貴方はこの結婚生活の終わらせ方を知っている【連載版はじめました】
お読みいただきありがとうございます。
熱い熱い中を、必死の思いで歩き続ける。それでも終わりは見えなくて。何度も立ち止まって、後ろも前も真っ暗なことに身震いしまた歩く。
もう駄目。――直後、誰かに手を取られた。冷たくて骨張った手。不思議と怖くないそれに導かれるようにして、視界が白く開けていった。
◇
エリーゼははっと目を覚ました。見知らぬ天井がこちらを見下ろしている。
重い体を無理矢理起こそうとすれば、丁度入って来た侍女の方々が丁寧過ぎるほどの甲斐甲斐しさで体を起こしてくれる。だがその顔に見覚えはない。
ふるりと身が震える。
一体何が起こってしまったというのか。小説で、知らぬ間に攫われ人体実験されるという話を思い出す。
まだ、十四歳なのに……。悲嘆に暮れていると、一人の男性が入室した。
黒い長髪の男性もまた見覚えはなく、エリーゼより随分と年上のようであった。表情は硬いがその瞳には隠しきれない安堵が滲んでいて。どうしてそんな風に見つめられるのか分からず困惑する。
侍女と何やら小声で話していた男が、エリーゼの側に来た。
はたと、足取りが止まった。なにかに気づいたように。エリーゼの困惑に気づいたのかもしれない。
「……エリーゼ?」
思ったことを、素直に口にする。
「――……ここは、どこでしょうか? ごめんなさい、もしかして体調を崩したわたしを介抱してくださったのですか? 貴方のお名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
瞬間の、彼の表情は。決して、見知らぬ他人がする表情ではなかった。
◇◇◇
「熱による記憶喪失ですかね。あまりない事例ですが、高熱を出していたのでありえなくはありません」
やって来た医者に、エリーゼはこんこんと説明される。
湖に落ち、熱を出したこと。本当の年齢は二十歳で、六年間もの記憶を失っていることを。
「わ、わたし今十四歳だと思っているのですが、本当は二十歳なのですか……!? えっと、そのぉ……年齢を偽っている変な人とかではなく……」
なんてこと! さっきから十四歳十四歳と、困った顔をする彼らの前で連呼してしまった。恥ずかしくて慌てて弁明すれば、男に優しく宥められる。
「分かってる」
「嘘つきではないと信じてくれるのですか?」
目をパチクリさせてしまう。
「君は変な嘘をつく人ではない」
きっぱりと断言され。妙に気分が落ち着いてしまった。医者にも慰められ、いつもの調子を取り戻す。
動揺してばかりではいられない。これでは余計に迷惑をかけてしまう。
「そういえば、先程は聞けませんでしたね。お名前を聞いてもよろしいですか?」
「……私はアリアシネ侯爵家の当主ハーゲンだ。そして、君の夫でもある」
「え……っ、お、夫ですか?」
顔が真っ赤に染め上がる。改めて目の前の人の顔をまじまじと見つめる。少し硬い表情の、長い黒髪に青い瞳を持つ顔を。
どんな熱烈なプロポーズをされたのか、いつもはどんな笑顔を浮かべているのか……瞬間的に様々な想像が頭を駆け巡ってしまった。何度も、私の旦那様……と呟いてしまう。
顔がどうにもニヤけてしまって、とりなすように手を差し出した。
「あの、手を繋いでくださいませんか?」
「あぁ、構わない」
自分とは違う、骨張った手。この手の感触を知っている気がして、えへへと笑みが零れた。
眉尻を下げる彼に、そっと問われる。
「君は、嫌ではないのか? 君と二十ほど年が離れている男と結婚していると、急に言われて……」
