春の足音
「逃げないと死んじゃうよ!」5歳の美春さまは、ただの鬼ごっこで随分と物騒な台詞と吐いてくる。
小学生の男の子と、年下の女の子とその子の家族との疑似非家族っぽい短編です。
以前別サイトに投稿していたお話になります。
美春さまに言わせると俺はシンデレラなのだそうだ。
なんだそりゃ、俺は男だぞ。けれど五歳の女の子を前に面と向かってそんなことを言いはしない。
美春さまの最近の楽しみは、寝る前にじいやに一冊絵本を読んでもらうことだと知っていた。その影響でそんなことを言い出したのかもしれない。
「俺はシンデレラなんかじゃありませんよ」
「どうして」
「12時になっても魔法は解けませんでしたから」
確かに意地悪な家族から助け出されて、こうして東郷の家に置いてもらっていることはよく出来たおとぎ話のようではあるけども。
小さな女の子は「みはるはシンデレラだと思うけどなー」と呟きながら幼稚園の制服のスカートを翻して部屋を出ていった。一人残された俺は深く息をついてソファーから立ち上がり、窓辺から庭を見下ろす。
眼下には迷路が欲しいとねだった美春さまのために用意されたガーデン迷路が広がっている。
子どもがねだったものだから、超巨大というわけにはいかなかったがそこらへんの公園にあるものよりは大きい。この家の人たちはこういうところに金をかける余裕がある。
以前、好奇心を抑えきれずに入ってみると、俺の目線よりも高い植物のせいで脱出するのにずいぶんと時間がかかった。いつ外に出られるのやらとうんざりはしたけれど、代わりに一人になりたければそこに入ってしまえばいいことを学べた。
あそこには手入れをする人間以外はほとんど人が寄り付かない。
美春さまの両親……つまり俺をここに置いてくれている旦那さまと奥さまは滅多にそんな所には行かないし、美春さまの兄と姉も迷路に興味を示す年ではなかったので、俺は嫌なことを思い出して泣きたくなる時、昼夜問わずにその迷路に飛び込む。
まさか本当にそこで泣くわけではなかったけど、大きな壁が俺の周りを囲ってくれているおかげで一人でいると落ち着くことができた。
ところが最近、その場所に美春さまがしょっちゅうやってくるようになる。美春さまのために作られた迷路なのだから、やってくるのは当然といえば当然なのだが、それにしてもタイミングが絶妙だった。
意地悪だった自分の家族のことを思い出して、虚しい気分になった時。あともうちょっとで涙が出そうだなって気分になった時。そういう時に必ず美春さまは現れる。そしてこう言うのだ。
「しきくん、みはるから逃げて」
初めてその言葉を受けた時、俺は口を「え」の形にしたまま動けずにいた。
そうして馬鹿みたいに突っ立ていると、だだだだだっと物凄い勢いで美春さまが突進してくるので、俺は勢いに気圧されて一歩を踏み出してしまう。美春さまは幼稚園児なので、足はそんなに速くない。
ひょいひょいと適当に距離を取って美春さまを待っていると、その余裕に腹が立ったのか、単純に走りつかれたのか、頬を上気させながら美春さまはとんでもない言葉を浴びせてきた。
「逃げないとしんじゃうよ!」
ずいぶん物騒だ。俺は記憶の糸を手繰り寄せて、必死に迷路の道順を思い起こす。いくら俺の方が足が速いとはいえ、美春さまは迷路の主だった。
うっかりしている行き止まりにぶち当たってもたついている間に、迷うということを知らない美春さまに追いつかれてしまう。「しんじゃうからね!」という声は背中にかけ続けられている。
「おいつかれたら、みはるしんじゃうからね!」
美春さまが死ぬ設定なのかよ。
てっきり死ぬとは俺だと思っていた。捕まれば適当に息を引き取る真似でもすればいいと考えていたのにそうはいかなくなってきた。美春さまは変なところでませたところがあるから、自分で決めたルールに従って本気で危ないことをしようとする可能性もゼロではない。俺は幼稚園児相手に本気で逃げる。
結局、美春さまに追いつかれても美春さまは死ぬことはなかった。植物に枝に服のボタンが引っかかって身動きがとれなくなった時、追い付いてきた美春さまはぴんぴんした顔で「はやくにげてー」と俺の背中を押すだけだった。当然と言えば当然のことなのに、俺は馬鹿な真似をしなかった美春さまに心底安心した。
とにかく美春さまが俺を追いかけて、追いつかれると美春さまが死ぬというのがこの鬼ごっこのルールらしいのだが、その設定は忠実には守られていない。それでいいと思う。
けれどどうしてそんなゲームが始まったのか不思議だった。思い切って冬休みに帰省していた美春さまの兄である冬悟さんに心当たりを尋ねてみる。大学生の冬悟さんは社会勉強という名目でしているバイトで稼いだお金をお年玉として俺に渡しながら首を傾げた。
「わかんないけど、子どもってわけわかんないことするもんじゃん?」
その言葉で、俺は自分が小学一年生の頃、道路にひかれた白線から落ちたら死亡という設定の遊びをしていたこと思い出した。美春さまの追いつかれると死ぬゲームもそんな感じのものなのだろうか。
「そんなもんすぐ飽きるわよ。そんなことよりもお兄ちゃん、そいつにまでお年玉あげるの?」
そいつとは俺のことだ。不満げな声をあげたのは美春さまの姉の色葉さまで、全寮制の学校に通う彼女は冬悟さま同様、冬休みのため実家に帰省していた。
色葉さまは俺が東郷の家で暮らすことに不満と疑問を抱いているみたいだった。「あんたお父様の不倫相手の子なの?」「あんたどうやってお父様とお母様に取り入ったの?」と皆が思っていることを遠慮なく尋ねてくる。
俺もどうして東郷の家にいることになったのかよくわからないので、色葉さまの意見を聞いてはなるほどな、そうなのかもしれないと思う。
「俺はこいつのこと気に入っているし、お年玉くらいあげるよ」
冬悟さんが俺の肩を持つような発言をするので色葉さまはふんと鼻をならしてスマホを弄りはじめる。
俺はなんとなく、色葉さまが、俺をよく思わない気持ちがわかる気がする。自分の家に知らない子どもがやってきて、自分以外の家族はそれを平然と受け入れているという状況に違和感を覚えない方が珍しいだろう。俺もそういう気持ちには心当たりがあった。
「気にすんなよ」
冬悟さまが俺を気遣う。
「でも都合のいい話だとは思う」
シンデレラよりもいい生活だ。とても分相応な生活を送っているとは思えない。
反射的に敬語を忘れて馴れ馴れしい口調で返してしまったことにひやりとしたが、冬悟さまは気にした様子はなかった。「世の中には一つくらい都合のいい話もあるんじゃね」と軽い調子で返されてしまって、俺は幸福を噛みしめる。
「すごいですね」
東郷美春。
ぐちゃぐちゃな文字で書かれていたけど、それは確かに漢字で書かれていた。素直に感嘆の声を漏らすと美春さまは得意気に胸を反らした。
「幼稚園でも漢字書ける子はちょっとしかいないんだよ!」
自分が幼稚園に通っていたであろう頃を思い出して、思わず自嘲する。家の中にこもりっぱなしで漢字どころかひらがなを読むことすら危うかった。
「書けるって言っても自分の名前だけでしょ」
色葉さまは手厳しい。二人掛けのソファーに一人で足をいっぱいに伸ばして座り、気の強さを表すような吊り上がり気味の目をこちらに向けてくる。
「いろはちゃんはどんな字を書くの」
美春さまは色葉さまの態度も物ともせずに無邪気に尋ねた。小さい子相手に意地悪を言って気まずく思っていたのか、上体を起こして「色葉」とひどく達筆な字で書くとそのまま寝転んでしまう。
今度は「お兄ちゃんはどんな字を書くのかなー」と俺を見つめてくるので、合っている自信はなかったけどへたくそな字で「冬悟」と書いてあげる。俺は勉強が苦手だから、自分の書いた字があっているのか不安になる。
自分の自信のなさが表れたかのように筆圧の薄い字だったけれど、美春さまの興味が名前の由来について移ったのですぐに気にならなくなる。
「みはるたちはみんな季節の名前なんだよ」
美春、色葉、冬悟という文字を見て「本当ですね」と頷く。美春さまと冬悟さんの名前には見てわかるように季節の名前が入っていたし、色葉さまは秋生まれだときいている。テレビで見た一面赤や黄色に染まった山を思い浮かべて、ああいう景色の中で生まれたのだろうかと考える。
旦那さまと奥さまは夏の名前だった。頭の中で二人の漢字を思い出していると美春さまがローテーブルに置かれたままになっていた鉛筆を俺に渡してきた。
「しきくんの名前はどうやって書くの」
俺の名前は簡単だった。片仮名でシキ。美春さまでも簡単に覚えられるだろう。
描かれた簡素な文字に美春さまは不満そうだった。
「みはる、しきくんの漢字くらい覚えられるもん」
どうやら俺が美春さまを子ども扱いしていると思ったようだ。
前の小学校に通っていた時、クラスメイトに名前が漢字じゃなくて驚かれたことがあった。どうやら名前というものは漢字で書くものだと思い込んでいたらしくて、興味津々でどういう意味がある名前なのだと問いただされたことがある。
「美春さま、名前は絶対漢字で書くって決まっているわけじゃないんですよ。俺の名前は片仮名で書くんです」
