枕(二)講談と落語の違い
さてさてこの早鞆流、江戸時代に入りますと、各地の大名に談判衆として仕えたそうでございます。いわばブレーンのようなものですね。
今の講談という芸能は、辻講釈などの言葉があるように、市中の大衆文化から広まったものと言われております。
しかし、早鞆流は大名に教える立場であったことから、長らく「講談」ではなく「講釈」と表し、また講談師のように師匠の「師」という字ではなく、弁護士や会計士などのように、武士の「士」という字を使って、「講釈士」という呼び名を正確な名称としたんだそうでございます。
ただ、今の時代では「講釈士」では分かりづらいですから、こちらのめくりにも書かれてありますように、私も普段は便宜上、「講談師」と名乗っております。
私は現役の大学生ですので、動画投稿サイトでも「女子大生講談師」などと紹介されて視聴回数が増えているようでございますが、講談界の他流派の諸先輩方からは「キミは大学を卒業してからが勝負だぞ」ときつく言われております。
なぜなら(パンッ)、世の皆さんは講談師よりも、女子大生が好きなだけだからな、だそうでございます。(会場爆笑)
話を戻しますと、早鞆流の方々は、福岡藩の黒田家や長州藩の毛利家、小倉藩の小笠原家などに仕えたり招かれたりした講釈士だったそうです。そして明治維新後は、その話術を町の一般の人々に教えるようになったそうなんですね。
特に、商人なんかは売り文句を教わりたがる。台湾から輸送してきて熟れてしまったバナナを、当時活気のあった関門海峡の港町の門司港で、露天商たちが講釈で学んだ巧みな口上で売り捌く。これが「バナナの叩き売り」と呼ばれて、今も門司港名物の啖呵売りとして文化が残っていたりもします。
その門司港が、この早鞆あかりの生まれ故郷でございます。門司港のある企救半島は、九州本土最北の地。私は、ギリギリの九州人ですよ。ギリギリ皆さんのお仲間ですからね。(会場笑声)
昭和期には講釈・講談も衰退し、私が生まれた平成期には既に、早鞆流の講釈士は私の祖父一人になっておりました。絶滅寸前の早鞆流ですが、私は中学生の頃に祖父の弟子となって修行を始め、二年前にようやく早鞆を名乗ることが許されたのでございます。
先代も先日に亡くなり、早鞆流の講釈士は再び私一人。大学に通いながらも、歴史ある早鞆の名を背負って、各地で話し続ける日々なのでございます。(会場拍手。「がんばれっ」の声)
ありがとうございます。温かい応援の声は、嬉しいものですね。で、そういう方に話を聞いてみると案外、落語と講談の区別もついていないものでございます。(会場爆笑)
いえ、別に責めているわけではございません。世の人の大半が、落語と講談の違いなんて知りません。知らなくても大学の入試には出ませんし、日常生活に1ミリの影響もないので、大丈夫です。(会場笑声)
まあでも、今回せっかく皆さまと向かい合っての講談のお時間ですから、落語と講談の違いを少しでも知ってもらえれば。(パンッ)
その違いを一言で申しますと、落語は会話劇、講談はあらすじ語り、という感じでしょうか。
落語は、「おうおう、ご隠居さん」「八つぁん、どうしたい。まあまあお上がり」……なんて、登場人物がどう話しているのかを語る。
講談はというと、(パンッ)「時は元禄十五年の極月十四日、打ち立つ時刻丑三つの」……と、その話の流れや出来事の様子を説明していく。
ですから、落語は町中の人々が主人公であることが多く、講談では為政者や剣豪なんかが主人公になることが多いのでござます。
それから、他に明らかな落語との違いといえば、私が右手に持っております、この張り扇。それから私の前にございます、この釈台。これらを使うのが講談の特徴でございます。場面転換や調子づけのために、張り扇で尺台をパパンと叩く(パパン)。
ね? 客席の皆さんが居眠りしているようでしたら、強めに叩いて起こしますからね。(会場笑声)
ご安心ください。私もプロでございます。一秒たりとも、寝かすことなどありません。(会場拍手)
今回は、ここ九州に関係する内容の講談を、とのご要望でございましたので、皆さんが活躍されている九州の経済にも大きく関わるお話を差し上げたいと思います。
私の講談師としての「早鞆あかり」というこの芸名。(めくりを指す)
早鞆は早鞆流の亭号ですが、あかりという下の名前は、実は本名でございます。
本日のお話は、私のこの「あかり」という名前の由来にもなった、我が早鞆流に伝わる偉人伝の一つ。
企業人の皆さんにとっても、会社のお客様の心を温める火を灯したくなるような、社員の皆さんの進むべき灯りを掲げたくなるような、そんなお話でございます。それでは、一席お付き合いのほどを。(パパン)
(つづく)
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