(四)御前講釈
講釈士・早鞆壇潮はひと月に一度、お殿様に講釈を聞かせるために小倉城に呼ばれておりました。
ここ小倉藩は、関ヶ原の戦いの後には外様の細川忠興公が四十万石で最初のお殿様となったのですが、寛永年間にその細川家が肥後熊本藩に移封され、播磨国明石の小笠原家が十五万石で入部。
小笠原家は譜代大名で徳川幕府からの信頼が厚い。お隣り筑前国の福岡黒田藩や、向こう岸の長州毛利藩など西国の外様大名たちを監視する意味で、この交通の重要地点である小倉を任されていたのでございます。
当時のお殿様は第六代藩主、小笠原忠固さま。
このお殿様、若い頃からとても聡明な方でありまして、幕府を想う心も強いお方。早鞆流の講釈を受けるのも、それまでのお殿様はふた月に一度ぐらいだったものが、忠固さまは毎月呼ぶぐらいに、熱心にお勉強をされておりました。
ところが、この頃の小倉藩の経営状態は、最悪の状態でございました。
わずか十五万石しかないのに、譜代大名だから地位だけは高い。朝鮮からの外交使節団の接待や周辺の外様大名への警戒などで、出費は膨大。
さらには忠固さまが幕府を強く思うが故に、国内が幕府重視派と藩内優先派に二分してお家騒動まで起こってしまう始末。この頃には外国船も外洋にちらほらと現れており、海上警備の強化にもお金がかかっていく。
忠固さまは税制改革や公共事業などを積極的に行なって、何とか財政再建を図っていたのですが、不幸にも前年、小倉城で大火事が発生し、天守と本丸御殿を焼失してしまいました。天守を失われたまま、急増した仮御殿で政務を行う、惨めな有様。小倉藩はどん底の状態にあったのでございます。
そんな時にお城を訪れた講釈士の早鞆壇潮。この日は仮御殿でお殿様を前に、早鞆流に伝わる「博多豪商伝」という偉人伝を講釈いたしました。
「博多豪商伝」というのは、お隣り筑前国の貿易港である博多の街で、大きく儲けた商人たちの人生を描くお物語でございます。財政改革に悩むお殿様が、まさに聞いておきたい内容でございました。
聞き終わった後に、お殿様は早鞆壇潮に感想を述べます。
「壇潮。博多の豪商たちの知恵と取り組みは見事じゃのう。筑前は隣りの国じゃというのに、儲かっており羨ましい限りじゃ」
「殿、羨ましがってる場合ではございませんぞ」
早鞆壇潮、ついにお殿様にお説教でございます。
「お隣り、筑前国は博多を中心に大儲けしております。しかし、豊前国はその博多や肥前の長崎と、大商圏の上方を結ぶ線の上にある要衝ではございませんか。何ゆえ中間地点であるはずの豊前国は、海で儲けられないのでございますか」
早鞆壇潮の質問に対して、お殿様は頭で考え、答えます。
「ふむう。築港はしておるのじゃが、博多に近すぎるゆえに寄るまでもない、ということであろうかのう」
「ご冗談を。理由は簡単。対岸の長州藩に船を取られているからでございます。この理屈が分からないから、いくら豊前に港を作っても船は来てくれないのでございます」
「なんだと。港を築くは無駄じゃと申すか」
「今のままでは、の話でございます。よろしいですか。先年に幕臣の伊能忠敬どのが豊前を測量をされた時の海岸線の地図を、ご覧になったでしょう。豊前の企救半島は大きく北に突き出して、東西の海流を細く圧迫しており、関門海峡は日の本一の海の難所となっております」
「うむ、それは分かる」
「海の難所ということは、舟漕ぎがその難所に挑むために、直前の風待ち、波待ちの港が必要なのでございます」
「それも分かる。だからこそわしは、西からの船のために小倉の港を整備したし、東からの船のために周防灘側に宇島の港を作ったのじゃ」
「いかにも。しかし実態はどうでございますか。西からの船は長州の赤間関、東からの船は長州の三田尻の港、いずれも長州藩の港が利用されているのでございます」
お殿様が作ったという宇島の港とは、現在の福岡県豊前市の港。そして早鞆壇潮が語った長州藩の赤間関とは山口県下関市、三田尻港というのは山口県防府市の港のことです。早鞆壇潮の熱弁は続きます。
「関門海峡は北に湾曲していますから、北の本州側のほうが流れが速く、本来であれば九州側のほうが、流れが緩やか波は穏やかで、船を着けるには適しているはずなのでございます。ではなぜ、船は全て本州側の港に着こうとするのか。九州側には何が足りないのか。殿にはそれが、お分かりにはなりませんか」
講釈士早鞆壇潮は、ぐいぐいとお殿様に詰め寄っていく。お殿様も興味津々で、ずいずいと早鞆壇潮に寄っていく。
「それは何なのじゃ、壇潮。我らに足りないものとは、一体何なのじゃ」
「では、申し上げましょう。殿、この豊前国に足りないものは、『あかり』でございます」
(つづく)
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