「……貴方の姿に関係なく、戸惑いは、しています。ですが、わたしが目覚めてからずっと優しくしてくださる貴方に、嫌悪感のようなものは抱きません」
むしろドキドキが止まりません! とまでは言えず。代わりににこりと微笑んだ。
「不束者ですが、よろしくお願いします旦那様」
返事に間が空く。遅れて彼は、目を閉じ頷いた。
◇
翌々日。エリーゼの母がやって来た。ハーゲン曰く、車をかっ飛ばして来てくれたらしい。
「エリーゼ、どこか辛いとこはないかしら?」
大切にこちらを労る、よく知っている声。やっぱり緊張していたようで、心がほどけていく。
そのまま二人きりになった。
「それで、その、エリーゼはどこまで今の状況を分かっているのかしら?」
「えっと、わたしには旦那様がいることと。……それから、心臓の病気で、もう長くないとお医者様に言われました」
「そう」
ベッドに座るエリーゼを、母は抱き締める。
――医者は、混乱している中申し上げるのも酷ですが……、と切り出した。だけどエリーゼだって、薄々感づいていた。体がいつもより重いのは、昔から病弱なことだけが理由ではないと。
遂に、先延ばしにしていた死がすぐ目の前に。心が少し苦しい。にこ、とエリーゼは話を変える。
「そ、そういえばわたしと旦那様の馴れ初めはどのようなものだったのですか?」
「そうねぇ」
抱き締めたまま体をゆらゆらする母。寝付けない夜によくやってくれた動き。そっと体を預ける。
「貴女がね、アリアシネ侯爵卿と結婚したいってアプローチしたのよ」
「えぇ……っ。そうなのですか?」
まさかの。恥ずかしくて顔が赤くなる。
「……じゃあ、旦那様はわたしのこと好きではありませんか?」
それなら、少し冷たさを感じるのも当たり前と言えた。肩を落とせば、そっと背を撫でられる。
「どうかしらね。彼が貴女のことを、恋愛的な意味で愛しているかは分からないわ。でも、わたくしたちがエリーゼを愛するように、愛してくれているはずよ。貴女が病気だから……だなんて同情だけでここまでしてくれる人はいないもの」
「そうです、よね」
帰る母を、ベッドに座ったまま見送る。
――わたしは、彼のどこを好きになったのでしょうか。
そんな問いが堂々巡りした。
嫌いではない。知らないから、こんなにも空虚に心を巣食われる。
「旦那様……」
ポツリと呟けば、当の本人がノックと共に入室した。
温かい紅茶を差し出され、口に含めば薔薇のような甘い香りが広がる。
「ありがとうございます、旦那様」
「あぁ。エリーゼ、君は……フェンテッド伯爵家に戻りたいと思うか?」
「……え?」
唐突に問われ。目を見開いてしまう。
言葉不足を自覚しているのか、彼がごほんと咳払いをした。
「君は私を知らない。他人同然のようなものだろう。そんな君の――エリーゼの時間を私が使うことに酷く苛まれるんだ。だから、離縁しないか」
片膝を着き、エリーゼの手を取ったハーゲンは訥々と語る。もっともっと驚いてしまった。
どうしてこの人は、こんなにも寂しい提案を、何でもないように言うのだろう。
「そんなこと、仰らないでください」
じわり、涙が滲む。目の前から、ふっと苦笑の音がした。
「君は変わらないな。ゆっくり考えなさい。私はいつでも、君の本当の気持ちを待っている」
ハンカチを目尻に押し当てられ。彼はそのまま去っていく。
気持ちだけが定まらないまま、エリーゼは唇を噛み締めた。
◇◇◇
ベッドに潜る。これからを考えても答えは出ない。最後の日に、母たちと共にありたいと思う。けれど、何も知らないままで後悔しないのかとも考えた。
体を丸め、目を閉じる。
――不思議な夢を見た。きらきら光るものを、辿るように拾い集める。
最後に、青い箱が目の前に置かれている。
