青春の輝き
神奈川県は高校野球の名門が集う地域だ。全国制覇をした学校もある。私の住む市内にも名門校があるし、夏の大会でベスト4まで進んだこともある。
「父さんも、今攻撃してる高校だったんだよ。僕の時は強かったんだよ。自慢じゃないけど」
夏休みも8月後半。網戸にして開け放した窓から虫の声や近くの家から子供の甲高い声が時々聞こえる。あれは斜め前の静香ちゃんかしら?
テレビにはクリーム色のようなベースカラーに帽子と袖がネイビーブルーのユニフォームを着た選手がバットを構えていた。幾人かプロ選手も輩出したという。かつては活躍していた気もするけど、最近は見なくなった。
「木下っているだろ。プロに。外国行ったけど」
そういえばそんな名前だったかもしれない。アイツはすごかったよ、と父は言うけれど、その選手は父より20歳以上後輩のはずだ。海外に行っていたとしたら、私が最近の彼を知らなくても無理ないかもしれない。今の、この第四試合は、9回表、相手に2点リードされている。
「ここ2.3年の母校は誇れたものじゃないね」と、父はビールを飲んだ。
前に見た両親の昔のアルバムに、父の高校時代の写真も残されている。両親がデート中の写真や一緒に行った旅行先で撮ってもらった記念写真がほとんどだけれど、その中に両親別々の写真もある。父は野球部だったらしい。テレビとほとんど同じユニフォームを着て、2人並んでしゃがみ姿勢で写真に納まっているものがあった。相手は木下選手ではなかったけれど、父は甲子園のグラウンドでマスクをかぶったことがあると言う。
「お父さんの時の試合はどうだったの?」 何気なく訊いてみた。
若かりし頃の親を知るのは未来の自分たちを占うようで気兼ねするけれど、自分たちもまた彼らに似ていくのだろうし、人生の伴侶を選ぶ時にも大きな影響があることを思うと避けて通れない気がした。
「あまり触れて欲しくない部分だな」とビールのコップを置いた。
この試合に勝てばベスト8っていう試合だった。僕は補欠だったんだよ。と父は苦笑いした。
「7回だったと思う。敵軍の攻撃でね、ホームに滑り込んでくる向こうの選手とウチの正捕手…キャッチャーが交錯してね。結果はアウトだったんだけど、キャッチャーが肩を痛めてしまった」
「怪我したの?」 うんと低く唸るように頷く。
「試合後、病院で診てもらって、大事には至らなかったそうだけど」
自分は痛くないのだけど、指なんかをぶつけた時に「痛い」と言ってしまうようなとっさの心情が私の中にうずいた。
「今はそういうことしないように教えられてるんじゃないかな」。ビールで喉を潤した。いつにもまして苦みを感じている気がした。
「田口…っていうんだけど、そいつはそれでも続けたいと訴えた。正捕手のプライドもあったんだろうね。だけど相手は盗塁を多用する戦術で有名な学校だった。今のお前じゃ刺せない。みんなそう思ったんだ」
「それでお父さんが交替したの…」 そういうことだね、とテレビに目をやった。
味方のピッチャーの球を熟知していたわけじゃないけど8回は何とか抑えた。田口という人に色々と話では聞いていたという。父の話を聞きながら私は想像してみる。
9回、1アウト一塁、スコア2―2。走者は俊足の村松。ここは絶対に走ってくる。球場にいる皆が予想していた。村松にはそれでも決められるという自信がこれまでの試合からも伺える。「絶対刺す」。一塁にリーチを取る村松を睨みつける父。
ピッチャーに要求するのは外角低め。バッターは守備妨害にならないように気をつけながら、ちょっかい程度にバットを出してくるだろう。それでもかまわない。
「見てろ!」
村松が走った。ボールは要求通り。バッターはバットを出しへっぴり腰になる。父はそれを避けるように二塁へ送球する。ボールが浮いた。父の心臓がやばいと叫ぶ。あるいは「頼む。抜けるな」だったかもしれない。浮いたボールは外野まで行くことはなかったけれど、セカンドの選手がジャンプして父のボールを何とか受け止める。息巻きすぎたのかもしれない。
くそっと思う父とは裏腹に村松は「当然だ」という顔で悠々と二塁ベースでユニフォームの砂をはらっている。
「そのあと、長打を打たれてサヨナラだよ」と、手首を弛緩するみたいに振った。
テレビから甲高い音が聞こえた。おっ、という顔を父がテレビに向ける。
必死に立ち上がって、二塁は間に合いそうにない。一塁に送球する相手の内野手。お腹から滑り込んでいく打者。画面の右端に映った一塁審判は拳で天を突いた。アナウンサーの興奮した声と観客の歓声のなか、打者はお腹についた泥を払うことさえ忘れて袖で両目をこすった。
