第1話「差し押さえ対象は——台所」
目が覚めたら、借金取りの靴音が、玄関の敷石を規則正しく叩いていた。叩き方が律儀すぎる。音だけで、昼行灯の役人じゃないとわかる。
扉の向こうから涼しい声。「王都財務庁より参りました。没落伯爵家・ステンマイア家、延滞十二期。差し押さえ対象は——台所」
よりによって台所。いや、よりによって大正解。そこはこの家で唯一、私が勝てる戦場だ。
私は、この家の“養女”になったばかりだ。家族の名前と借金の桁をまだ全部覚えきれていない。だが鼻は覚えている。
小麦粉は去年の秋の匂い。油は酸化してナッツの香りが“酸っぱく”なっている。干し肉は保存魔法が切れて、半歩で不敬罪レベルの匂いへ堕ちる直前。玉ねぎだけが無傷で、皮の音がしゃらりと軽い。
「お嬢さま、逃げます?」と、年下の小間使いミナが袖を引いた。目は完全に“カエル跳べ”の顔だ。
「逃げないよ。台所取られたら、この家は本当に終わるから」
私は手のひらに意識を落とす。脈打つのは雷でも炎でもない。
——家政魔法〈清澄〉。
黒ずんだ油の表面に、目に見えない糸が幾筋も降りる。沈殿していた汚れが糸に集まり、綿雲みたいにふわりと浮かんでは、ぱち、と音を立てて消えた。鍋底が鏡のように光る。匂いは胡桃色に戻り、油の音は“希望”の周波数に変わる。
「……魔法で油を澄ますのを、初めて見ました」とミナ。
「家を立て直すには、まず胃袋。次に帳簿。順番を間違えると、みんな怒りながら空腹になる」
私は玄関へ向けて声を張った。「どうぞ入って。ただし、靴は脱いでください。台所は神前なので」
「差し押さえ先に礼儀を教えられるとは」と役人が笑う。入ってきたのは、黒の礼服に銀糸の徽章、三十代半ばの男。背筋が箒みたいに真っ直ぐだ。
「私は財務庁差配官、エイドル・ヴァン。職務は情け容赦ありません。差し押さえは——」
「その前に、揚げたてをどうぞ」
私は小麦粉に〈湿度平準〉、卵液に〈白身分離〉、パン粉に〈気泡保持〉をかけ、刻んだ干し肉と玉ねぎ、じゃがいもを合わせたタネを片手で回した。
ころり。
衣がついたそれは、油に落ちる瞬間だけ、重力に「ごめん」と謝った気がした。
ぼふっと泡が立ち、音がすぐに細かくなる。私は鍋の上で〈火加減制御〉を走らせ、余熱を未来から少しだけ前借りする。表面は狐色。中は湧きたつ湯気が、甘い玉ねぎの涙を連れてくる。
「……コロッケ、ですか?」エイドルの声が、ほんの少しだけ職務を忘れた。
「借金取りは心を固くする仕事です。だから最初にほぐれるものを出します。どうぞ。熱いので三拍待ってから」
差配官は三拍きっかり数え、噛んだ。
さくっ。
音は正直だ。外の衣の薄い硝子が割れ、中の芋がふわりと膨らむ。干し肉の塩気は玉ねぎの甘みで丸まり、酸っぱさの寸前で戻した油が香りの背骨になって、全体を一本通す。味は真面目で、香りはずるい。胃袋はさらにずるい。
「……これは職務妨害の可能性があります」とエイドル。「食欲を、根こそぎこちらに向ける妨害」
「お代は“猶予一週間”。支払い方法は、日替わりで昼に弁当をお届け。内容に満足いただけない場合は、即時差し押さえで結構」
私の背中で、ミナが信じられないという顔をしている。
さもありなん。昨日まで孤児院の厨房で皿洗いをしていた娘——それが数時間後には伯爵家の養女。さらに数時間後には財務庁と弁当契約の交渉。人生は炒め物の火力と同じで、油断すると一気に跳ねる。
「交渉力、そして味覚、いずれも……不本意ながら高得点です」とエイドル。「ただ、規則は規則。今日の差し押さえは“台所道具の過半”」
「ではこうしましょう。過半はあなたの“保管”に。私は明日から、残った半分で台所を回す。七日間を乗り切れば、差し押さえ対象の再評価を提案できますよね?」
役人の目が、面白いものを見た光に変わった。「——やってみなさい」
鍋、包丁、まな板、寸胴、杓子、ざる。私は指を走らせ、脳内の棚卸しを開く。
〈在庫鑑定〉
食料庫の壁に、薄い青の文字が走る。小麦粉(旧年)三袋/塩・岩塩一塊/玉ねぎ・生二十玉/じゃがいも四十球/干し肉(風味限界まで一日)/胡椒・ひきたて不可/古いチーズ・端切れ。
〈収支予報〉
七日間の金の出入りが、曇り空の天気図みたいに浮かぶ。必要費を最小化し、評判ポイント(人の口にのぼる回数)を最大化するライン。赤い針は“破産”、青い針は“食い繋ぎ”。針はぎりぎり青い。
「ミナ、油の予備は?」
