない、スピードも速い、とにかく速い、それでもアイツはすぐに攻撃しては来なかった。
ならば戦う意思を見せず、危害は与えないと思わせるしかない。そう判断しひたすらに走る。熊のような猛獣と遭遇したらまずは死んだフリをしろ、そう教わったことがあるが本当にそれが最適なのか、現実になった今、その教えを信じられない自分がいる。
ーーけれども選択は正しかったのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
影はこちらを追ってきてはいなかった。
「はぁ...はぁ...」
あれからそれなりに走り足も殆ど動かず寒さを忘れ、気付けば汗すら流れていた。
「はぁ...また...また知らない場所...」
今までの呼吸の仕方を忘れ荒く不規則な息切れとなって身体を動かす。足らなくなった酸素を体に供給する機能なんだろう、これまで運動してこなかったわけじゃない、けれども記憶にある中で過去一番に酷い息切れだ。
膝に手をつけ呼吸を整えようとしていたが、いつの間にか手の平は地面に付き、自身に流れる異常な量の汗を確認し、今日初めて疲れを覚えた。
ついさっきまで寒さを感じていた風も今や心地よく、空ばかり見ていた視線は今や地面を見続け、恐怖心と疲労により足は動かず、考えることも、やらなければならないことも、身体がそれをさせてくれない。
時間が経過し、忘れていた呼吸の仕方を思い出し、それに伴い身体は安定し失われた機能を取り戻し始める。
安堵を実感し、逃げ切れた、と言う事実が自信を生み出す。
「やっと...やっと」
漸く落ち着けると、漸く安全になると、漸くこれは夢ではないんだと、漸く明日を迎えられると、漸く上手くいったと。
全身の力は抜け、夜空を見上げつつ、危機を脱した自身と安堵から表情は笑みに変わり、
「やっと...」
ーー「みーつけたっ」
いつしか世界に風や自然音は無く、心臓だけが鼓動を奏で、慢心に溺れた少年を月明かりが嗤うように照らしていた。