三題小説第二十九弾『南』『間者』『大河』タイトル「あるスパイの最後の仕事」
サン=リバ駅前広場には日暮れを前にして多くの人々が行き交っている。そこで誰かと誰かが会っていたとしても人々の記憶には残らないだろう。
私は広場の端にある時計をくわえた魚のようなオブジェを眺め、自分の時計を調整する。そして他の何人かと同じように、オブジェを囲むように備え付けられたベンチに座る。人を待つ為に。
最後の大仕事で彼が手に入れた情報は上手く使えば『北』を国際的に孤立させる事が出来る、と上層部は息巻いていた。
住民登録もされていない幼い子供達を用いて、違法な人体実験により優秀な人間を作ろうという目論見があるそうだ。それがどれくらいの成果を出しているのか正確にはは分からないが、相当の規模へと拡大しているようだ。
「あなたがセルゲイ・ネイハウス?」
話しかけてきた女には見覚えがあったが思い出せない。三十歳前後でコート姿。栗毛のウェーブがかった髪に薄い化粧。柔和な微笑みが印象的だ。
私は立ちあがってさっと周囲を見渡し、レオニードがまだ来ていない事を確認する。約束の時間にはまだ早い。彼はいつも常に丁度の時間でやって来た。
私はにこやかな表情を作りつつ周囲を警戒する。誰かがこちらを意識しているという事はないようだが。
「そうですが。あなたは?」
「私はオーリハ・コバリューク。あなたに届け物を持ってきました。父が持ってくるはずだったものです」
見ると右手にライトブラウンのビジネスバッグを持っている。レオニードの鞄によく似ている。レザーのくたびれた鞄だ。
「コバリューク? レオニード・コバリュークのお身内の方でしょうか?」
「娘です。父が亡くなりましたので代わりにこれを持ってきました」
思い出した。写真でだけ確認した事がある。協力者の身内は洗いざらい調べられている。彼女はレオニード・コバリュークの一人娘だ。
「亡くなった? レオニードが? なぜ?」
私は鞄を受け取りつつ湧き上がる疑問をぶつける。
オーリハは目を伏せて涙をこらえるように唇を噛んでいる。
「交通事故です。つい一昨日の事で。ドーシュチュ市内の、父の仕事場の近くで」
つまり彼の勤める新聞社の近くで、という事だ。
「そうですか。それは、お悔やみ申し上げます」
レオニードはとても注意深い男だ。交通規則を破る事などあり得ない。交通規則を守った上で二重三重の確認を怠らない男だ。
「いったいどういう状況だったのでしょう?」
「詳しくは分かりません。人通りの多い場所ではなくて、目撃者は車を運転していた男だけだそうです。その男も深く酔っていて、その場で捕まりましたが何も覚えていないそうで。今も取り調べ中なのだそうですが」
「そうですか。彼の方は決してルールを破らない男でしたね」
殺されたのか? いやそれならば現地協力者よりもまず非公式機関員の私を始末するはずだ。私は少し迷うが、オーリハに切り出す。
「少し歩きませんか?」
彼女の返答は想像していたものとは大きく違っていた。
「そうしなければ出来ないような話という事ですか?」
秘密の話を予感していたという事だ。一体この女は父親にどこまで聞いたのだろう。
「平たく言えばそういう事ですね」
私達はサン=リバ駅から郊外の方へ、真っ直ぐに突き進む商店街を歩く。彼女に警戒されても困るので、出来るだけ人通りの多い道を歩きたかった。
「彼がこういう仕事をしている事はご存じだったのですか?」
つまりスパイの、協力者の仕事をだ。
「ええ。よく話していました」
何と思えば良いのか分からなかった。当たり前だが、普通は自分がスパイだなどと誰かに話したりしない。勿論身内にもだ。そしてレオニードという男はそういう行為から最もかけ離れた男のように思っていた。厳格、厳密、厳重。
あまりにも突拍子のない行為をレオニードはずっと続けていたようだ。
「それは、その、何というか」
私は言いにくい言葉を街並みに探す。ぽつぽつと街灯が灯り始め、そこここの店から良い香りが漂ってきた。