「えーっ、じゃあシキくんの漢字考えようよ」
早くとせかされて俺はまいってしまう。鉛筆を握った俺を見つめる美春さまの目は爛々と輝いていて、これを断ると泣くか怒るかして非常にやっかいなことを俺は知っていた。
とりあえず適当にでも漢字を考えてやるのがいいのだろうけど、頭のできがよくない俺は咄嗟に気の利いた文字を思いつけない。必死で頭を悩ませている横で「シキくんの名前はどんな意味があるの?」と美春さまが付け加えるものだから更に思考は停滞する。
シキって漢字で書いたらこうじゃね? とクラスメイトが笑いながら黒板に書いたのは死期という字だったことがある。なんとも不穏な字面に呆然として何も言い返せずにいる間に、黒板に文字を書いたクラスメイトはどこかにいってしまった。その日のうちに俺は父親に名前の意味を尋ねてみるけど、知らないと冷たく突き放された。
立派な名前がつけられている東郷家の人々の前でそんな由来を語ることがひどく恥ずかしくて黙り込んでしまっていると「にげろーーー!」と美春さまが急に立ち上がった。
「え」
また追いつかれたら死ぬゲームが始まったのだ。唐突なタイミングではあったがそんなのはいつものことだ。反射的に立ち上がり、俺は適当なスピードで部屋を壁沿いにぐるぐると走って回る。時折、色葉さまの寝転ぶソファーの周りを走ると「うっさいのよ」と眉を顰められた。
「何やってんの、お前ら……って、これが噂の追いかけっこか」
騒がしい音につられて冬悟さんが部屋に顔を出した。そのままローテーブルに近付き、置きっぱなしになっている鉛筆と紙を見て色葉さまに「これ何?」と尋ねている。
俺の進路を阻むように回り道をして俊敏に動く美春さまに辟易していると、さすがに哀れに思ったのか冬悟さんが美春さまを呼びつけた。
「みーちゃん、こっちおいで」
「やだー!」
「シキくんの漢字教えてあげるから」
その一言で美春さまはぴたりと動きを止め、冬悟さんの元へ駆けていった。俺も気になって深く息を吸い込み、呼吸を整わせながらローテーブルに近づく。
「シキくんの名前はこう書くんだよ」
四季、と少し右上がりの字で書いた冬悟さんは「全部の季節のことを四季っていうんだよ」と美春さまに囁く。美春さまは春の訪れのような暖かい笑みを浮かべた。
「じゃあ、みんなと同じ、季節の名前なんだね!」
「いい名前だろ。色葉ちゃんが漢字を考えてくれたんだよ」
驚いて色葉さまを見つめると「勘違いしないでよ!」と怒鳴られた。けれども照れたように頬がうっすら赤く染まっているので怖くなんてない。
「お前に会ってからしばらくして色葉が言ったんだよ。四季って名前なら俺たちと一緒だって」
「父さんの隠し子だとしたら、その名前だと辻褄が合うって話をしただけでしょ!」
色葉さまの言っていることはとんでもない内容なのに、不思議とひどいとは思わなかった。誤魔化すように張り上げた声が裏返っていたのがかわいかったからかもしれない。
冬休みが終わる数日前に冬悟さんと色葉さまは実家を後にした。
見送りは広い玄関先で、俺と美春さま、そしてじいやがいた。旦那さまは仕事が忙しく、奥さまは今日も体調が優れなくて来られなかったみたいだ。
冬悟さんは後期試験さえ終わればまた帰って来ると言っているので、すぐに顔が見られるだろう。何せ大学の春休みは始まるのが早い。色葉さまには次の帰りはいつになるかを尋ねるよりも先に、自分の立ち位置をはっきりさせろと念を押された。
「あんたの扱いが中途半端だからみんな困ってるの! 父さんを問い詰めて一体あんたをどうするつもりなのか次に帰って来るまでにはっきりさせて」
口調はきつかったが、俺のことを心配していることがわかった。微妙な立ち位置のままで居続ければ最終的に困るのは俺なのだ。
「色葉さま、ありがとうございます」
礼の言葉が素直に口をついて出たが、色葉さまは不満気だった。
「『さま』はいらない」
吐き捨てるように言って、荷物を持ち背を向けて待機していた車へと歩き出す。「色葉ちゃんばいばーい」と美春さまが元気よく手を振る。少し後ろで、じいやが深々と頭を下げている。
俺がぽかんとしていると「さま付けは使用人たちがする呼び方だからな」と苦笑しながら冬悟さんも歩き始めた。「おにいちゃんばいばい」と手を振る美春さまに、冬悟さんは片手をあげて答える。
さま付けは使用人がする呼び方だよ、と冬悟さんに言われたのはこれが初めてではなかった。ここに来てまだ日が浅い頃、俺はまだ東郷家の人たちをさま付けで呼んだりはしなかった。けれど、何日かしてじいやたちが小さい女の子にまで「美春さま」と丁寧な呼び方をするのを見て、自分の態度は間違っていたんじゃないかと思い直したのだ。
思い切って「美春さま」と呼んでみると小さな女の子は「なあにしきくん」と受け入れた。「色葉さま」と自分より年上の女の子を呼ぶと、彼女は眉間に皺を寄せただけだった。「冬悟さま」と呼んだ時、自分よりもずっと背の高い男の人は「その呼び方はやめろって」とひどく悲しそうだった。だから俺は冬悟さんと呼ぶことにしたのだ。
「シキさまのことを、皆さんは家族同然に思っているんですよ」
滅多に口を開かないじいやが独り言のように漏らした声に俺は目が覚めるような思いだった。
じいやは俺が東郷家にとってお客様だからさま付けをするのだと思っていたけれど、今の響きは東郷家の子どもたちを呼ぶ時のそれだった。
色葉さまが言っていたように、みんな俺の扱いをどうすればいいのか決めかねている。俺は確認することが怖かったけれど、旦那さまときちんと話し合いをする必要があると覚悟を決める。
ところが決意はしたものの、旦那さまの仕事が忙しいらしくてなかなか家に帰ってこない。帰ってきたとしても疲れがたまっているのかベッドに直行してしまったり、食事をとったらまたすぐに次の所へと向かってしまう。
俺が来ていることに気が付くと「どうかしたか」と声をかけてはくれるのだが、眠気を振り払うように目頭を押さえているのを見ると首を振ってしまっていた。
「おかえりなさいって言いたかっただけです」
「そうか。ただいま」
俺は小さく頭を下げて自分に与えられた部屋へと戻る。その途中で気が変わって、夜の庭へと出てみた。目当ては美春さまのために作られたあの迷路だった。
冬の空気をしんと冷えて指先から体を冷やしていったけど気にはならない。吐き出す息は白かった。自分よりも背の高い植物の壁に囲まれていると落ち着いて物事を考えることができる。
「旦那さまは、なんで俺なんかを家に置いてるんだろう」
声に出してみると疑問はより深まった。俺と東郷家の出会いは不思議だった。
俺の父さんの再婚相手の女と子どもが、俺に嫌なことをする人たちだった。
あの人たちが来てからあまり学校に行かせてもらえなくなったし、父さんに訴えても「そうか」と聞いていないような薄っぺらい声と共に頷くだけだった。
十一月の始めに、出るなと言われていた小学校からの電話に思わず出てしまった時、女がすごい目をしていた。真っ黒な瞳がぎらぎらと光っていて、まずいと思った俺は反射的に裸足のまま玄関に飛び出した。いつも閉まっているはずの戸が空いていたのは奇跡だった。
目的の場所があるわけじゃなかったけど、とにかく遠くへ行こうと思って走り続けた。夕方になって街中をとぼとぼ歩いている時「シキ!」と鋭い声で名前を呼ばれた。父さんだった。仕事帰りみたいだった。
連れ戻される。
父さんの「なにしてるんだ」という問い掛けを無視して反対側の歩道へ移ろうと信号をろくに確認もせず反射的に横断歩道へ飛び出した。悲鳴のようなブレーキ音と共に体に衝撃が走る。
気が付いたら俺は病院で「元気だね~」なんて医者に感心されたりしながら「この傷はどうしたの。事故の傷じゃないよね?」と口調は優しいけど尋問されているような緊迫感で質問を受け、全てがめんどくさくなって再婚相手の女やその子どもにやられましたと素直に答えた。
すると「おじさんの乗った車が君を轢いたんだ。申し訳ない。うちにおいで」と知らない男が現れて頭を下げて、見たこともないような大きな家に連れてこられる。その人が旦那さまで、その家が東郷家だった。
それで数日すると長期休暇には程遠い冬悟さんと色葉さんを呼び寄せて、一体何事だと大慌ての二人と美春さまに「うちで面倒を見ることになった。シキというんだ」と俺を紹介したのだ。
うん、やっぱり意味がわからない。
あれから三カ月近く経ったけれど、俺は変わらず東郷家でのんびりと暮らしている。それどころか家に閉じ込められていた頃の勉強の遅れを取り戻すために、家庭教師まで雇ってくれた。
俺を轢いたことが、ここまで親切にするほど東郷家にとって都合の悪いことだとは思えない。俺は無傷だったわけだし、言い方は悪いけど、仮に死んでいたとしても東郷家にはそんなことくらい簡単に揉み消せる力があるはずだ。
もしかして、俺にこうして幸せな生活を送らせて油断した直後に元の家へと返してからかってやろうというのが目的なのだろうか。一体なんのために? 金持ちの娯楽? ……俺を轢いた時に車が傷ついて怒っているとか?
