番外編2 世界一優しいはじめましてを君から
「第一章10 はじめましてから、もう一度」の裏側を描いた、アリア視点の番外編です。
恐怖に震えながらドアを開けたアリアを待っていた、世界一優しい『はじめまして』の結末とは──。
ギチ……と、油の切れた宿屋のドアが静かに内側へと押し開かれる。
私の心臓は、もう爆発してしまいそうなほど激しく脈打っていた。
冷たい目。
不審者を見るような視線。「君は、誰?」という、すべてを失った人特有の突き放すような声。
どんな拒絶が来ても、絶対に笑顔のままで受け止めるんだと、奥歯をきつく噛み締める。
水色の瞳に今にも大粒の涙が溢れ出しそうになるのを、目元の筋肉を必死に緊張させて奥へと押し戻し、私はベッドの縁に腰掛けているカナタの前に進み出た。
「おはよう、カナタ。……よく眠れた?」
なるべくいつも通りを装って、フンスと細い鼻を鳴らして胸を張る。
そして、昨日から宿の鏡の前で何度も何度も練習した、極上の笑顔を彼に向かって作った。
それは、間違いなく私の人生の中で、一番の笑顔だったはずだ。
「あっ……はじめまして!私は“アリア”。よろしくね、カナタ!」
宿屋の室内に、私の元気な声が響き渡る。
1ヶ月かけて必死に育んできたはずの二人の絆を、あえて自らの手でゼロに戻すような、あまりにも残酷で、せめてもの救いのような、約束のはじめまして。
だけど、カナタはベッドの縁に腰掛けたまま、完全に硬直していた。
唇を硬く結んで、まるで魂が抜けたような顔をして固まっている。
その反応に、私の胸の奥がぎゅっと、猛烈に締め付けられる。
やっぱり、私のことなんてなーんにも覚えていないんだ。
昨日まであんなに優しく笑い合っていたのに、今の彼の頭の中は、完全に白紙になっちゃったんだ。
ここで私が泣いてしまったら、カナタを困らせてしまう。
私は作った笑顔を崩さないように必死に耐えながら、探るようにゆっくりと、ベッドのすぐ側まで近づいた。
そして、いつもの調子を真似して、少しだけ悪戯っぽく小首を傾げてみせる。
「ふふ、どうしたの?そんなに魂が抜けたような顔をして固まっちゃって……。もしかして、別の世界から来たばかりで、言葉が通じないのかな?それとも……何か大切な『合言葉』でも忘れてる?」
顔を寄せた私は、祈るような気持ちで合言葉を口にした。
「──『銅貨9枚と、鉄貨41枚』。」
その数字が、私の小さな唇から、宿屋の静まり返った空気の中にぽつりと落とされた。
これでおしまいになるかもしれない。
何もかもが、もう届かないのかもしれない。
ただの、私の一人よがりなおまじないで終わってしまうかもしれない。
カナタの顔を覗き込んだまま、私はじっと、彼から返ってくるはずの言葉を待った。
水色の瞳の奥に溜まった涙の膜が、朝日の光を浴びて、今にも堰を切ったように溢れ出しそうだった。
それでも私は、記憶を失ったカナタを絶対に不安にさせたくなくて、世界一可愛い笑顔を必死に維持したまま、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。
──お願い、カナタ。お願いだから、私を思い出して──。
私の胸の内で叫んだ祈りに応えるように、カナタは、ふっと息を漏らした。
その唇の震えは、いつの間にか止まっていた。
代わりに、彼の顔に浮かんだのは、過去の自分に対する呆れと、そして、もっと別の、とても温かい感情だった。
「アリア。」
「ど、どうしたの……?やっぱり、意味が分からなくて困惑しちゃった?いいのよ、別に、ただの私が考えたおまじないみたいな──。」
「お前さ、やっぱりどこまでも心優しい、最高に可愛い女の子だな。」
「……え?」
カナタの口から滑り込んできたその言葉に、私の頭は真っ白になった。
