第11話(終)「平穏のレシピは、毎日二勝一敗」
朝の鐘が一つ。
掲示板の三行は、最後まで簡素にいく。
〈本日の朝:五分で起きる匂いVII(白味噌+白胡麻・極弱)〉
〈本日の昼:黒字化二日目セット(可視化粥mini/四点サラダ/梯子の豆)〉
〈本日の夜:家の食卓で“薄い勝利の祝い”〉
カリ、ふう、コトの三拍子が、いつもどおり寮の木の背板を起こす。試験最終日の食堂は、紙と鉛筆の匂いで軽くしびれていた。
「お嬢さま、きょうで連載・一章目は最終回ですね」ミナが笑う。
「うん。物語は続くけれど、“ここ”はいったん閉じる。締めくくりは整えで」
配膳の列の中に、影の整理班のラド。鼻はまっすぐ、鍵束は静か。
「逆風、朝の時間帯は半度で最適です」
「いい鼻になった。鼻は努力に従う」
◇
王宮。
壁の「拍マニュアル・暫定版」には、早くも現場メモが増殖していた。
—「**匙を置く場所は“二線の手前”**に」
—「豆の梯子は“会議が長引きそうな日”に+1粒」
—「半度の角度、雨の日は+0.5」
総料理長ゲルナーは、背中にほどよい遊び。カイ・レンストの歩幅は、完全に指揮棒だ。
「地方視察は正式決定。だが君の条件——“朝の拍は学園に置く”は、殿下が了承した」カイが言う。
「平穏最優先。合唱を持ち運ぶなら、まずは楽譜だね」
昼は“黒字化二日目セット”。揚げはなし。音は薄雨。
王太子は二線で匙を置き、短く笑った。「昼が一人称になったのは発見だ。——耳より腹で合意が速い」
参事官は視写器板を撫で、「“無駄拍”削減、今週合計で二割」とだけ告げた。地味な勝ちは、静かな声で語られる。
◇
午後、学園。
廊下の掲示板に、試験明けの紙が増える。
〈“二線で止める”訓練、効いた〉
〈角のないおにぎりで、最後の一問が埋まった〉
〈拍マニュアル、部屋にも貼った〉
ブラークが黒板の隅に**○を書き、「居眠り横断・最終日ゼロ」と淡々。
保護者代表が再訪し、ひとこと。「薄い勝利、家庭にも持ち帰ります」
「おみやげは段取り**です。香りは画面に乗らないけど、順番は紙に乗る」
その時——
寮の門に、ステンマイア家の紋章旗。
借金取りが鳴らしたのと同じ玄関の敷石に、今日は家族の靴音が規則正しく戻ってきた。
養父の伯爵は、遠慮がちな笑みで頭を下げる。「差し押さえ解除、返還の報を受けた。……家に戻って、台所で夕餉を」
私はうなずく。「祝いじゃなくて、整えです。薄い勝利の夜を」
◇
夕刻、ステンマイア家。
返ってきた鍋・包丁・寸胴・杓子・ざる。棚に空いた**“過半の空白”は埋まり、台所の背骨がまっすぐに伸びる。
私は銀縁皿を一番明るい棚に置き、家政魔法〈銀の記憶起こし〉をごく弱く通す。“勝った音”**が薄く立ち上がった。
「献立は?」養父。
「“家の拍”のための三皿。
一、二線の粥・家版(今日は一線で十分)
二、四点サラダ・家の質問(Q1:帰ってきて落ち着くか/Q2:笑えるか/Q3:角が丸くなるか/Q4:明日も食べられるか)
三、“梯子の豆”と、そして——“一個だけ、祝いの揚げ”」
家族が目を瞬かせる。
「揚げ……?」
「祭りは一個だけ。ずっと封印していたぶん、音の扱いをちゃんと見せる」
私は小鍋を出し、油を一指分だけ。〈清澄〉を流し、温度は歌い出す前の拍で止める。
衣は降らし。音は薄雨。
落とすのは、じゃがいもの皮のカリカリ——廃棄率削減のおやつ。最初に差し押さえ官吏へ差し出した**“あの日のコロッケ”の影**だけ、一口だけ呼び戻す。
ぼふ、ではない。ぱらり——音が、過去形で鳴る。
粥は一線で匙を置き、サラダはQ2で笑い声が起き、豆は谷に橋をかける。
最後に、一個だけの祝いの揚げ。
養父が噛む。さく。
あの日の朝と違って、音は暴れない。
「……これでいいのだな」
「うん。祭りは一口。平穏は毎食」
家族の肩から、数字の重しが音もなく落ちるのがわかった。
◇
食後、玄関の敷石に、新しい靴音。
近侍カイ・レンストと、差配官エイドル。
カイは短く礼をして、封書を差し出した。
〈地方視察・胃袋平穏化試行(条件付)
—朝の拍は学園に残す
—“拍マニュアル”の共有と現地適応
—“笑顔KPI”の月次提出〉
「段取りは人を選ばない。だから楽譜だけ、君が運べ」
「揚げ箸じゃなくて匙で、行ってきます。ただし平穏最優先」
エイドルは例の三本セット——棒・折れ線・円の紙を広げる。「黒字は“最初の一枚”が取れた。二枚目以降、毎日二勝一敗で積め」
「二勝一敗。三タテは祭りのときだけ」
「その合意でいこう」
彼は笑い、「胃袋外交官という言葉は書かない。だが——匙での合意形成、期待している」と言い残して帰った。
◇
夜更け。
家の台所に、人の気配がゆっくりと馴染む。返ってきた道具は、返ってきた拍を覚えた。
私は黒板代わりの戸棚に、**最後の“共有メモ”**を書く。
—“誰でもできる拍・家版”—
二線の粥:一線で止める日が半分あっていい
四点サラダ:**Q2(笑えるか)**を忘れない
梯子の豆:眠気の谷は悪ではない、橋を準備
半度:鼻の嫉妬を避ける角度で暮らす
十秒:数字は噛める言葉で合意する
一個だけの揚げ:祭りの音を忘れないために
ミナが笑いながら指差す。「祭りは一口、いい言葉です」
「ね。勝率は段取り、幸福は余白」
私は銀縁皿の前に立ち、白いチョークを握った。
物語の最終行は、いつも日常の言葉で書く。
〈今日の家政Tips(完):平穏は、毎日二勝一敗。祭りは一口。合意は匙で——十秒で噛める言葉と、半度の角度で。〉
灯りを落とす。
湯気は静かに立ちのぼり、家の拍は、もう誰の手にも依存しない。
揚げずに勝つ日も、一口だけ揚げる祭りも、段取りがつなげてくれる。
ここまでの一章、ここで閉じる。
明日からは、紙の端ではなく、台所の真ん中で続きが書かれる。