第36章:鍛錬
音楽に憧れ狂ったように楽器に向き合う宮下は、師匠の勧めで吹奏楽部でパーカッションの道を選ぶ。
それまで音楽というものから一番遠い場所で息をしていたはずの私は、あの圧倒的な響きを放つ背中に少しでも追いつきたくて、狂ったように楽器に向き合った。
朝はまだ世界が青く静まり返っている四時に目を覚まし、冷え切った部屋でマウスピースに息を吹き込んでから学校へと向かう。放課後になれば足早に帰宅し、日が暮れるまで音を鳴らし続け、決められた日には迷うことなく師匠の待つ場所へ通いつめた。そんな反復だけの毎日が、私の世界のすべてだった。
中学校への進学を間近に控えたある日、私は意を決して師匠に尋ねた。
「先生、僕中学生になったら吹奏楽部に入ろうと思うんですけれど」
「いいじゃん!やんなよ!」
「吹奏楽でもサックス練習できるしって思って」
軽い気持ちで口にした私に、師匠はフッと表情を引き締め、容赦のない言葉を投げつけた。
「あぁー、宮下くんさ、吹奏楽でサックスやっちゃダメだ。サックスは俺の所だけで吸収しなさい」
「え??!じゃぁ先生、何をやれば」
「あのね、パーカッションやりな。リズム感を徹底的に叩き込みなさい」
予想もしなかったその提案に、私は言葉を失い、ただ目を見開くしかなかったのだった。
中学生になった私は、師匠の言い付け通り、吹奏楽部のなかで迷うことなくパーカッションのパートを選んだ。
そこに並ぶ楽器は、名前や形こそどこかで見たことがあっても、正しい扱い方なんてひとつも分からない未知のものばかりだった。だからこそ、どの打楽器に触れても新鮮な驚きがあった。
クラシックの厳格な響きの中ではバスドラムやシンバル、ティンパニを重々しく鳴らし、ジャズやポップスの華やかなリズムに乗るときは、コンガやボンゴといったラテン楽器を夢中で叩いた。どの楽器も覗き込めば込むほど底が知れず、リズムを刻むだけのシンプルな道具だと思っていた打楽器が、これほどまでに繊細で、叩く人間の血肉や色彩をありありと映し出してしまうものなのかと、私はそこで初めて思い知らされたのだった。
部活のたびに繰り返されるのは、地味で退屈な基礎練習ばかりだった。ひたすらスティックを pad に打ち込み、身体の芯に正確なリズム感を染み込ませていく――その単調な日々の積み重ねこそが、私の音楽の土台となっていった。
中学三年生になった私は、文字通り多忙を極めていた。
部活ではパーカッションの核として重要なポジションを任され、気がつけば周囲に推されるように生徒会長のイスまで引き受けることになっていた。吹奏楽部の重いリズムを背負い、生徒会室で山積みの雑務を片付け、わずかな隙間を縫うようにして師匠の元へと通う。それはまるで、息つく暇もない機械的なローテーションのようだった。
それでも、その慌ただしい日々の中心にはいつだってあの冷たい銀色の楽器と、師匠の厳しい眼差しがあった。私はただ、目の前の役割をこなすことで、自分の輪郭を必死に保ち続けていたのだった。
毎日のようにスティックを振り下ろし、泥臭い努力を積み重ねてきた日々は、決して裏切らなかった。その実力が認められ、私は部活動推薦という切符を手に入れて、そのまま高校へと進学したのだ。
進学先は、誰もがその名を耳にしたことがあるような、全国に名を馳せる吹奏楽の名門校だった。
高校時代の私の生活は、文字通り部活という名の奔流に押し潰されそうになる日々だった。
一、二年生のうちは、マーチングの全国大会で頂点を獲ることだけが、すべての目標だった。楽器を抱えて鳴らしながら、足元のコマ図通りに寸分狂わず歩行し、全員の身体でひとつの巨大な幾何学模様を描き出す過酷な競技。そのなかで私は、地鳴りのような低音を担うバスドラムを任されていた。
「宮下!!ラインズレてるぞ!!しっかりインターバルあわせろ!!」
「すみません!!」
「はい、じゃぁ練習番号Aから動き付けてもう1回!」 「はい!!」
一年の春、マーチングなんて触ったこともなかった初心者である私にとって、そのすべてが胃の痛くなるような厳しい訓練だった。楽譜を完全に頭へ叩き込み、楽器を完璧に鳴らし、歩き方の基礎から「ドリル」と呼ばれる複雑な移動のコマ割りまで、すべてを同時にこなさなければならない。息をつく暇なんて、一瞬たりとも存在しなかった。
朝はまだ夜が明け切らない五時半に自宅を自転車で飛び出し、冷え切った音楽室の見える廊下の角で鍵が開くのをじっと待つ。ドアが開いた瞬間に駆け込み、先輩たちが使う楽器のカバーを手際よく外していくのだ。 カバーの正しい畳み方や、指定された置き場所まで厳密にルールが決まっており、少しでも形が崩れていれば容赦なく怒声が飛んだ。
「おい、このカバー外したの誰だ」
「はい、私です」
「おい、二年、こいつに教えてねぇのか? しっかり教えろよ」
一年生の面倒を見るのは二年生の役目だったから、私たちの小さなミスがそのまま、直属の先輩たちの責任として跳ね返る仕組みになっていた。
「申し訳ございません。きちんと指導して参ります」
三年生の先輩の前で、二年の先輩が深々と頭を垂れる。その背中を見るたび、胸の奥がキュッと締め付けられるように辛かった。
「辻元先輩、申し訳ございませんでした」
けれど、私が青い顔をして謝罪すると、その先輩は困ったように笑った。
「大丈夫!畳み方練習しよ?」
辻元先輩は、いつだって驚くほど優しかった。自分のせいで怒られたというのに、責めるどころか寄り添って手取り足取り教えてくれた。
「まずここを折るでしょー、そして、ここを……こう!で三つ折りにする感じで……こう!ね??わかった?」 「はい!」
「じゃぁ、やってみて?」
「ここを……こう、、、できました!!」
「おぉ!!できるじゃん!!もう大丈夫だね!」
「ありがとうございます!!」
張りつめていた緊張が一気にほどけて、先輩の優しい笑顔を見るたび、私はここで絶対に食らいついていかなくてはならないのだと、心の中で固く拳を握り締めていたのだった。