「ナイスファイト。送ったと思えばいい」
父は大きく頷いた。
アウトは少しでも少ない方が良いはずだ。けれど父はそうしてテレビの向こうの後輩を励ました。監督と思しきおじさんは腕を組んで表情を変えない。
「監督の人も拍手くらいしてあげても良いのに…」
「今は僕にも部下というか、後輩がいるから理解できるんだけどね。監督にとっては選手たちの頑張りが報われないのを見ることが一番辛い。だけどそれは相手だって同じことなんだよね。だから苦い顔をしながら本当は褒めてやりたくて仕方ないんだと思う。ヘンに慰められたら余計辛いんだ。やっと正捕手の座を射止めたのに、ベンチに下がるを得なかった田口の無念さも、僕の村松との力の差も監督は痛いほど理解してくれてたはずなんだ」と父は言った。
打者は沈んだ顔で監督の前を通り過ぎた。それでも監督は帽子を深くしたまま動かなかった。
でももしかしたら帽子の下では「俺にも経験がある」と言わんばかりに、その表情は無念さに満ちていたかも知れなかった。
もちろん私だって正午とケンカした時なんかに泣くことはある。だけど後から考えれば、どれも何てことないちっぽけなことで、さっきの打者のように悔しさに涙したり唇を噛んだりするようなことが今の自分にあるだろうか。
ただ何となく大学へ進んでやりたい事を探すとか、味見程度にちょっとだけ働いてみて、後は正午と結婚して家庭に入ってしまえばいいなんて軽く考えていないだろうか。悔し涙を流した高校球児の姿がまた浮かんで、少し戸惑った。
久良岐公園には小さい池がある。公園からすれば十分の一くらいという意味だけど、公園自体が大きいから池もそれなりに広い。6月になると池の先がホタルの踊り場になる。時々、地元のおじさんたち主宰でホタル観賞会がある。私たちはどちらかと言えば地元民だし、あまり行こうとは思わない。鑑賞会に参加しようと思うのは観光客の人がかなり多いという。
もともとあるのか知らないけれど、「ケータイやカメラでの撮影禁止」という看板がたくさん立っている。光や音が苦手だからそういう物が多いと出て来てくれなくなるらしい。私たちは開催日には参加せず普段の水曜日に見に行ってみることにした。
季節だけあって、いつもよりは人が多い気がする。それでもホタル目的の人は少ないらしく、まばらな人の中を歩いて行く。夜の七時半くらいからホタルが動き出すそうだ。どうしても子供たちはちょっと騒いでしまうけれど、気を利かせたホタルたちが光って見せたり、ヒラッと舞ってみたりしてくれた。
「水中から目覚めたと思ったら、恋の季節…1週間くらいだけど、まさしく命を削って恋の相手を探すのってすごいよな。もし人間が子孫を残すためだけに生まれるんだとしたら、オレならちょっと寂しいかな」
「そりゃ人間だもの」と何気なく、有名な詩人の言葉をつぶやいていた。
「だけど、ホタルみたいに短いからこそ一生懸命生きて自分の人生を振り返った時に悔いがなければそれで良いのかもしれないな」
池の先に着き、一つ二つと揺れる光を見ながら正午は言った。もしかしたらこの時には先生の異動のことを知っていて悩んでたんじゃないだろうか。もうそうなら、ちゃんと言ってくれれば彼女としてできることをもっとゆっくり探せたのに。彼が去った後で想い出に残った写真に語りかけた。
「正午が人生を振り返る時にはもちろんそこに私もいさせてくれるんでしょ?」
「だといいな」
「だといいなって何よ?」
この頃はもうこんなちょっとドキッとするかもしれない言葉にも軽く返せるようになっていた。飛び去るホタルを追いながら正午へと視線を移す。星空を見上げる正午に倣って私も空を見上げてみた。
子供たちの声はまだする。大人たちもやはり浮かれた気持ちは隠しきれないらしく、ホタルを見つけては声を上げている。
「オレたちの人生なんて宇宙の時間から言えばホタルの1週間みたいでも、やっぱり70年80年あるからな。何があるかは分からない。でもミカのことはどんなことがあっても諦めたくない。そう思い続けると思う。ミカが望んでくれるなら年取った時お茶でも飲みながら、今日みたいに、何だお前たち、小難しいこと考えおってなんて今日の2人を笑い飛ばしたいな」
今はおじいちゃん言葉なんてないけどね、と私は笑った。
「それで私の胸で、おやすみなさい。するのよね?」
「お互いシワクチャの手と手を合わせて眠るのも悪くないな。マジで」
昔を想い見て眠る老いた両親に、今はもうわがままの時期を過ぎた娘が、2つの肩にタオルケットを掛けてくれる。そんな景色を私は胸の中に映しながら、元来た道を引き返した。