あ、と目が覚めた。青い箱が頭の片隅に残っている。体を無理に起こし、青い箱が置かれたドレッサーへ壁伝いに進む。
「わたしの、宝箱……」
本当に大切な物だけを入れた、エリーゼの宝箱。
手に取れば想像より重くて。慌てて両手で持ち、支えをなくした体は床に倒れ込む。
毛の長いもふもふの絨毯のお陰で痛みはない。胸に掻き抱いた宝箱も、無事なようだった。
起き上がることもできず、諦めて宝箱を開ける。
瞬間、エリーゼは息を呑んだ。知らない物で、埋め尽くされていたからだ。
小花がついた青いリボンに、小さな宝石が収まった、繊細な作りのネックレス。金で作られた意匠が凝られた指輪。
「…………」
一人、顔が思い浮かぶ。パタンと蓋を閉じ宝箱を一層強く抱き締めた。
そこで、
「エリーゼ、どうしたんだっ」
件の人が、顔を青くして少し開いていた扉から入室した。隙間から見えてしまったのだろう。
そのまま横抱きにされる。ベッドの上にエリーゼを下ろしたハーゲンは眉尻を下げた。
「それで、どうしたんだ」
「……これを、見てました」
そっと手を開く。ハーゲンの青い瞳が、箱についた金具に反射した。
「わ、わたし、この宝箱には本当に大事なものしか入れないんです……っ。現に、十四歳までのわたしは三つしか入れてません! 大変だったんですよ、お父様やお母様、お兄様から何か貰う時はお菓子をお願いしたり」
話せば話すほどに考えはまとまらなくなって、目尻に涙が溜まっていく。
唇の端が震えた。
「だって天国で、これ以上は重いから持っていけないよ、って言われたらとても悲しいですもの……。っそれなのに、それなのにっ。こんなにいっぱい入ってるんです!」
未来の彼女にとっても、この箱に入れる条件は変わらなかったはずで。それなのに、沢山の物が入っていた。少し壊れている物もあったけど、それにすら、愛おしさが触れた指先から伝わってくる。
「きっと、旦那様がくださったものですよね?」
「あぁ。君の、誕生日に贈ったものだ」
「やっぱり」
思った通り。母が言うくらい『エリーゼ』は夫を愛していたから。第一候補は彼だと思った。
それなら――
「決めました。わたし、離縁したくないです」
真っ直ぐ告げれば、それで良いのか? 焦ったように問われた。
「勿論です。わたしが愛した旦那様のことを、なにも知らずに離れ離れだなんて、そんな悲しいことはありません。貴方を、もっと知りたいんです」
『わたし』が、貴方を好きになった理由。これを探さなければいけないと思った。
ふんす、と拳をぎゅっと握りしめれば、彼の肩が震える。
「っ、君は、もう体が強くない。先が、長くはないかもしれないんだ! 戻るかも分からない記憶の中だけで存在していた私のことなど、捨て置けば良い」
でも、愛してもらっているのは本当らしい。苦笑する。
「……わたしの体が長くないことは、少し知っています、自分の体のことですもの」
この心底優しい人に、これ以上酷い顔をさせたくなくてエリーゼは胸を張った。
「でも、だからこそ分かります。わたしが死ぬまで、もう少し猶予があるんです」
「そんな根拠、どこからっ」
「だってわたし、明日死ぬ気がするんです!」
ずっと昔から考え続けたことを言えば、ハーゲンの息が止まった。続きを持つように、エリーゼをひたと見つめている。
「わたしの持論なのですが、明日死ぬと思っている内はまだまだ死ぬことはない気がするんです。だってそうすれば、その明日は永遠に来ないですから」
明日死ぬ、がずっと更新されれば、わたしは大丈夫。そう思って来て、実際この賭けに敗けたことはないのだ。
百戦錬磨、とはこのことを言うのだろう!