必死に作っていたはずの完璧な笑顔が、その一言によって、嘘みたいにピキリと凝固する。
「な、何言ってるのよ、カナタ……?あなた、記憶が消えちゃって、私のことなんて、なーんにも……。」
「あぁ、記憶はないよ。お前とどこで出会って、どんな風に笑い合って、どんな大騒ぎを起こしたのか、俺の頭の中は綺麗さっぱり白紙のままだ。」
カナタはそう言って、隠すようにシーツの上に伏せていた左手を動かした。
その指先で、しっかりと握りしめられていた一冊の、見覚えのある黒い冊子──『黒い手帳』を、私の視線の先へと、わざとらしく差し出してみせる。
「だけどさ──1周目の俺を、ナメないでほしいな。」
カナタはニヤリと、少しだけ不敵に、あの頃と同じように笑ってみせた。
「この手帳に、お前のことがびっしり書かれてるんだよ。4月17日にギルド長官のオズワルドをレジ袋のバグで完全攻略したことも。お前が敵である長官の身すら案じる、優しすぎる女の子だってことも……。そして、もし俺の記憶が消えて、お前が『銅貨9枚と、鉄貨41枚』って合言葉を口にしたら、世界の誰よりもお前の味方になれって、過去の俺が狂ったように命令してきてるんだ。お前が彼女のヒーローになるんだ、ってさ。」
「あ……、あ……。」
私の薄い唇が、小さく震えて音を零した。
視界が激しくにじんで、歪んでいく。
カナタが誇らしげに差し出しているその黒い手帳が、涙のせいでぼやけてうまく見えない。
記憶が消えたのは、嘘じゃないはずだ。
私の名前も、二人で過ごした日々も、全部真っ白になってしまったはずなのに。
──どうして、この人はそんな風に笑えるの?どうして、そんなにも優しい目で、私のことを見つめ返してくれるの?
手帳に刻まれた文字は読めない。
けれど、そこにどれほどの執念が、どれほどの熱量が込められているかは、カナタの言葉を通じて痛いほど伝わってきた。
昨日の夜、私を安心させるために、自分が忘れてしまう恐怖と戦いながら、この人は一人で必死にこの手帳を書き殴っていたんだ。
すべてが白紙になる世界で、ただ私を一人にしないためだけに。
「記憶は消えたよ、アリア。でも、俺の『覚悟』だけは、この世界のどんなバグシステムでも消せなかったみたいだ……。だから、はじめまして、アリア。1周目の俺の遺言通り、今度は2周目の俺が、お前のヒーローになりに来た。よろしくな。」
私の完璧だったはずの笑顔は一瞬で崩れ去り、こらえきれなくなった涙が両手で覆った顔から止めどなく溢れ出した。
夜を超える恐怖も、独りで「はじめまして」と微笑む練習をした苦悩も、すべてを包み込んでくれるカナタの優しさが嬉しくて、私は子供のように声を上げて泣き続けた。
世界がどれほど過酷な忘却の呪いを仕掛けようとも、私たちの絆は今、彼の遺した覚悟によって、再び強く、固く結ばれたのだ。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
第一章10の裏側で、アリアがどれだけの恐怖を抱え、そしてカナタの遺した手帳にどれほど救われたのか。
彼女の一途な感情の爆発を、どうしてもアリア自身の目線から描きたくてこの番外編を執筆しました。
忘却の朝を乗り越えて再び強い絆を結び直した二人ですが、世界の残酷なルールは決して彼らを逃がしてはくれません。
次回からは、ついに新章が開幕します!
第二章のタイトルは『猜疑を生む記録』。
無事に3ヶ月目の朝を迎えたはずのカナタが手帳を開くと、そこには目を疑うような『不穏な文字』が刻まれていて──。
第二章は10月3日18時10分より開幕します!
新章も怒涛の展開を用意していますので、続きが気になる方、アリアを応援したいと思ってくださった方は、ぜひ本文下の【☆☆☆☆☆】の評価で応援よろしくお願いいたします!