お金持ちの東郷家が車の一台や二台気にするとは思えないけれど、知らないうちに旦那様を怒らせていて、後で元の家へ帰らされたらと想像すると足元が音をたてて崩れていくような感覚がした。俺は東郷家を出ることが怖かった。
そのことに自分が一番驚いた。再婚相手の女やその子どもに意地悪をされてもお父さんがいるから平気だと思っていたけど、今ならあんなやつを頼るくらいなら冬悟さんに泣きついた方が絶対になんとかしてくれるという安心感がある。冬悟さんは俺の言葉を無視したりしなかったし、話をする時はきちんと目を見て話してくれたからだ。
今更、元の家に帰ってもうまくやれるとは思えない。ずっと帰っていないのに誰も探しに来てくれなかったことが雄弁にそれを語っている。
戻りたくないっていうのは、わがままなんだろうな。
「しーきーくーん! どこー?」
突然、間近に美春さまの声が聞こえてきてぎょっとした。まさかこんな時間に追いかけっこをしに外に出てきちゃったのか。屋敷からの明かりで微かに照らされているとはいえ、ほとんど真っ暗な場所だ。
とてもこんな所に小さな女の子を一人にしておくことなんて出来なくて「美春さまどこですか」と声をあげながら元来た道を戻り始めた。
何度か角を曲がった時に美春さまの姿を見つけた時にはほっとした。
「しきくん! ちゃんと逃げてよ、死んじゃうよ!」
「それは俺の台詞ですよ、こんな時間に外に出て美春さまに何かあったらどうするんですか!」
意図せずに荒い口調になってしまうと美春さまは少し怯えたように後ずさった。その姿を見て、でも俺が外に出たせいで追いかけてきちゃったんだよなと罪悪感が芽生える。今までも、夕方の薄暗い時間帯に平気で俺を追いかけてきたんだから、俺がもうちょっと気を使うべきだったんだ。
「怒りすぎました。一緒に家に戻りましょう」
東郷家のことをまるで自分の家のように言っている自分に気が付いておかしくなった。そんな俺を美春さまは笑ったりはしなかった。嬉しそうににっこり笑って俺と手を繋ぐ。
小さな手は冷たく冷え切っていたけど、二人でずっと手を握り合っていれば暖かかった。
出口までの経路を知り尽くしているはずの美春さまは、俺が「こっちでしたっけ?」と見当違いな道に進んでも制止することもなく黙ってついてくるものだから、迷路を脱出するまでにそれなりに時間がかかってしまって、二人してじいやに夜に外に出るなとお説教を受けることになる。
季節は二月になった。
美春さまは相変わらず、俺が追い付かれたら死ぬゲームをして「追いかけっこは構いませんが、死ぬというのは物騒ですねえ」とじいやを困らせている。
俺はというと、未だに旦那さまに自分の処遇についてきくことが出来ていなかったが、代わりに奥さまと話をすることができた。
奥さまは体の調子が悪いらしく、俺が東郷家にやってきた時からほとんど姿を見たことがなかったけど、一月の末に一度だけ部屋で勉強をする俺の元へと顔を見せた。
「こんにちは」
真綿で包まれるような優しい声を駆けられて、シャーペンを走らせていたノートから顔を上げると線の細い女性が扉の傍に佇んでいた。ノックをしてくれたらしいのだが、熱中していて俺が気が付かなかったらしい。
「こ、こんにちはっ」
慌てて椅子から立ち上がってソファーへ案内しようとすると気を使わなくていいと優しく微笑まれた。
ローテーブルを挟む形で向かい合わせになって座り、誰かにお茶でも持ってきてもらった方がいいのかと腰を浮かせかけると奥さまが優しく微笑んだ。
「あなたのおうちなのだから、そんなに固くならないで」
「俺の家……」
その言葉に、俺は捨てようとは思ってないらしいと勝手に安堵する。捨てようと思っていたらきっとこんな言い方はしない。東郷家の人々に親切にしてもらいながら、いつか捨てられるのではと疑って暮らし続けるのは息苦しかったが、奥さまの言葉には仄暗い喜びを感じずにはいられなかった。
「ここでの暮らしにはもう慣れたかしら。私のわがままで無理矢理連れてくるような形になって、ごめんなさいね」
いえ……と首を横に振りながら、俺は内心首を傾げていた。奥様のわがまま? 俺が東郷家に連れてこられたのには奥様が関係しているのだろうか?
「あの時は私もだいぶ参っていて、それであなたを強引に家に迎えるようなことをしてしまったけれど、最近ようやく落ち着いてまともに物事を考えられるようになったわ。もしあなたが元の家に帰りたいというのなら……」
「帰りたくありません!」
必死に奥さまの語る内容を理解しようとしていた俺は、気が付くと言葉を遮るようにして俺は叫んでいた。奥さまは黒い瞳を真ん丸に見開いて俺を見つめている。一人で熱くなったことが恥ずかしくて、俺は俯きながら言い訳のように言葉を紡いだ。
「いえ、その……迎えもきませんし、きっともう俺の帰る場所なんてないから……」
徐々に言葉が尻すぼみになる。
帰りたくない。多分俺は、ここに来てから自分の家族よりもずっとたくさんの時間をいろいろな人たちと話をして過ごしている。今更、部屋の隅でじっと息を潜めて存在を消す生活には戻れそうにない。
黙り込んで俯いている俺の上に影が降ってきた。顔を上げるよりも先に優しく抱きしめられる。誰に……と考えるよりも先に直感的に理解して「うわあっ」と声をあげるのと、使用人の一人が「こんなところにいらっしゃったのですか奥さま!」と部屋に駆け込んでくるのは同時だった。
ノック! ノックしろよ!