彼は、そんな様子のエリーゼに呆れたように――あるいは懐かしむように、目をきゅぅと細めた。
「……そうか」
「はい」
「そうか」
以降、彼はすっかり顔を伏せてしまって。
暫く経ってから。お話ししたいと強請るエリーゼの声に、ようやくのっそりと顔を上げた。
◇◇◇
それから色々なことをした。
一緒に食事をしたり、眠るまで手を繋いで貰ったり。
そうして、秋から冬へ移ろっていく。
とある日。エリーゼは、ままならない体を抱えベッドで横になっていた。
「すまないが、今日は君を一人にする時間が長くなってしまう」
今朝方、朝ご飯を食べながらハーゲンに言われた言葉。なんだか彼がずっと一緒にいるのが当たり前になってしまっていたことに、ふと気づく。
「あ、そうですよね。お仕事とかお忙しいですよね」
夫人は夫を支えるものだと聞く。けれど自分は、彼に何もしてあげられていない。
パンが急に飲み込めなくなって、凄く喉が窮屈になってしまったようだった。
しんしんと降る雪を眺める。
今年も冬が訪れて、ベッドの住人であるエリーゼの楽しみであった庭の花は枯れてしまった。気持ちが暗くなって、悪い方へと引っ張られていく。
時刻はお昼を少し過ぎた辺りで。一人の食卓でスープだけを詰め込んだお腹をそっと撫でた。
「旦那様の嘘つき。……いえ、嘘はついてませんね。わたしが勘違いしただけです」
楽しそうな声が、微かに聞こえる。これのどこがお仕事なのだろう。沢山の人のはしゃぐ音がする。潜めているつもりかもしれないが、丸分かりだ。一体何年、耳をそばだててきたと思っているのだ。
「駄目。これ以上考えたら駄目ですよエリーゼ」
もぞもぞ潜る。それでも声は反響する。
――家族の、自分のいない所から聞こえる笑い声が辛かった。風邪を引いた時、熱を出した時。あんなに優しくしてくれるのに、楽しそうな声が食堂から聞こえる度に自分は満足することができない。
浅ましいと自嘲する。家族に寂しいと言えたことはなかった。
幼い日。高熱を出した翌日の夜。すっかり熱が引いたエリーゼは寝付けなくて。勇気を出して父と母が眠る部屋に向かおうとした。
けれど夜通し自分の看病をしてくれ、目に隈をこさえた母にこれ以上の我儘は言えなくて。降りた直後にまたもそもそベッドに戻って泣いたことを覚えている。
この不甲斐ないやら情けないやらの気持ちは、一生胸の内でぐるぐると持て余すのだろう。ため息をつく。
そこで、扉が開いて小さく光が伸びた。
ハーゲンだった。
「起きていたのか」
「……はい、寝つけなくて」
体を起こしてくれ。水差しからコップに水を移し手渡してくれる。飲む気にはなれない。
「なぜ飲まない」
「……飲んだら、また行ってしまわれますか?」
「いいや、行かない」
断言され、仄かに心が華やぐ。けれど、いけないと首を振る。えへへと微笑んだ。
「でしたら、もう少し時間が経ったら行ってしまわれますよね。お忙しいようですし」
「いや。私はあの場には戻らない」
心がざわざわする。
「では、お食事の時間は、皆さんと取るために行ってしまいますよね」
「皆で食事か……考えていなかったが良いかもしれないな、できるか後で料理長たちに聞いてみよう」
ほらやっぱり。期待なんてしては駄目なのに、また同じことをしてしまった。
「君さえ良ければ、ここで食事をしよう。皆も、君と話したがっているようだった」
「…………」
「エリーゼ」
ようやく、エリーゼはハーゲンの顔を見た。頬が赤くなり、呼吸が乱れる。
なんで、なんで。考えがまとまらない。
「旦那様」
「エリーゼ、私は君が寂しいと思った時、必ず側にいる。だから大丈夫、安心しなさい」
「…………っ。どうして、」
涙がほとりとシーツに落ちる。
どうして、知っているような口ぶりなのだろう。誰にも話したことがないのに。必死に秘密にしていたのに。
涙が次から次に溢れる。抱き締められ、背にしがみつき喉を震わす。