「分かりますよ。呆れますよね。私でさえそうでした。最初は冗談だと思っていたし、本当だと証明された時には呆れました。私も多くの国民同様に『南』の事をよく思ってない人間の一人だったので憎むべきかとも思いましたが、スパイであると明かすなんて、おかしくって」
オーリハは皮肉っぽく苦笑した。私も似たような表情になる。
「彼はどこまで話していたのですか?」
「何も。ただスパイだという事だけ。証明の時だけ予言をして見せてくれました」
「予言?」
「ええ。政府の要人の誰かが更迭される、だとか。そういう予言です」
つまりそれ以上情報が漏れる事はなかった、と。彼は娘にだけ話し、娘は誰にも話さなかった。もちろん今彼女が本当の事を話しているとすればの話だが。
しかし実直な男だと思っていた。彼女と比べると表情に乏しいものの、仕事に対して至極真面目でいい加減な事はしない、そういう男だと、今までは思っていた。人間、内に何を抱えているか分かったものではない。
「実は彼の仕事は今日で最後だったはずなのです」
言わなくても良い事だが、言って支障のある事でもない。
レオニードは協力者の中でも古株だ。中枢に近づける人物として重宝していた。しかしこの最後の大物を手に入れた事を機に、我が国の情報部は再編成される事になった。
「……そうだったのですか。その後、父はどうなる予定だったのですか?」
私は彼女が考えている事を否定する。
「どうもしやしませんよ、『南』は。ただ彼が協力者だったという痕跡を一切消す事にはなるでしょうけれど」
少なくとも私はそう聞いている。もちろん上層部が本当の事を話しているとすればの話だ。
「そんな事私に話してしまってもいいんですか?」
「それこそレオニードと同じ? かもしれないですね。でも一つ提案があるのです」
ただスパイという事だけを父から聞いていた? 本当かどうか分からない。
「提案? 私にですか?」
「ええ。レオニードのお父様の仕事を引き継ぎませんか?」
彼女もまた新聞記者というスパイにうってつけの職についている事を私は知っていた。
実際の所、私に協力者を独断で選定する権限はない。ただ彼女ともう一度会う口実と連絡先を取得しておきたかった。もちろんこんな事をしなくても情報部として彼女の情報は一から十まで把握しているが、彼女が無意味に警戒を強めるのを避けたかった。
オーリハの携えて来た物は幾つかの書類と薬品だった。私には内容を理解できるものではなかったが、そのまま暗号化して祖国に送信した。返信内容によると薬品がなくてはどうにもならないらしい。私自身によって慎重に持ち帰る事が求められた。思いがけず帰郷する機会が与えられた。
そして改めて彼女の情報を全て取り纏め、出来得る限り自身でも調べ上げた。
レオニードが交通事故で死んだというのは本当だった。飲酒運転によってレオニードをひき殺した男は現行犯で逮捕された。当局の関与はないようだ。
ただし入手した監視カメラの映像は私の想像していたものとは違っていた。レオニードは明らかに信号を無視していた。もちろんこの国にも私の国にも信号を無視する者など五万といるが、レオニードに限ってはそういう事をしない、と私は思っていた。共に横断歩道を渡ったというはっきりとした記憶はないが。
確かに車は制限速度を遥かに超過してレオニードを吹き飛ばしているが、これでは彼が当たりに行ったようにも見える。表情まではぼやけて見えないが、その足取りには確固とした意思があるように見えた。
オーリハの経歴は父親がスパイであった事以外は平凡そのものだった。
私は全ての書類をキッチンで焼却処分した後、銀行員セルゲイ・ネイハウスとして慣れ親しんでいるアパートを出た。
オーリハと待ち合わせた場所は国境の町クヴィートカ、つまり彼女の住む町、そこにある喫茶店だ。国を二つに分ける大河を臨める高台にへばりつくようにある坂の町だ。喫茶店はその中腹辺りにあった。
オーリハは既にいた。ここもレオニードとは違う。普通は少し前に来ているものだ、と彼に何度か言ったが、レオニードは丁度の時間にこだわった。一度も遅刻はなかったので私も強くは言わなかった。
大河を見渡せる窓側の席に私達は座っている。