使用人も予想外の光景にぴたっと動きを止めていたようだが「ごめんなさい、心配かけましたね」と奥さまがあっさりと離れていく。ふわっといい匂いのする体が離れていって「またお話しましょうね」という奥さまに、爆発しそうな心臓を抑えながら頷くことしかできなかった。奥さまの温もりが徐々に体から消えていくことが寂しい。
短いのに、嵐のような時間だった。結局奥さまは何をしにきたんだろう。
その日のうちに、俺は廊下ですれ違ったじいやを捕まえて「奥さまってずっと具合が悪いんですか」となんとなく尋ねてみる。じいやは最初しぶってはいたが、周りに人がいないことを確認し、あなたなら言いふらしたりしないでしょうと暗に他言無用と釘をさしてから教えてくれた。
実は東郷家の子どもには冬悟さん、色葉さん、美春さまに続く四人目の子がいたらしい。昨年の夏に四人目の子どもが生まれるはずだったが、子どもは産声をあげることはなく奥様のお腹の中で死んでしまった。奥さまはショックを受けてふせぎ込むようになってしまったのだという。
とにかく子どもに関する言葉が飛び出したり、幼い美春さまの声を耳にするだけでも奥さまは手の付けられないほどに取り乱すので、東郷家ではその話を誰も口にしないように気を付けていたのだとか。
「最近、奥さまはシキ様の存在がずいぶん心の支えになっているようですよ」
じいやににっこり微笑まれ、俺は突然ぴんときた。どうして自分が東郷家で生活を許されているのか理解したのだ。
俺は、四人目の子どもの代わりなんだ。
俺なんかがこんな家に置いてもらえるのはおかしいと思っていたんだ。
子どもを亡くして、心が弱っていた奥さまは偶然降って湧いた俺をすっごくすっごーーーくかわいそうに思ってしまったのだ。だから俺を引き取ろうなんて考えに至ったに違いない。それが奥様のわがままの正体なんじゃないか。
けれど今日の様子を見る限り、奥さまは大分心が落ち着いてきたみたいだった。時間が経って、奥さまは冷静に物事を考えられるようになったのだ。
それでふと、血のつながりのない子を家に置いておくのは変じゃないかしら? あの時の自分はどうかしていたんじゃないかしら? なんて思ったりして俺の部屋にやってきたのではないか。
ざっと血の気が引いて体が震えそうだった。俺の異変に気が付いたじいやが「どうしました?」と目線を合わせてくる。俺は皺だらけのじいやの顔をじっと見つめた。
もし俺がじいやを通して「家に帰りたい」と言えばそれは旦那さまと奥さまにも伝わってすぐにその願いは叶えられるだろう。昼間の奥さまの来訪をその発言を促すためのものだったのかもしれない。あの女とちがって、奥さまみたいな優しげな人が面と向かって出ていけなんて言えるわけがないのだから。
あの時抱きしめてくれたのはさよならのあいさつだったにちがいない。期待に応えなきゃと思って「おれ……」と口を開くのだが、その先が続かなかった。
もたもたしている間にたまたま通りがかった美春さまが「しきくーん!」といつもの調子で突進してくる。
じいやはこれで話は終わりだと判断したように「さあ逃げてさしあげないと」と俺の背中を軽く押したが、とてもそんな気分にはなれずに、美春さまと喧嘩をした。
俺の背中をぐいぐい押しながら「しきくん逃げて逃げて」と言う美春さまに「ごめんなさい、今日はちょっと疲れてて……」と返すのだがそれでも逃げろとせかしてくる。じいやがなんとなくまずい空気を察して、美春さまを宥めようとするのだが、美春さまはそれを無視した。
そのうちに逃げてという声が涙声に変わってきて、子どもの不安げに揺れる声っていうのはどうもこちらの気分を落ち着かなくさせるものがあって、あともうちょっとで泣くぞっていうところで耐えきれなくなって俺は怒鳴る。
「どこに逃げろって言うんだよ!」
つまり居場所がなくて、やっと与えられた東郷の家もさよならしなくちゃいけないのかなあなんて追い詰められて、俺はその不安を俺は年下の女の子に向けてぶつけた。
八つ当たりを喰らった張本人である美春さまは泣かなかった。
怒鳴られて真ん丸にした目は少し潤んでいたけど涙は零さなかった。
「しきくんのケチ!」
いつも俺の後をついてくる足音が遠くなる。じいやは困ったように肩をすくめていた。
俺だって美春さまに構いたくない気分の時もあるし、たまにはこっちが断る権利くらいあるだろと俺は苛々していたが、さすがにそんな怒りは一晩も続かない。
ベッドの中で美春さまの潤んだ瞳を思い出すと胸が引き絞られるような気がした。怒鳴られたこともよく理解していない、純粋な驚きに満ちた瞳だった。突然、理不尽な怒りを向けられると最初は何が起きたのか理解ができないものだ。
時間が経って、ようやく頭が怒られたということを理解するとショックで涙がぼろぼろ溢れて止まらなくなるし、一晩中怒られた理由を探してその瞬間のことを思い返したりする。俺がやったことは、前の家にいた女たちがやっていたことと同じだ。
もうこの家にはいられないかもしれない。美春さまとの一件は、奥さまが俺の部屋を訪ねてきた直後の出来事だった。じいやからも報告がいっているだろう。卑怯者は東郷家にはいらない。それならせめて追い出される前に、明日、朝がきたら一番に美春さまに謝ろう。
その晩は眠りが浅く、目を開けば前に確認した時刻から三十分しか経っていない、なんてことを何度も繰り返した。
ところがようやく陽が昇って朝食の時間になっても美春さまは現れない。俺一人分の朝食が出されて思わず「美春さまはどうしたんですか」と使用人の一人に尋ねると今日は朝五時にご飯を食べに来て、通常幼稚園に行く時間よりも早くに出て行ってしまったのだという。完全に避けられている。
「私も子どもの頃は友人とよくケンカをしたものです。案外すぐに仲直りできるものですから、そんなにお気になさらなくても大丈夫ですよ」
昨晩の出来事をじいやに聞いたらしい使用人が慰めてくれるのだが、礼を言うために作った笑顔がぎこちないことは自分でもわかった。……あれはケンカというより、俺が一方的にいじめただけだ。この使用人だってそう思っているにちがいないと思うと、その場にいることが辛かった。
朝がだめなら幼稚園から帰ってきたら絶対に謝ろうと決める。その時刻までには今日の勉強を終わらせて玄関で待ち伏せしようと計画をたてるのが、そうすると時計ばかりが気になってしまう。まだかまだかと時計の針を眺めるけれど、一向に時間は進まない。集中力がないと当然、時間をかけて解いたはずの問題もしょうもないミスが目立つ。しまいには家庭教師の先生が呆れたようにため息をついた。
「集中できないなら何か別のことをしようか」
さすがに勉強に当てられた時間に外に出て遊ぶわけにもいかず、俺たちはただの世間話をする。
家庭教師の先生は大学生なのだという。四年生の彼は旦那さまの知り合いの息子らしく、暇な時間をもてあましていたところに家庭教師のアルバイトにこないかと声をかけられたのだと自分のことを話してくれた。
俺も自分のことを話そうとしたけど、旦那さまの車に轢かれてからお世話になっているとか余計なことを言ってもいいのだろうか。少し迷った末に、いつも美春さまとやっている追いつかれると死ぬゲームについて話す。
「最近の子どもってすごい遊びを考えるんだね」
先生もさすがに美春さまの考えた遊びには面食らっていた。
「でも俺も走るのは好きだから、追いかけっこを気持ちはなんとなくわかるかも」
「どうして走るのが好きなの?」
俺はじっと座って本を読んでいる方が好きだからその気持ちはよくわからない。
走っても心臓が痛くて苦しいだけだし、タイムを計る時なんてみんなの前で恥をかくだけだから嫌いだ。美春さまがまだ小さくて足が遅いからあの遊びにも応えようという気にもなるけど、多分同年代だったなら逃げることを諦めてわざと捕まっていただろう。
「ずっと走っていると、確かに苦しくてなんでこんなことやってんだろうって思うけどさ、それがずっと続くと急に頭の中が晴れ渡るような気がして、疲れなんか全然感じなくなる瞬間があるんだよね。それが好きなのかも」
先生の言葉は俺には全くない発想で思わず「すげえ」と言葉が漏れた。そんなことを考える人がいるんだ。
「思ったことをそのまま言っただけだよ。学校で走るのは嫌いでも、趣味で気楽にやるくらいなら景色を見ながら走るのが好きって人とかもいるんじゃないかな」
シキは他に何か思うことはないの? と尋ねられて答えを探しているうちに時計が三時をさしていることに気が付いて先生は帰って行く。
ちょうどもうすぐ美春さまが帰って来る時間だったので、先生を見送るために玄関までついて行き、そのまま外で座り込んで待つことにした。
上着を持ってこなかったので少し冷えるけど、二月になってから時々暖かい日も増えているせいか今日はほどほどに寒いといった程度でなんとか我慢ができそうだ。
冷たい風が頬を撫でていくのを感じながら、俺はさっきの先生の言葉について考えていた。俺は走るのは嫌いだから先生のようにかっこいいことは思ったりはしないけど、別に美春さまの遊びに付き合うのは嫌いじゃないかった。あれ? じゃあ俺って走るのが好きなのかな? でも好きっていうのはなんだかちがう気がする。
美春さまは俺と追いかけっこをするのが好きなのかな。嫌いだとしたら俺が迷路の奥に引っ込んでいる時までわざわざ追いかけてくるとは思えない。でもそのうち飽きちゃうんだろうな。俺もそうだけど、子どもの中で起きているその時のブームの移り変わりって早い。美春さまはよく続いている方だとは思うけど、ある日突然、俺の所にやってきていた小さな足音が聞こえなくなったら寂しいかもしれない。
昨日、美春さまをあんな風に扱ったのに、勝手なことばっかり思っている。そういえば美春さまはまだ帰ってこないのかな。
思考の海から浮上すると俺の指先はがちがちに冷えていて、少し動かしづらかった。一度上着をとってこようと家の中に入って、階段を駆け上がり二階の自分の部屋に飛び込む。
この間に美春さまが帰ってきてしまったらせっかく待っていた意味がなくなってしまう。慌てて元来た道を戻ろうとするのだが、視界の端に映りこんだ時計が三時二十分をさしていて少し気にかかった。
いつもならとっくに帰ってきていてもおかしくない時間だ。もしかして、朝に俺を避けたように会いたくないと駄々をこねているのではないだろうか。自責の念がずしんと心に重く圧し掛かった時、外から車のエンジン音が微かに聞こえてきた。
帰ってきたんだ!
部屋のドアノブを握ったまま固まっていたはっとして駆け出す。ところが、階段を二段飛ばしで駆け下りた先にいたのは旦那さまだった。そういえば明日か明後日には休みがとれるかもしれないとじいやが言っていた気がする。仕事が早く終わったのだろうか。
俺よりも早く帰宅に気が付いた使用人が旦那さまを迎えていた。
どうも様子がおかしい。玄関の扉を閉めもせず、旦那さまの荷物も預かりもせずと慌ただしい。
「旦那さま、先程幼稚園から美春さまがお怪我をして病院に運ばれたとお電話が……」
使用人の高い声は俺の元までよく届いた。
怪我? 病院?