「いつかの君が、教えてくれた。だから私は誓ったんだ。絶対に、傍にいると」
その優しい言葉に、ようやく腑に落ちた。
自分の弱さを話せるくらい、『エリーゼ』にとってハーゲンは大好きな人だった。その弱さを当たり前のことのように抱きしめてくれるハーゲンに、きっと恋をした。
『エリーゼ』の気持ちがエリーゼの心に染みいる。
だって、わたしも――
「すごく、好き」
呟いた声は、ハーゲンには届かなかっただろう。嗚咽に隠されてしまっただろうから。
音は雪に、すうすう吸い込まれていった。
◇◇◇
好き。そう意識してしまえば、容易く世界は色を変えてしまった。
ハーゲンと話したり目が合うだけで、幸せが溢れてしまう。顔がすぐ赤くなり、前より上手にお話できなくなってしまった。
ベッドでくすんと鼻を鳴らす。
「この間は、勘違いで嫉妬しちゃいましたし……」
屋敷に見慣れぬ女性がいて。ハーゲンと話しているのを見て、咄嗟に背を抱きしめてむくれてしまった。
『旦那様のことが好きなんです。わたし、もっともっと頑張ります。旦那様にも愛して貰えるように、精進します。だから、他の人を好きにならないで……』
自分が言ったことを今思い出しても身悶えしてしまう。恥ずかしくて堪らない。結局あれは自分の勘違いだった。
「うぅ……」
情けなく呻き、心を落ち着かせようと雪を眺める。
いつものように扉が叩かれた。ハーゲンが、今日は大きな布に包まれた何かを持っている。
「エリーゼ、体が冷える。上にもっと羽織りなさい」
「も、もーっ。旦那様、わたしはもう十分ですよ」
う、嬉しい。好きな人に気にかけて貰えるってとっても嬉しい。けれど、なんだか子供扱いみたい……。
表面上はツンとして見せながらも、大人しく毛糸の上着を着させられるエリーゼは好意を隠しきれない。
彼は椅子に腰を下ろした。
「雪を眺めていたのか?」
「はい。花は枯れてしまいましたが、雪も良いものですね」
「そうなのか? 前、君は冬は嫌いだと言っていたというのに」
ドキリとした。全部知られてて恥ずかしい。
エリーゼはそっと窓を見遣って、少しの寂しさを表情に乗せた。
「だって、望んでも花が咲いてくれるわけではありません」
「いや、私はできる。そして、君の周りにいる人も全員使ってみせた」
「ま、まさか御伽噺のように皆様が魔法を……?」
彼が冗談を言うなんて珍しい。可笑しくなりながら首を傾げれば、存外強い瞳で見据えられる。
「そうだ。私は魔法が使える。今見せてあげよう」
十、九……と数え始める。
最後を数えて。さっき持っていた布が取り払われた。中に入っていた物が顕になる。
それは本だった。最初の一ページ目、色彩鮮やかな花の絵が沢山描かれている。
桃色、水色、黄色、紫色。様々な色の絵の具の花が、花弁を開かせていた。見惚れてしまう。
「凄い。花が……」
「これを、皆に描いてもらった。冬の間、君の心が少しでも解れることを願って」
感嘆の息を漏らせば、優しい笑みを返される。
ようやく、あの日来ていた色々な人や、この間の女性が、なにをしていたのか分かってしまった。
エリーゼのために来てくれていたのだ。知らない人ではなかった。きっと、知っている人たちだったのだろう。思い出せないだけで。
目元を拭い、鼻をすする。
それでも視界はボヤける。
「ふふっ、おかしいですね。よく見たいのに、うまく見えなくて……。旦那様に出会ってからわたし、嬉しいことばかりです。以前のわたしも、きっとそうでした」
「それなら良い」
「はい」
それから。毎日一ページずつ本は捲られ、その度にハーゲンは語り聞かせてくれた。幸福な日々を。
二人で踊った日のこと。楽しかった結婚式。演劇をしてみたこと。そして、大切な人とのお別れ。
哀しくて泣いてしまうこともあったけど、きらきら眩く光る花の絵が、エリーゼに教えてくれた。
沢山愛されていたことを。