「こんにちは。すみません。待たせてしまって」
「こんにちは。いいえ、お気になさらず。待たせるより待つ方が好きなので」
「何か注文は?」
「コーヒーを既に」
私はウェイターに同じ注文をした。
「貴女はあまりお父上に似ていませんね」
彼女は私の意図を測りかねる、という様子で呟いた。
「正真正銘の娘です」
私は慌てて彼女の頭の中を否定する。
「ああ、いえ。何かを疑っている訳ではないですよ。個人的な印象です。ただの感想」
「そうですか。そうですね。母親似だと父もよく言っていました。私が生まれる前に死んでしまったので私にも分かりませんが」
「ああ、すみません。分かっていたのに」
「構いません。ネイハウスさんはご結婚は?」
「二回目が現在進行中です。子供が一人」
「お二人とも『南』ですか?」
「ええ、単身赴任ですね」
そう言って私は苦笑する。セルゲイ・ネイハウスの設定とは違い、私には今も一人目の妻がおり、子供はいなかった。しかし『北』へ来てから数ヵ月後に実際に子供が生まれ、セルゲイの設定と少し似てしまった。もちろん妻と別れる予定はないが。
「父よりも辛いのでしょうね」
レオニードと比較してどうなのかは知るべくもないが、もちろん辛い。正体が明らかになったスパイの処遇は大なり小なり差はあれど古今東西変わらない。特に喧嘩別れして以来平和条約の結ばれていない国家間においては命に関わる。さらに言えば『北』においては明確に死刑が規定されている。その重圧は心を蝕む。中には酒に溺れる者もいる。私とレオニードはその限りではないが。
「比較するものではありません。お父上も大変辛い思いだったでしょう」
あるいは娘に話したのは少しでも負担を和らげたかったからかもしれない。そんな考えは、とても当の娘には言えないが。
ウェイターが二人のコーヒーを運んできた。礼を言い、一口飲むふりをする。窓に大河の方へと飛んでいく渡り鳥を見た。もう南へと帰る季節だ。
私が机にカップを戻すのを機にオーリハは続ける。
「父の方が心が弱かったのだと思います。貴方と比べると相対的に。だから死んだ」
オーリハは監視カメラの映像を見たのだろうか。
「それはどういう意味ですか?」
「私は父が自殺したのだと思います。少なくとも死んでも構わないという程度に自暴自棄になった。あの映像を見れば分かります。貴方も見たでしょう?」
「そこまでは言い切れないと思いますがね」
だが、私という同僚と娘の意見が一致した事は重要な点かもしれない。
「私が父の仕事を引き継ぐという話ですが、お断りさせていただきます」
予想した結果だが、私は容認できない。情報が漏れている状況をそのままにしておくわけにはいかない。レオニードには申し訳ないが、オーリハには口を閉じてもらわねばならない。
「そうですか。どうにかならないものですかね?」
「ならないです。勿論どうにかするつもりなのでしょうけど、あまり下手な事はしない方が良いです」
どうやら甘く見過ぎていたようだ。実際の所はもっと多くの事を父親から聞いていたのだろう、と想像した。
「どういう意味でしょうか?」
「私が死ねば貴方に関する手持ちの情報が全て当局に伝わる手筈になっています」
つまりどういう事だ。オーリハ・コバリュークは『北』の指示で動いている訳ではないという事だろうか。もしそうなら私を自由にさせておく理由がないはずだ。つまりあくまで、とある『南』のスパイの娘として独自にこの行動を起こしているという事だ。
「何が目的だ?」
「何も。ただ平穏に暮らしたいだけ。そうね、貴方がスパイなんてやめて『南』に帰ることを条件にしようかな」
『北』で捕まれば死は免れない。かといってこのままみすみす国に帰るなんて事は『南』であっても許されない。そもそも単なる失敗と見なされるとは思えない。ともすれば裏切りであると断じられるかもしれない。
「私を、我々を怨む気持ちは分かるが、どちらを選んでも私を待っているのは死だ。選びようがない」
なんといってもレオニードを追い詰めたのは私だと言われたら返す言葉もない。私達は上手くやっていると今までは思っていたが。
