第10話「黒字の最初の一枚と、“拍マニュアル”は人を選ばない」
朝の鐘が一つ。
掲示板の三行はさらに簡素だ。
〈本日の朝:五分で起きる匂いVI(白味噌+薄蜜・極弱)〉
〈本日の昼:黒字化一日目セット(可視化粥mini/四点サラダ/梯子の豆)〉
〈本日の夜:整えの夜食・“明日に拍を残す”〉
カリ、ふう、コトの三拍子がいつもどおり食堂を起こす。だが今朝は、木の背板の響きに微細な違いがあった——負債の木霊が、半拍だけ遠のいている。
銀縁皿を棚から出して陽に当て、私はその縁を指でなぞった。
返ってきた道具は、すぐ使う。それが拍の礼儀だ。
「お嬢さま、これ」
ミナが封筒を差し出す。封は財務庁の色。差配官エイドルの字で、短く。
〈返還確認。黒字化一日目の“可視化”を添付〉
同封されたのは、一枚の帳票——“笑顔KPI(学園版)”の棒と、“弁当信任投票”の円、“廊下争い率”の折れ線。欄外に鉛筆書きで、「十秒で言え:
“笑顔=腹で測る世論。おかわり=信任投票。争い減=治安維持。”」とあった。
十秒は、今日も効く。
「昼は、黒字化の最初の一枚を取りに行くよ」
「一枚?」ミナが首を傾げる。
「原価から笑顔へ変換できた証拠の紙。紙は銀行より固い時がある」
◇
王宮。
“公開の昼”を越えた厨房には、疲れない充実の匂いがあった。総料理長ゲルナーはいつもより背に遊びがあり、カイ・レンストの歩幅はやはり指揮棒だ。
壁には新しく貼られた紙——『拍マニュアル・暫定版(揚げ物禁止の項・別紙)』。
—二線の粥:各自が速度を自分で見る
—四点サラダ:噛みで質問に答える
—梯子の豆:眠気の谷に橋
—半度:香りの矢印は妬まれない角度
—十秒:数字を噛める言葉に
「今日は“拍マニュアル”の人依存テストだ」カイが言う。「誰を入れても崩れないを証明する。王宮の見習い三名、入れ替え制」
「段取りは人を選ばない」私はうなずき、配膳と盛り場のすれ違い角を一センチ修正する。半度よりさらに細い、**“箸先の角度”の話。
そこへ衛生監察官イラ・トルテが入ってきて、温湿度計を確認しながら一言。
「昨日の“においの嫉妬”の報告、最小値。今日は“人の嫉妬”**が増える日かもしれない。拍は公平だが、人は時々、公平を妬む」
「だからこそ、地味で勝つ」
仕込みは滑る。可視化粥mini、四点サラダ、梯子の豆。揚げは封印、音は薄雨。
すると、配達口のほうから書棚の匂い——参事官が顔を出した。
「午後に臨時の査閲が入る。件の納入業者の入れ替えが議題だ。味で剥がしてくれた件、正式に財務語に訳す必要がある」
「翻訳は十秒で」私は笑う。「“出汁は嘘をつかない”。“利権は古油の匂いがする”。——二秒ずつで行きます」
「二秒……いいな」参事官の目尻がわずかにほどけた。
◇
学園。
“影の整理班”のラドが、逆風の当たりを黒板に写している。「半度、廊下側へ寝かせました。鼻の渋滞、朝五分短縮」
ブラークは「試験週間・後半」の貼り紙に、夜食の開始時刻を一〇分早める赤字を乗せた。「腹の機嫌取りは早いほど効果が高い」
「議論の前にも、試験の前にも」私は頷き、寮では**“角のないおにぎり・極小サイズ”**を追加する。噛み始めの敷居を下げるのは、合意形成と同じだ。
そこへ玄関から青い布。
衛生監察官イラが顔を出し、「地下の銀、腐食なし。湿度の角も取れている。——昼過ぎ、寮に“視察”が入るかもしれない。公開の昼の余波」
彼女は紙を一枚置いていった。「“香りの嫉妬”チェックリスト。半度、鼻の高さ、湯気の逃がし。貼っておいて」
「鼻は階級に従わないが、順路は必要。ありがとう」
◇
王宮の昼。
“拍マニュアル”は確かに人を選ばない。見習いが交代しても、可視化粥は一定の速度で喉を開き、四点サラダは噛み質問で進行を揃える。