段々、今の自分ではなくなっていく。でもそれは辛いことではなくて、ゆっくり大人になっていくこそばゆさがあった。
「――これが最後のページだ」
その言葉が告げられる頃。雪が溶け、まっさらな空を仰ぐように桜が咲いていた。
ふわりと花弁が部屋に舞い込む。
「旦那様、わたし色々なことを思い出しました。わたしを愛してくれる人が沢山いたこと。わたしが、沢山の人を愛していたこと」
本を閉じた彼を見つめる。
「――旦那様、よりハーゲン様と呼ぶほうが好きだったことも、全部。ただいま帰りました、ハーゲン様。寂しかったですか?」
「寂しがる必要などない。君は、ずっと傍にいただろう」
「……本当ですね」
ほらまた。言葉一つで嬉しくなってしまう。
髪についた花びらを取ってもらう。
小さく咳が漏れ、息苦しさで一瞬目が回った。徐々に体が弱っているのを肌で感じる。もう、自分の時間は少ない。
『今日死ぬ』――そう思う日は、遠くないのだろう。
だからこそわたしは、精一杯の笑顔を浮かべた。
そうして一年後。エリーゼは亡くなった。
◇◇◇
葉桜。
棺桶で眠るエリーゼが、土に埋められていく。彼女の母は、夫にささえられながら嗚咽を漏らしていた。
ハーゲンは涙なんて出なかった。無感動に、土がかけられるのを見守る。
エリーゼの遠縁の親戚が顔を歪めた。
「ほらやっぱり。どうせ思惑でもあったのでしょう。妻が死んだのに涙一つ見せやしないなんて」
「声が大きいですわ。……でもそうですよね。いつまで経っても独身で周りとも最低限しか関わらない『変人』が、可笑しいと思いましたわ」
噂話は伝播していく。
「だってあの年の差ですし、ね?」
「まぁ、なにかあるとは思っておりましたよ」
ハーゲンの隣にいた、彼の友人が吠える。
「何を言っているんだ! ハーゲンが今、どういう気持ちかも知らないで……!」
「私は良い、静かにしてくれ。エリーゼが、怯えてしまうかもしれない」
「……っ、すまない」
俯くハーゲンに、エリーゼの父と母が、確かにと言った。
「そうだね。これではエリーゼが安心出来ない。そこの方々は、僕らのためを想うということでお引き取り願えますか?」
「えぇ、是非お願いします」
真っ直ぐ睨まれた彼らは、そそくさとお悔やみの言葉を述べ去って行く。
その一連の流れも、ハーゲンはどこかぼんやりとした表情で見ていた。
◇
夕陽が差し、部屋がオレンジ色に包まれている。葬式を終えエリーゼの部屋を訪れていたハーゲンは、部屋を見渡していた。
「……少し冷えるな」
侍女たちの手によって、部屋には埃一つ落ちていない。満足して帰ろうとすれば、ドレッサーに置かれた青い箱が目に留まった。
エリーゼに謝ってから開ける。
中には、一枚の紙が足されていた。開けば、ヨレヨレの文字が紡がれていた。手に上手く力が入らなかったのだろう。それか、ベッドの上で書いたせいか。
『親愛なるハーゲン様
わたしには、大切なものが沢山できてしまいました。だから天国に持っていけなかった時は、どうかハーゲン様が貰ってくださいね。
エリーゼ』
「……」
箱はずっしりと重い。エリーゼの今に至るまでの思いが詰められているのだろう。
――ハーゲンは、なにも成すことができなかった。エリーゼに出会ってからも、それは変わらない。
これから、死んだような日々が始まると思っていた。
「そうだな。生命を投げ出したら、君にあまりにも失礼だ」
心に重いものがのしかかり、生きなければと自然に思った。
燃え尽きる日まで、諦めることはしてはならないと。それはとても苦しいだろう。痛くて辛くて、何度も途方に暮れるだろう。
けれど同時に、幸福でもある気がした。
――だから涙が止まらないのも。悲しいばかりが理由ではないのだ。
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※3/16追記 連載版はじめました。