「別に怨んじゃいないわ。父が選んだ仕事でしょう。別に強制されたわけでもない。どちらかと言えば、そうね、憐れんでいるわ」
「憐れみ? 私に?」
オーリハはまた一口コーヒーを飲む。
「ええ。貴方にも子供がいるのでしょう? そう、確かスパイは子を持つ事を推奨されているんじゃなかった? 裏切らないように」
「子供とまでは。ただ恋人がいた方が情にほだされて裏切るなんて事がなくなると言われているな」
私はまだ見ぬ自分の子供を想う。確かに『南』を裏切るなどという選択肢は私の中にないが、それは子供の有無とは関係ない。
「私の父は、レオニードは私のために死んだのだと思う」
「どういう事だ? 彼が死ぬ事が貴女の利益につながるとは思えないが。言っちゃなんだが、彼は生命保険にも入っていなかったね。『南』の払いも悪くはないはずだ」
「当局は父の尻尾を掴む直前だったのよ」
「何故わかる」
「父が死んだ時遺書が残されていた。そして遺書に従い父がスパイだったと分かる証拠を隠滅した」
「つまりその事が当局に知られれば貴女にとって不名誉だからという事か?」
「不名誉なんてものじゃないわ。私がその一部門の人間だから」
公安警察。
オーリハは沈黙したが私は先を促した。
「私の地位を守る為に死んだという事」
「君達はお互いの素性を知っていたんだな?」
「当然よ。ただ基本的にお互いの仕事には触れたりしなかったけど」
そんな奇妙な事があるだろうか。スパイと公安警察の親子。お互いを利用する事も邪魔する事も無かった。
「それで何故こんな話を?」
「要するに情に訴えたかったのよ。貴方も我が子のためになる選択をしてはどう?」
いずれにせよ高確率で私は命を狙われるというのに、どちらが我が子のためになるというのだろう。
「どちらも大して変わらない」
「どちらも? 何故二択なの? もしかして『北』か『南』か?」
「それ以上には分裂していないはずだが?」
「第三国に逃げれば良いじゃない」
「家族というのは時に首輪にもなる」
「なるほどね。でも忘れてない? 貴方は両国にとって重要な代物を持っている」
あんな薬品が? いや情報部の一連の対応からかなり重要視しているらしい。
「祖国を裏切るのか」
「あら。案外踏み出してみれば簡単なものよ」
「覚悟を決めるしかないか。それにしても君は……」
「待って。銃は持っている?」
「ああ」
「嗅ぎつけられたみたい」
私は悪態をつく。
「おそらく踏み込むつもりはないと思うから、さっさと出て行きましょう」
「どうやって?」
「店の裏に車を停めてあるの。トイレにでも行くふりをしてそれを使って。二手に分かれましょう。後の事は自分で何とかして」
「君はどうするんだ?」
「ここは私の生まれ育った町よ?」
「分かった」
「それじゃあお先に出て行っていいかしら」
少し腰を浮かしたオーリハを制する。
「待て。一つ聞きたい」
「何かしら?」
「結局貴女がこういう行動に出た理由が分からない。レオニードが娘のために死んだというが、それなら貴女はその行為を無駄にしているじゃないか」
オーリハは立ち上がって私を見下ろす。
「最後の情報についてはどこまで知ってるの?」
「有能な人間を作る研究。子供に対する人体実験」
「そう。それに息子が使われている。。要するに父さんと同じ、そして貴方とも同じね。子供のためよ」
オーリハは立ち上がり、私の頬を思いっきり叩く。
「あんたっていつもそうね! もううんざりよ!」
そう言って彼女は肩を怒らせてトイレのと裏口のある方へと歩いて行った。
数分後に私は心配そうな態度で裏口へと歩く。裏にだって誰かが待機しているだろうに外は何の騒ぎにもなっていない。地下トンネルでも掘ってあるのだろうか。
私はドアの隙間から車の存在を確認し、息を整える。まだ見ぬ子供に思いを馳せる。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
ご意見ご感想ご質問お待ちしております。
久々に難産。
知らないものを出すべきではない。
あとラストを決めずに書き進めるのは疲れる。