俺が聞きなれない言葉に呆然としているうちに、旦那さまは取り乱した様子の使用人を落ち着かせながら冷静に運ばれた病院や怪我の状態を聞きだしていく。声を震わせながら切れ切れに答える使用人にうんうんと優しく頷き、別の使用人を呼びつけて「彼女が混乱しているようだから頼むよ。それから夏妃には私から話すまでこのことは内密に」と念を押すと背中を向ける。
仕事で疲れ切っているはずなのにしゃんと背筋を伸ばした姿が遠のきかけた時、俺は「待って!」と叫びながら旦那さまに縋りついていた。
「俺も、俺も連れて行ってください。お願いします」
スーツを皺になりそうな強さで握りしめている俺を見て、使用人の一人が慌てて引き剥がそうとするが旦那さまがそれを制した。「おいで」と力強い手にひかれ外に連れ出される。玄関のドアが閉まる音が聞こえた途端、旦那さまは「悪いけど少し走ってくれるかな」と小走りになった。
俺の手を握る手が少し震えていて、眉間には皺が寄せられる。決して使用人の前では見せなかった表情に胸を突かれ、手が痛いとは言えなかった。大丈夫だと根拠のない慰めも言えなくて俺はせめてこの手だけは離さないでいようと決める。
車庫の前で車を洗っていた運転手を捕まえ、病院に行ってくれるように頼み込む。
「今日は帰っていいと言ったばかりなのにすまない」
旦那さまはそう詫びていたが、運転手は快く車を出してくれた。二人で後部座席に乗り込む時になって、旦那さまはようやく俺の手をきつく握りしめていたことに気が付いたみたいで、慌てて手を離す。旦那さまの手が触れていたところが赤くなっているのを見て何度も謝ってくるのがおもしろくて吹き出すと、苦しそうな顔をしていた旦那さまも少しだけ微笑んだ。
車内は振動が少なく、滑るような運転が続いていたのに俺の心は落ち着かなかった。旦那さまは車の中で美春さまを迎えに行ったはずのじいや幼稚園の職員の人たちと連絡をとっている。俺はそれを近くで聞きながら、早く病院が見えてこないかと流れる景色をじっと見つめ続けていた。
病院に運ばれたってことは大怪我をしているんだろうか。もし、もし死んじゃったりしたら……と嫌なことを思いついてしまい、慌ててその考えを頭から追い出す。
もう美春さまに怒鳴ったりしない。会ったらちゃんと謝ります。だから美春さまを死なせたりしないでくださいと俺は顔も知らない誰かに必死に祈っていた。
「……じいやの迎えを待つ間、遊具で遊んでいたら足を滑らせて落ちてしまったらしい。頭を打って気を失ったそうだ」
一通りの通話を終えた旦那さまの声が車内に静かに響いた。
小さな体が遊具の高い場所から落ちる姿を想像してぞっとしたが「すぐに意識を取り戻したらしい」と付け加えられて、一瞬呼吸をするのを忘れる。
「救急車を待つ間に意識を取り戻したけど、念のため運ばれたって」
大きく息を吐いた旦那さまがだらしなく姿勢崩して、隣に座る俺にもたれかかってきた。
「お父さん焦っちゃったよ」
「お、重いです」
必死に旦那さまの体を押し返すけれど、対抗するようにさらに体重をかけられる。じゃれあいのようなことを繰り返しながら、安堵で鼻の奥がつんとしてした。
無事だった。あの小さな足音が俺の傍から離れたままなくなってしまうなんてことにはならなかった。
旦那さまを押し返そうとしていた手はいつのまにかスーツをきつく掴んでいた。旦那さまは気づいていたけれど、引き剥がそうとはしなかった。
「俺、美春さまにひどいことを言ったんです」
「喧嘩をしたらしいね」
旦那さまはあの一件について話をきいていたのか。小さい子に八つ当たりをしたことを知られていると思うと、自分が情けなくて背筋がひやりとした。知られているなら、もうごまかしはきかない。
「喧嘩じゃないんです。俺が一方的に美春さまをいじめたんです」
俺は昨日自分がしたことを白状した。自分からそのことを告げるのは勇気が必要だった。俺は自分を家に置いてくれた恩人の娘にひどいことをしたのだ。昨日、ああして奥さまが尋ねてきたばかりだし、これが決定打となって元の家に帰されても仕方ないという覚悟だった。
「俺、美春さまに謝りたいんです。もうひどいことはしないって約束します。だから、最後に美春さまに会わせてもらえませんか」
昨日、じいやに伝えられなかった言葉がするりと出た。東郷家を出ていきたくないという気持ちはあったけれど、美春さまにひどいことをした負い目がそんな我儘を許さなかった。
「美春に会うのは構わないが最後って?」
「美春さまに謝ったら、俺はどこにでも行きます」
「ちょっと待って、何の話だ?」
旦那さまは勢いよく俺を引きはがして、肩を掴んでそちらを向かせてきた。俺はとても旦那さまの顔を直視することができなくて、シンプルなネクタイの布地を凝視していた。
「お、奥さまの事情は聞きました。あんなことがあったら咄嗟に俺のことを引き取ってしまう気持ちもわかります。俺のことは気にしないでください」
お世話になったし、できるだけ押しつけがましい言い方はしたくなかったのにいかにも気にしてくださいと訴えるような言い方になってしまうのが申し訳なかった。
旦那さまと奥さまは俺を手放したくて、俺は自分から家を出ると言っている。双方の利害は一致しているはずなのに、旦那さまは俺の言葉に困惑した様子だった。
「一体何を言っているんだい?」
「……あの、俺って東郷家を出た方がいいんですよね?」
なんとなく会話が噛み合っていない気がして質問に質問で返してしまう。すると旦那さまは「え?」と目を見開いて俺を見つめてくるので俺も「え?」と固まる。
「どうしてそう思うの。何かあったの?」
スタートの旗が振り降ろされたかのように、俺はべらべらとまくしたてた。昨日、奥さまが俺の部屋に尋ねてきました。奥さまの事情はじいやから聞きました。俺って四人目の子どもの代わりだったんですよね? 四人目の子どもが亡くなった時にタイミングよく俺みたいな子どもが現れてかわいそうとか思って、思わず引き取っちゃったんですよね? でも最近奥さまの具合がよくなってきて、冷静に考えてみたら四人目の子どもはその子一人だし、俺なんかが変わりになるわけないよなって思ったんですよね? じゃあ俺、元の家に帰ります。
「待って、待ちなさい。違うよ、勘違いだよ。夏妃も私もそんなことは思ってないよ」
「うそ!」
「嘘じゃないよ」
「だって、だって俺の事どうするとか一回も言わなかったじゃん。いつまで家にいていいとか。何も言わないってことは飽きたら捨てようとかそういうことだろ!」
わかってんだよそんなことは! と怒鳴り終わる頃には俺の顔は涙と鼻水でまみれて汚いし、しゃっくりは止まらなくて舌がうまくまわらない。多分、半分以上は何を言っているのか聞き取れなかったんじゃないかと思う。
丁寧な言葉遣いも物静かな態度もかなぐり捨てた俺に旦那さまはぎょっとしたみたいだった。失望しろ! 俺に! それですっぱり捨ててくれ。
東郷家と離れるのが辛いから俺はこんな無茶苦茶な態度をとっているのだ。いっそもう、めんどくさい小学生の子どもらしい態度に幻滅して、お前なんかいらないとざっくり捨ててくれ。
肩を掴む旦那さまの手を振り払い、俺は窓の外にへと体ごと視線を向ける。靴を脱いでシートの上で体育座りしてふて寝しようとする。けれど旦那さまの大きな声がそれを許さなかった。
「私は君のことを息子だと思っているよ」
「息子ってちんこのことですか」
白々しい。さっさといらないって言えばいいのにと適当な返しをすると旦那さまは声をあらげた。
「子どもって意味に決まっているだろう! どこでそういう表現を覚えてくるんだ!」
旦那さまの言葉はバッドでがつーんと頭をぶん殴られたような衝撃を俺にもたらした。女に蹴りを入れられた時より凄まじい。子ども? それ本気で言ってるのかな?