王太子は匙を置き、「会議が一人称になった」とまた微笑んだ。一人称——今日いちばんの褒め言葉だ。
食後、参事官の臨時査閲。私は透明ブイヨン審問を再現し、粗悪な胡椒と標準品の湯気の**“座り”の違いを鼻に提示する。
「二秒訳でどうぞ」と参事官。
「粗悪は刺す。標準は座る。」
「刺すは短期の見栄。座るは長期の実務。」
参事官が頷く。「置換承認。納入業者は契約更改**、香辛料委員会を味覚基準で常設する」
ゲルナーが横で小さく親指を立てた。地味な勝利は、長く効く。
◇
午後、学園寮に視察が来た。王都教育局の実務官数名と、保護者代表。香りの嫉妬を連れてくることが多い組み合わせだ。
私は掲示板の横にイラのチェックリストを貼り、鼻の高さに合わせて湯気の矢印を半度寝かせる。
視察は“音のしない菓子”をつまみながら、厨房の動線と逆風の端を見て回る。
保護者代表の一人が言った。「豪勢ではないのね」
「うまい地味です。豪勢は祭りに」
「子どもは祭りが好きよ」
「毎日は続かない。続く勝利を食べて、たまに祭りを楽しむのが平穏です」
ブラークが黒板の「試験週間・後半」を指で叩く。「居眠り横断、今朝はさらに一割減。救護室搬送ゼロ」
保護者代表の目尻がほどけた。「……薄い勝利、悪くないわね」
◇
夕刻。
差配官エイドルが現れ、革袋から紙の束を取り出した。「返還器具の目録、弁当契約の透明化書面、それに——これが今日の**“黒字の最初の一枚”だ」
厚紙には、控えめな印刷。
〈ステンマイア家:日次損益・予備計算(七日目以降)〉
収入:弁当契約/学園補助/王宮助勤料(臨時)
支出:原材料/光熱/人件費(増強分)
差額:+ 7 枚(銅貨単位)
ミナが小さく跳ねた。「プラス……!」
「桁は小さくても、向きが正しい」エイドルが言う。「黒字化は拍**。一枚を毎日積む。一週間続けば、習慣になる」
「習慣は段取りの骨です」私は目を細めた。「銀縁皿に、今日の勝ちを一つ、重ねます」
「それと」
エイドルが低く声を落とす。「地方視察の話が来ている。王都の胃袋の平穏が効くなら、周辺領の自治都市でも**“拍マニュアル”を試したい、と」
私は小さく首を傾げる。「平穏最優先が条件です。朝の拍は学園に置いたまま**」
「条件付きで答えるといい。殿下も**“平穏を持ち込め”**と言った」
◇
夜。
“整えの夜食・明日に拍を残す”は、白だし雑炊・極薄。二線はうっすら、蜂蜜は気づくか気づかないかの一滴。
掲示板に紙が増える。
〈雑炊の“二線”、途中で止まる訓練にいい〉
〈薄い勝利、罪悪感ゼロで眠れる〉
〈“拍マニュアル”の紙、部屋にも貼りたい〉
私は**“拍マニュアル(学園版)”を小さな紙にまとめ、寮の入り口に吊るした。
—二線の粥/四点のサラダ/梯子の豆/半度/十秒
その下に、一行の余白を残す。
〈各自の拍:________〉
学生たちがそこに“二回だけ目を閉じる”だの“角のないおにぎり”だの、自分の合図を書き足していく。拍は共有**すると強くなる。
片付けのあと、ラドが鍵束を回しながら言った。「昼間、逆風の当たりをもう一段修正しました。半度の癖、身体が覚えてきた」
「鼻は訓練できる。鼻は階級に従わないし、努力には従う」
窓の外、三日月。
私は銀縁皿の前に立ち、白いチョークで今日の一行を書く。
〈今日の家政Tips:黒字は“最初の一枚”から。拍マニュアルは人を選ばず、半度は嫉妬を避ける角度。十秒で訳せ、薄い勝利を積み上げろ。〉
明日からは地方視察の段取りと、学園の試験最終日。
王宮は納入置換の実施に入る。
エイドルの棒・折れ線・円は、明日も右へ。
私は灯を落とし、匙を置く。揚げない勝利は、寝つきがいい。
平穏最優先——それは単なるスローガンではない。毎食ごとに更新する約束だ。