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(三)部埼灯台


挿絵(By みてみん)




 十三年もの長い間、海の安全を守り続けた、清虚(せいきょ)の死。


 それは、白野江(しらのえ)村や青浜(あおはま)村の人たちにとって、大切な「仲間」の死でございました。もう誰一人として、清虚のことを余所者(よそもの)と思う者はいませんでした。



 白野江村の清福寺(せいふくじ)で、葬儀が行われました。村の者たちはみな参列し、涙を流します。



御坊(ごぼう)。あなたの遺志は我らがしっかりと受け継いでいきます。安心してくだせえ」



 利三郎(りさぶろう)が言いました。他の村人たちも口々に、約束をしていきます。清虚が流れ着いた時以上に、村の人たちの心は一つになっていました。



 清虚が亡くなってから後も、焚き火台で火は(とも)り続けました。白野江村の利三郎が責任者となり、村の者たちみんなでその事業を受け継いだのです。



 利三郎は万延(まんえん)元年、1860年までの十一年間、清虚の志を継いで夜どおし火を灯し続けました。


 小倉藩(こくらはん)のお抱え講釈士・早鞆壇潮(はやともだんちょう)は、生前の清虚に、


「燈明が()()()続いたら、講釈の話のネタにさせてほしい」


と約束していましたが、利三郎たちが火を守り続けたことで、その二十年は裕に超えたのでございます。


 利三郎が死去した後は、また村の別の者が引き継ぎ、その火は絶えることはありませんでした。



 大政奉還直前のこと。徳川幕府はイギリスと大坂条約を締結し、外国船の航行の安全のため、全国五ヶ所の要所に、西洋式の灯台が建設されることが約束されました。そのうちの一ヶ所が、この部埼(へさき)でございました。


 明治維新の後、その灯台建設事業は明治新政府が引き継ぐことになりましたが、明治五年、「灯台の父」と名高いイギリス人技師のリチャード・ブラントンの設計によって、部埼灯台が建設されました。


 その位置はまさに、清虚が始めた焚き火台のすぐ後ろ。清虚の死後に村人たちが続けた焚き火の灯火を、そのまま受け継ぐ形となったのでございます。


 現役の西洋式灯台としては九州最古。海上保安庁が歴史的価値が高いものとして指定する最上級、Aランクの保存灯台であり、灯台ファンの投票による「日本の灯台50選」にも選出され、2020年には国の重要文化財にも指定されています。



 現在、部埼の灯台から高台を降りると、波打ち際に自由の女神のような白い像が建っております。松明を掲げた格好で海のほうを向いており、陸側からはそのご尊顔が見えない像。昭和48年に建てられた、清虚の像でございます。清虚は今も、海の安全を見つめ続けているのです。


 また、部埼灯台ができてからはその遺構がなくなっていた清虚の火焚き場は、清虚がこの地で燈りを灯し始めてから170周年にあたる平成20年、地元の有志によって復元されております。


 そして、清虚の生まれ故郷である大分県国東市(くにさきし)の旧伊美村(いみむら)太兵衛(たへえ)佐吉(さきち)が夢を語り合った権現崎(ごんげんざき)にも、海へ灯火を向ける清虚の像が建てられております。



 清虚の心は、今の時代の人々の心にもずっと(のこ)っているのです。清虚が灯し続けた(あか)りは、部埼の灯台から海を照らし続けている光のように、人々の心に灯り続けているのでございます。





(つづく)




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