びっくりしすぎて思わず顔と体を旦那さまの方に向け「あの女の友達が『ちょっとあんたのムスコ見せてみなさいよ』ってズボンに手突っ込んできて……」と言わなくてもいいことを言ってしまう。旦那さまは盛大に顔を顰めると「悪かった。それは君のせいじゃないな」と謝るので俺は静かに頷いて脱ぎ捨てた靴を履きなおした。真面目に話を聞かなければいけない気がした。
旦那さまがハンカチを無言で差し出してきたので、ありがたくそれを受け取って俺は涙や鼻水で汚れきった顔を綺麗にしていく。
「まずは謝らせてくれ。私の言葉が足りなかったせいで君に随分不安な思いをさせたみたいだ。申し訳ない」
いろんな液体を吸い込んで湿ったハンカチを握りしめていると旦那さまが手を差し出してきた。さすがに汚いだろうとためらっていると強引に奪っていってしまう。ためらいもなくポケットにそれをしまうのを見て、俺は少し嬉しかったけど顔に出さないように努めた。
「結論から言うと、君には私の息子になってほしいと思っている」
「それって、四人目の子どもが亡くなった直後に俺にみたいな子どもが現れて同情しているだけなんじゃないですか」
「その気持ちがなかったとは言い切れないかもしれない」
車に轢かれた俺が運ばれた病院は、旦那さまの知り合いが経営する病院だったのだという。そこで旦那さまは俺の体にアザが多く残されていることを聞かされたのだそうだ。幸い事故による怪我はかすり傷程度で、それなりの金を払って大事にしないように話を持っていくつもりだったそうだが、俺の家族がごねた時はその虐待の痕跡を盾にとって黙らせようとも考えたらしい。けれど俺の名前を聞いた時にその考えはどこかにひゅるりと消え失せてしまったのだという。
本城シキ。
「私の家族と同じ、季節の名前だと思ったよ。つけてあげることのできなかった四人目の子どもの名前も思い出していた。あの子はなすすべもなく亡くなってしまったけれど、目の前にいる君は助けられるんじゃないかと思った」
冬悟さんが書いてくれた四季という文字が脳裏にちらついた。全部の季節のことを四季っていうんだよという言葉を思い出す。
なんとなく俺をそのまま家に帰す気にはなれなかった旦那さまは俺の家族に連絡をとってうまくごまかし、しばらく家に連れ帰ることにしたのだという。そしてその日の晩に奥さまが取り乱すのを覚悟で、子どもを預かることにしたと俺の話をしたそうだ。どういうわけかその日の奥さまは子どもという単語をきいても騒ぎ出すこともなく、静かに焦点の定まらない目を宙に向けたままだったという。相槌もない静かな空間で、旦那さまは俺を連れ帰るに至った経緯を一通り話したのだ。
「私が君の今後をどうするか夏妃に話続けている時、彼女は急に『じゃあうちで引き取りましょう』と言い出したんだ」
発せられた声は波ひとつたたない水面のように落ち着いたものだったという。驚いた旦那さまが思わず何て言ったのかと聞き返すと、もう一度同じ答えが返ってきた。理由を尋ねると俺の名前がどうにも心に引っかかって離れなくて、自分たちに近い名前を持つ子どもをどうにも見捨てられないのだという。
四人目の子どもの代わりにすることは許されないよと慌てて旦那さまが制止すると、私たちがあの子に会えるのはもうずっと先のことじゃないと悲しげな笑みを浮かべたそうだ。
「夏妃は君と四人目の子を完全に別人として見ていた。悪い意味に捉えないでほしいが、夏妃に母親にとって子どもというものは取り替えのきかないものなのだと怒られた。君に四人目の代わりは務まらない。もちろん、シキの代わりが務まる人もこの世界中を探してもどこにもいないとね」
俺の代わりが他にどこにもいないなんて、胸が熱くなって俺は困ってしまった。信じちゃいけない。そんなことがあるはずがない。そう言ってもらって嬉しいなんて思っちゃいけない。そんなのは嘘だ。代わりなんて平気でたてられる。代わりがいないというなら、どうして俺の家族は俺を探しにもこないんだろう。
「夏妃は完全とは言えないけど最近は少し落ち着いてきていている。そういう時に自分の様子がおかしかった時のことを思い出してひどく落ち込むことがある」
「……それで俺を引き取ったことを後悔したの」
「ちがうよ」
旦那さまは俺の肩に手を回して静かに抱き寄せた。遠慮なく体重をかけてくるのではない、包み込むような優しい動きだった。俺は裸のまま外に放り出されて冷たい風に晒されていた心に優しく毛布をかけられた気がした。
「君の意見も聞かずに家に置いた自分を後悔したんだと思う。あくまで憶測だから、帰ったら一緒に聞きに行こう。だけど、私も君のことに関しては少々強引な手を使っている自覚はあるから、夏妃の気持ちはなんとなくわかるよ」
旦那さまが少し沈んだ声が言うものだから俺は「別に強引なんかじゃ……」と否定しかける自分にびっくりする。よく考えてみると、よその家の子どもを連れてきて一度も家族と連絡もとらせずに家に置いておくことのどこが強引じゃないんだろう。それを庇ってしまう俺ってどうやら思っていた以上に東郷家の居心地がいいらしい。
そんな自分が悔しくて、俺は「ずっと俺のこと放っておいたくせに!」と声を張り上げた。確かに放っておかれたけど、俺に尋ねる勇気がなかったのも事実なのに。仕事で疲れているのに声をかけて鬱陶しく思われるのが嫌だった、自分の臆病さが原因でもあるのに。
これに関して、旦那さまは素直に謝罪をしてきた。完全に自分の落ち度だし、元気そうにしているからまさかそこまで不安に感じているとは思わなかったと。
「以前から旦那さまはお子様たちに対して、言葉が足りなさすぎるんですよ」
それまで従順に職務に徹していた運転手が堪え切れなくなったように言い放った。雇用主に対してすっかり呆れきった物言いに、もしかして俺だけじゃなくて冬悟さんたちにもこういう曖昧な態度をとり続けていたのかと驚いてしまう。
そこまで言われてしまうと旦那さまは返す言葉もないようで、情けなく項垂れてしまった。
「君の本当の家族との話し合いがついたら、君にうちの子にならないかときいてみるつもりだった。断られたらしばらく様子を見て、一番いい選択をするつもりだった」
俺はなんとなく、この人はもしかしてあほなんじゃないかと思った。もっと早くにそう言ってくれれば俺はこんなに悩まずにすんだし、美春さまに当たり散らさなくてすんだかもしれないのに! 思わずもう一度、無茶苦茶に声をあげて怒鳴り散らしかけたけど、あることに思い当たってそんな考えは気の抜けたソーダみたいに薄まってしまう。
やっぱり、話をちゃんと聞かなかった俺もあほだ。
そこに思い当たると、あほ二人のトラブルに巻き込んでしまった美春さまに一刻も早く謝らなければならないと感じてくる。
項垂れたままの旦那さまを盗み見るようにして見つめる。ああ同類だな。俺たち二人揃ってあほなんだ。散々泣いて叫んだせいもあってか、もやもやと内側で燻っていた不安やら不満はすぐさま収まっていった。
「……俺との家族の話し合いってなんですか」
旦那さまは答えなかった。うまく誤魔化していたけれど、それは俺の本当の父親とあの女のことだと、俺はぼんやりとわかっていた。
普通の親なら、自分の子どもがいなくなったら探したり、迎えにきたりするものなのだ。あの人たちには俺の代わりが別にいたのかもしれない。いや、代わりなんて用意するまでもないほどに俺が必要でなかったのかも。
「もし俺を引き取るために旦那さまに迷惑がかかるようなことがあるなら、すぐにやめてください」
たくさんのお金を払ったりするほど、自分に価値があるとは思えない。
「馬鹿なことを言わないでくれ」
旦那さまの声に力はなく、語尾は微かに震えていた。俺を包み込む腕に更に力がこめられ、腹の底からぐっと熱いものがこみ上げてくる。それは目から口から溢れだして止まらなくなる。旦那さまはあほかもしれないけど、俺のことを心配してくれない人よりかはずっといい。
俺はまた少しシキという名前が好きになる。なんの意味もなく、適当につけられた名前だけどこの名前のおかげで東郷家の人々の目に留まることができたと思うと、少しだけ両親に感謝をしてもいい。旦那さまにそれを告げると「不本意だけどね」と嫌そうに頷くので俺は声を出して笑う。
美春さまが運ばれた病院に着いたのはそれから間もなくのことで、泣きすぎて鼻が痛かった。病室に行くのを少し待ってほしいと頼んだのに、旦那さまに無理矢理車から降ろされる。
こんな顔じゃ、泣いた後だっていうのがバレバレだ。ちらりと旦那さまの顔を見上げると、旦那さまだって泣いていたはずなのにその痕跡がちっともみあたらなくて不思議だった。
受付で美春さまの病室を教えてもらい、二人でエレベーターに乗り込む。エレベーターに他の患者の姿はなく、二人きりだった。上昇する瞬間に、ぐんと体に圧し掛かる重力を感じる。潤んだ眼がどうにかならないものかと服の袖で擦っていると「君があんな風に泣いてくれてよかった」と言われる。
「息子にするつもりなのに、使用人の真似をして旦那さまと呼び出すからどうしようかと思っていた。君もちゃんと子どもらしいところがあるんだね」
てっきり、俺の顔がひどいことをからかうつもりだと思ったのに、ほっとしたように言われてしまうと強く言い返せない。