「床下に壺が一本。ただ……香りが、ちょっと」
「ちょっとは私の仕事。今日から“台所の神様”ごっこするから、ついてきて」
まずは“臭い”の根。私は床の角の黒カビに〈臭気分解〉を走らせ、砥石で包丁の刃を〈微振動研磨〉で立てる。まな板を塩で擦り、表面を〈繊維圧着〉で閉じ、木の匂いが料理に移らないよう封印。
火口は二つ死んでいる。生きている一つに〈火継ぎ〉を施して、古い炭の残り火から新しい炎を生ませる。炎が“喉を開く”音になる。
台所が、息をした。
「エイドルさん、差し押さえリストに“神様”って入ってます?」
「残念ながら、入っていません」
「じゃあ、今日は神様の分だけ外しておいて」
私は芋を茹でながら、帳場にある古い束を〈紙質保存〉で延命する。数字をひと目で読めるように〈書式再整列〉。
入ってきたミナが目を丸くする。「数字が、読める……!」
「読めない帳簿は、未来からの脅迫状と同じ。こちらの武器は“わかること”。わかれば怖くない」
茹で上がった芋をつぶすとき、私は小さく〈でんぷん再結〉をかける。粘りを立て過ぎず、舌の上で崩れる柔らかさだけを残す。
玉ねぎは泣く前に〈涙腺遅延〉。干し肉は〈塩抜き加速〉で塩気を丸くしてから細かく刻む。
混ぜる、丸める、衣をつける、落とす。
音が揚がりの“良い嘘”をつく。さっきよりも軽い。衣の気泡が均一で、空気の入り方が綺麗だ。私は自分の呼吸を揚げ油に合わせる。
この家の呼吸を、私の呼吸で上書きする。
「お嬢さま、どうしてそこまで台所にこだわるんです?」ミナが問う。
「借金は、数字で人を殴る武器だから。殴り返すには、数字を“味”に変えるのがいちばん早い。味は、人の噂の最短距離」
「むずかしいです」
「簡単に言うと、うまいものは正義」
コロッケを箱に詰め、私は玄関の差配官に二つ手渡した。「契約成立。七日間、毎日正午。今日の献立はコロッケサンドと玉ねぎスープ。スープは器でなく胃の隙間を満たすので、午後の争いを減らします」
「午後の争い……?」エイドルは笑い、手帳を開いた。「明日の献立と“条件”も記しておきましょう」
「条件?」
「あなたが七日で台所を立て直すなら、再評価の席に私が同席できるよう口をききましょう。私の評判も、正直、黒字にしたい」
「了解。明日は“肉なしで肉の気配がする昼”。挑戦的な献立を出します」
「楽しみにしています。……ところで、あなたは学生の年頃に見える。学費は?」
「払えません」
「王都学園が、今朝の広報で“臨時寮母見習い”を募集しています。条件は一つ。『寮の三食を“笑顔の数で評価できる者”』。学費免除がつく。応募しますか?」
私は、鍋の火を落とした。火が名残惜しそうに揺れ、消える。
学園。平穏に暮らすには、学び直しが要る。借金を倒すには、味だけでなく“肩書き”もいる。寮母見習いなら、台所を守ったまま外へ出られる。
「応募します。ただし条件が一つ」
「あなたは条件をつけるのが好きですね。どうぞ」
「寮の台所の“差し押さえ”が来たら、私に最初に電話をください」
「電話……?」
「あ、比喩です。ベルを三回鳴らしてください。台所は神前だから」
差配官の笑いが、初めて素直になった。「承知した。明日、正午」
扉が閉じ、家の中に静けさが戻る。私は息を吐き、台所を見回した。
半分の道具、ぎりぎりの在庫、七日の猶予。
でも、油は澄んだ。匂いは戻った。
——ここから増えるのは、笑顔の数と、噂の数。
私は壁の空白に、チョークで小さく書いた。
〈今日の家政Tips:油は救える。人もたぶん〉
そこへ、ばたばたと廊下を走る足音。「お嬢さまっ、大変です!」ミナが青い紙をひらひらさせる。「学園の掲示、もう出てます!『臨時寮母見習い・本日夕刻締切』ですって!」
「夕刻?」私は空を見た。王都の鐘が遠くで二回。
時間は、料理と同じで、加熱すると一瞬で煮詰まる。
「ミナ、コロッケ十個、追加で揚げて。学園に持っていく。胃袋から採用を落とす」
「落とすって、逆では?」
「採用“を”落とすの。胃袋に。先に落ちた者は勝ち」
再び油が歌い出す。
狐色の丸が、ぱらぱらと弾み、未来の音になる。
私は揚げ箸を握りながら、心の中で七日間の献立表を描いた。数字は怖い。でも、数字は味に換金できる。
平穏は、ただ願うものじゃない。毎食、作って守るものだ。
借金取りが差し押さえに来た日を、あとで振り返ると、人はたいてい「人生最悪の朝」と呼ぶ。
私は、たぶん、こう呼ぶ。
——「台所が、最初に勝った朝」 と。