東郷家の人たちと馴れ馴れしく接するうちにうっかり旦那さまのことを、お父さんだとか呼んでしまったら大変だと思って、じいやたちの喋り方を真似していたのに、実はその呼び方に困っていたと知るとどうしたらいいのかわからなくなった。
「だったら、早く息子にするつもりだって言えばよかったんだ」
「万が一、話し合いがうまくいかなかったら君を騙すことになってしまうからね」
「それでこんなに揉めたんじゃ意味がないです……」
俺は旦那さまに対する言葉遣いが友達としゃべる時のようになってしまったり、いつもの調子に戻ってしまったりと少しややこしい。いつかなんの遠慮もなく言葉を交わせる日がくるのかな。
目的の階に着き、教えられた通りの番号の部屋の扉の前に立っても泣きはらした顔はどうにもならなかった。この顔で美春さまに会うのだと思うと照れ臭くて、俺は旦那さまの後ろに隠れる形になってしまう。旦那さまはそんな俺をおもしろそうに見下ろしながら、扉をノックした。
中から返事が聞こえる。じいやの声だ。幼稚園に迎えに行った直後にたった今救急車で運ばれたところだと聞かされ、そのまま直行したらしい。
じいやは旦那さまを出迎え、その後ろに隠れるようにしている俺を見ると優しく微笑んだ。
「どうぞ」
促されて入ると美春さまがベッドの上でテレビを見ている。ちょうど夕方の子ども向けアニメが放送される時間帯でそれを見ていたようだったが、俺たちが入ると簡単に視聴をやめてしまった。
「あ、しきくん!」
屈託のない笑顔を向けられて戸惑ってしまう。昨日あんなことを言ってしまって、朝も会話はなかったのにもうそんなことなんて忘れてしまったみたいだ。
「しきくん、泣いてたの?」
顔をまじまじと見つめ、一発で言い当てられてしまうと隠すのも馬鹿らしくなって、俺は旦那さまの後ろに隠れるのをやめた。一方、娘に自分のことを呼ばれもしなかった旦那さまは「フラれてしまったようだ」と肩を竦めている。
美春さまが遅れて「パパー」と美春さまが手を振ったが、その動きをぴたっと止めて「パパも泣いたの?」と聞くものだから、旦那さまの表情が引き攣っていた。俺も驚いた。どうしてわかったんだろう。見た目にはなんら変化のないはずの旦那さまの顔を見つめながら、二人が軽い会話を交わすのを見守る。
旦那さまは咳払いをして誤魔化すと、怪我の具合やどうしてそうなったのかを美春さまに尋ねた後、この分なら心配はなさそうだから飲み物でも買ってくると言って部屋から出て行ってしまう。去り際に俺の肩を叩くものだから、仲直りをしろという合図なのだとわかった。俺に気を使ったのか、じいやまでそれに続いてしまって俺は美春さまと病室で二人きりになってしまう。
まさか二人きりにされるとは思わなくて俺はうろたえる。いやいや、大人たちの前で謝る方が恥ずかしいものがある。あと何分かしたらお医者さんが怪我の説明にくると言っていたし早めに謝らなければ。先延ばしにすればしただけ言いづらくなってしまう。当たって砕けろ! いやそれじゃ好きな人に告白でもするみたいじゃないか。美春さまのことは嫌いじゃないけどとかぐちゃぐちゃ考えているうちに勝手に口が動いた。
「美春さま、昨日はひどいことを言ってすみませんでした」
「ううん、美春も無理矢理追いかけたり、無視したりしてごめんね」
「いえ、とんでもないです」
「うん。じゃあこれで仲直りだね」
仲直りがおわってしまった。仲直りしたくなかったわけじゃないけど、あまりにもあっけないやりとりに拍子抜けしてしまう。昨日の晩からひどいことをした、謝らなければと緊張に支配されていた体から力が抜けて、よれよれと崩れるようにしてベッドの傍に用意されたパイプ椅子に腰かけた。
「痛いところはありませんか」
ベッドに体を起こしたままの美春さまにパッと見は変わったところは見当たらない。美春さまは「大丈夫だよ!」と元気よく頷いた。
どうして怪我をしたのか尋ねると、じいやの迎えを待つ間、教室を飛び出して友達と追いかけっこをして遊具の高い所に登って逃げていたら足をすべらせて落ちてしまったらしい。
追いかけっこ、本当に好きだなあ。
「あの、ここにいる間は追いかけっこはダメですからね」
頭を打ったというのだから当然大人しくしていなくちゃいけないのだけど、しょっちゅう俺の後を追いかけて動き回っていた美春さまにそれができるのだろうか。というか、今まさに俺を追いかけ始めたりしないだろうな。下手に動き出して転んだりしたらどうしよう。それよりも他の患者さんを追いかけて、相手に怪我をさせたらまずいんじゃないか。
「俺、今日はここに泊まりましょうか?」
思わず言葉が口をついて出た。
「なんで?」
「そうしたら、誰か追いかけたくなった時に困らないでしょう」
追いかけっこの相手を探して病室を抜け出してしまう美春さまを想像することは容易だった。俺がここにいればベッドの周りを適当にくるくる回って、適当なタイミングで捕まりにいける。そうしたら怪我もしないだろうし他の人に迷惑もかけない。
「みはる、我慢できるもん」
美春さまは自信満々に胸を反らしていたけどどうにも疑わしい。俺が気を抜いた瞬間にベッドから飛び降りて、いつもの小さな足音が聞こえ始めるんじゃないかと気が気ではない。
「本当ですか」
「うん! それにみはるが追いかけたくなるのは、しきくんだけだから大丈夫」
へーそうなんですかと返事をしようとして俺は首を傾げた。どういうことだ?
「俺しか追いかけたくならないんですか?」
「うん、しきくんだけだよ」
いやいやどういうことだよ、追いかけっこをしていて病院に運ばれるはめになったはずだろ。適当なことを言って、俺を家に帰そうとしているなと疑心の念に囚われかけた時にはたと気が付く。そういえばさっき、友達と追いかけっこをしていて高い所に逃げたら足を滑らせて落ちたって言ってなかったっけ? じゃあ美春さまが逃げる側だったってことか。
よくよく考えてみると東郷家で美春さまに追い回されているのは俺だけだった。さすがに冬悟さんや色葉さんは年が離れすぎていて遊び相手には向かないからだろうと思っていたけど、もしかして幼稚園でも誰も追いかけていないのだろうか。
「だって外であんなことばっかりしたら、嫌われちゃうからね」
子どもだ子どもだと思っていた子にもっともなことを言われてしまう。そりゃあ、あんな妙な設定の追いかけっこをされたら嫌われるかもしれないけど、じゃあなんで俺は追いかけられていたんだ。俺ってもしかして嫌われてたのか?
予想外の事実に少しだけ切なさに似たようなものを感じてしまい、ついいじけたような言葉が出た。
「ふーん、じゃあ俺のこと追いかけたくなったら大変だし、もう帰ろうかな」
「えっ、やだ!」
かわいらしくバイバイ、しきくんなんて微笑まれるかと思いきや、ベッドから身を乗り出して俺の腕を掴んでくる。バランスを崩してベッドから転がり落ちそうになった体をなんとか押し上げ「危ないですよ!」と叱りつけると、美春さまは照れ臭そうに頭を掻いた。
随分必死に止められたことに俺は満足感を得てしまう。なんだ、嫌われているわけじゃないのか。
「あのね、もうしきくんのことは追いかけないと思う。だからまだ帰らないで」
昨日は追いかけられることにうんざりして喧嘩まで発展してしまったというのに、突然の追いかけない宣言に俺は動揺してしまった。
「あの、昨日のことならほんとに俺が悪かっただけど怒ってませんから……」
無邪気にしているようにみえたけれど、まさか昨日怒ったことをそこまで気にしていたなんて。何て言えばもう怒ってないことが伝わるだろうと足りない頭で考えてなんとか絞り出した言葉は「俺のこと追いかけていいですよ! 追いかけてきても帰ったりしませんから!」で「しきくん、みはるは今日は大人しくしてなくちゃいけないんだよ!」と窘められてしまう。
これじゃどっちが年上なのかわからない。慌てて誤解を解こうとしているうちに美春さまは「あのね、しきくんはもう走らなくていいんだよ。もう大丈夫だからね」と言われて頭の中にクエスチョンマークを浮かべているうちに旦那さまとじいやが病室に戻ってきてしまう。
「仲直りはおわったかい?」
「まだ途中です!」
「おわったよ!」
二人して違う答えを返してからかっているとでも思ったのか、旦那さまはにこにこ笑みを浮かべながら「仲良しだね」と見当ちがいなことを言って、俺たちに買ってきてくれたジュースを渡した。
「まだ話は終わっていませんからね」
そう釘をさしてからオレンジジュースの缶のフタを開けて美春さまに渡し、自分の分に着手しかけた時、病室のドアが外側からノックされた。
「お医者さんが来てくれたのかな」
「見て参ります」
じいやがすぐさま扉を開けて応対する。すぐに中に入って来るかと思いきや、しばらく戸口で話し込んだままなかなかこちらにやってこない。俺と美春さまと旦那さまとで訝しんで顔を見合わせているとじいやが一旦こちらに戻ってきた。
「黒田隆くんとそのお母様がお見えになっています。美春様の同級生の方のようですね」
「たかしくん!?」
美春様が勢いよく反応したのを見て、旦那さまは「とりあえず中に入ってもらおうか」と提案する。じいやはそれに従い、黒田隆くんとそのお母さんを病室に招き入れた。
ところがどうも様子が変だ。隆くんの母親は表情が暗かった。母親に強引に手を引かれて病室に入ってきた隆くんは明らかに泣いた後だとわかる顔をしていたし、何かを堪えるようにぐっと歯を食いしばっている。
病室のベッドに座る美春さまを見た途端、隆くんのお母さんが「この度は大変申し訳ありませんでした」とわっと泣きながら頭をさげるので俺は反射的に椅子から立ち上がってしまうほど驚いた。
てっきり美春さまの同級生がお見舞いに来てくれたのだと思っていた俺は慌てて旦那さまの顔を見つめるけど、旦那さまにも事情が掴めていないらしい。「ご心配いただいたのはありがたいのですが、今回のことはうちの子の不注意で起きたことですし……」と当り障りのない言葉をかけていると鋭い声で「ちがうんです」と否定されてしまった。
隆くんのお母さんの話によると美春さまを追いかけていたのは隆くんだったらしいのだが、その追いかけ方が問題だったらしく、泣いて嫌がる美春さまをカエルを持って追いかけ、園内を走り回ったそうだ。
うわー、小さい子によくありがちなやつだ。好きな女の子にちょっかいかけたくて、嫌がることをしちゃうんだよなと隆くんをまじまじと見つめていると美春さまが声をあげた。
「ちがうよ。一緒に遊んでて、みはるが勝手に落ちたんだよ」
隆くんを庇っているんだなと俺はすぐにわかってしまった。きっとここにいる全員がわかっていたと思う。隆くんの顔は泣きすぎて鼻が真っ赤になっていたし、隆くんのおかあさんが頭を下げた時にはじわじわと涙が盛り上がっていたから。
「ご、ごめんさい。おち、落ちるとは思わなくて」
言葉をつっかえさせながらも隆くんはなんとか言い切った。
「お、追いかけられたのは本当だけど、上ったのはみはるだし、落ちたのもみはるが悪いんだよ。たかしくんは悪くないんだよ!」
隆くんの顔は涙でべちょべちょで、本当に美春さまが怪我をすることなんて想像もしなかったんだろうことが見てとれた。
美春さまが隆くんのことをこの時まで一切話さずにいた心を汲み取ったのか、旦那さまの頭を下げ続ける隆くんのお母さんに「どちらに責任があるという話ではありませんから」と声をかけていた。
ようやく母親が頭を上げて和やかな雰囲気になりかけても、隆くんだけはずっと涙を零しながら鼻をすすりつづけていた。きっと、目の前で美春さまが落ちるのを見てそのショックがまだ抜けきらないのだろう。昨日の晩から美春さまに対してずっと罪悪感を抱いて悶々と過ごしていた俺には他人事には思えず、放っておけなくなる。
俺が隆くんに自分のジュースを渡すよりも、隆くんのお母さんが苦笑しながら隆くんを呼び寄せるよりも早く美春さまがベッドの上に立ち上がって叫んだ。
「たかしくん、逃げろーー!」
まずいと思うより先に美春さまはベッドから飛び降りる。押さえつけようとした手を擦り抜け、隆くんに突進していく。ぽろぽろ涙を零していた隆くんはピタッと動きを止めたかと思うと「え、え、え」と狼狽えながらも駆け出してしまう。
「走っちゃだめですってば美春さま!」
我慢できるんじゃなかったのか。ていうか俺しか追いかけないんじゃなかったのか。保護者二人が「美春!」「隆!」と子どもたちの名前を呼んでもききやしない。すばしっこい二人を旦那さまと隆くんのお母さんがなんとか捕まえた頃には隆くんの涙はすっかり引っ込んで、二人してけたけた笑いながら叱られていた。
再びベッドの上に戻された美春さまに「もう追いかけっこはしないんじゃないんでしたっけ」と嫌味を言うと、美春さまは困ったように唸ってしまった。
「でも、走るとすっきりするから……」
俺は先生と同じようなことを言い出す美春さまが少しだけかっこよく思えてそれ以上強く言えなくなる。
結局、病院には美春さま一人を残して帰ることになる。美春さまはこっぴどく旦那さまに叱られ続け、さすがにしょげた様子だった。今日は絶対に大人しくしていると指切りをしていたから多分大人しくしているだろう。お医者さんの説明を受けた旦那さまの話によると、大事をとって一日入院して異常がなければ明日退院するのだという。
病院前で隆くんと隆くんのお母さんと別れる。隆くんのお母さんは病院代くらいは出させてほしいと訴えていたが、旦那さまが丁寧に断った。
旦那さまは帰ったら奥さまに今日の事を説明しなければならないと話していた。そういえば家を出る時に奥さまには美春さまのことは言わないようにと使用人たちに念を押していた。まだ奥さまの精神状態は完全に安定したとは言い難いらしく、念のため様子を見てから伝えようとしたのだという。
じゃあ俺は今日は帰って寝ようと思っていると、家に着いてから一時間後くらいに奥さまの部屋に呼び出されて泣かれてしまう。
昨日、部屋に尋ねてきた理由は旦那さまが俺に語り掛けた通りのもので、俺の意思をろくに確認もせずに東郷家に連れてきてしまったことが最近になって不安になり始めたので、現状に不満はないのかと確認しにきたのだという。不満なんてない、もし皆が許してくれるならこの家に置いてくださいと頼み込むと、奥さまは安心したみたいで静かに涙を流した。
どうやら、俺の奥さま、旦那さまという呼び方が誤解を招いていたらしく、俺は早々に定着してしまったこの呼び方をどうにかしなければならないなと考え始める。
自分の部屋に戻る途中、部屋まで送るよと後をついてきた旦那さまが「東郷という名前はどう思う?」と尋ねてきたので「かっこいいと思います」と思った通りに答えた。響きが強そうで、落ち着いた感じもする。
「四月から、君を小学校に通わせようと思っているんだけど、名字は東郷にして通わないか」
旦那さまの声は少し緊張していたと思う。そういう台詞はもっと早く言ってくれればいいと思うんだけど、俺は水をさすような真似はせずにそっと頷いた。
俺が本当に東郷家の子どもになるためにはまだ時間がかかるみたいだった。それにはきっとあの女たちが関わっていて、旦那さまから俺と引き換えに金をもらおうとしているんじゃないかと気にはなるけど俺は聞かない。旦那さまがそれを知られることを望んでいないからだ。
その晩はぐっすり眠れて、目を閉じて次に開いた時には朝だった。
今日は家庭教師はお休みの日で先生が来ることもないから、俺は出された宿題を一人でこなす。昼には美春さまが帰って来るはずだからそれまでに終わらせようと集中しているとあっという間に終了してしまった。
暇を持て余した俺は庭に出て、久しぶりにガーデン迷路の中に飛び込んだ。いつもは前の家にいた時のことや、この先のことを考えて憂鬱になった時に飛び込んでいた場所だけど、今日はそんな嫌な気持ちはない。悩みごとなどなく、むしろ四月から小学校に通うのだからもっと勉強を頑張ろうとか、前向きな気持ちだった。
ただ、この中にいるといつも美春さまが後を追いかけてきていたせいで、今にも「しきくん、にげて!」という声が聞こえてくるような気がして何度も後ろを振り返ってしまう。風の音や空耳につられて後ろを振り返る回数が片手で数えられる分を超えた時、俺の頭の中に病室できいた『しきくんはもう走らなくていいんだよ。もう大丈夫だからね』という声が蘇った。
昨日、誰もが慰めてやりたいと思ったであろう、泣きじゃくる隆くんを追いかけまわした美春さまの姿を思い出す。俺が美春さまに追いかけられる時は、たいていがこの迷路に逃げ込んでいる時で、そういう時は大体気分が沈んでいて、そもそも喧嘩をしたあの日だって……。
歩みを進める俺の速度が徐々に早くなり始める。最初は早歩き、気が付けば俺は軽く地面を蹴り緩やかに走り出す。いつも行き止まりに突き当たってばかりの迷路は今日だけは特別だというように素直に道を開け、五分もする頃にはあっという間にゴールに辿りついてしまう。迷路を抜け出した俺は、駆け足から全速力のスピードに切り替えて迷路の周りをぐるぐると走り続ける。
なんでこんなことをしているのだろうと思う。ぜーぜーと息が上がって、体は重い。上げたばかりのスピードはすぐに落ち始めてみっともない。けれど止まる気はない。いつまで続けるのかは俺も知らない。けれどこのまま止まらなければ、先生の言っていた頭の中が晴れ渡るような瞬間とか、走るとすっきりすると言った美春さまのことをわかるようになるかもしれない。知りたい。俺も二人の言うことを理解してみたい。
体が火照り出して、上着を脱ぎ捨ててしまいたくなる。考えることは辛いとか、やめたいとか、そういうことばかりだけど、本気で嫌だと思っているわけじゃない。そのつらさを乗り越えた先にもっといいものが待ち構えているような気がする。美春さまはもしかしてそれを知っていたのだろうか。だから俺や隆くんを追いかけたのだろうか。
美春さまに追いかけられると、俺は絶対にそれまで考えていたことなんて忘れて美春さまと笑ったり怒ったりしていた。美春さまに深い意図はなかったのかもしれない、ただの偶然だったのかもしれない。けれどあの意味のないはずだった追いかけっこは俺の救いだった。ありがとうとお礼を言おう。きっとその一言で美春さまはわかってくれる。
しきくんと名前を呼んで追いかけてきてくれるあの小さな足音がたまらなく恋しくて熱くなる目頭を何度もやり過ごす。ぶっ倒れるまで走り続けて、あの子の顔を見たら、走ることが好きになれる気がする。