枕(一) 講釈士 早鞆流
(福岡県内の事業者団体「福岡経済経営連盟会」の月例会の会場。
セミナー形式で、百十数名の経営者がワイワイと着席している。
壇上には緋毛氈の高座が設けられ、釈台と座布団が置かれている。
めくりには「講談師 早鞆あかり」の文字。
司会の紹介で、観客たちが拍手で迎える。
20歳前後と思われる若き着物姿の女性が、笑顔で入場。高座に座して、右手の張り扇をパンッと釈台に叩き、深く一例)
福岡の皆さま、温かい拍手をありがとうございます。ありがとうございます。
講談師の早鞆あかり、と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。(会場拍手)
えー、実は私、ここ福岡県の出身でございます。
この度、運営の青年部の皆さまより、福岡経経連様の月例会で一席お願いできないか、とご依頼のご連絡をいただきまして、私はこう思ったのでございます。(パン……と張り扇一つ)
「やっと地元から声がかかったよ……」と。(会場笑声)
全国各地の経経連さまや商工会さまにお声がけいただいて、あちこちで講談をやらせていただいているのでございますが、今は便利な世の中でして、その時の様子がYouTubeやTikTokなどで公開されているようで。
今回も運営の皆さまが、動画で私を知ったとのことでご連絡をいただきまして。やっと、やっと地元での登壇と相成りました。(会場拍手)
もちろん冗談でございます。地元での高座、大変光栄の至りです。
近年は久方ぶりの講談ブームなのだそうですが、講談界というのは、基本的に定席のある東京や上方が中心。現在大まかに、東京に二つ、上方に三つの講談協会がございまして、多くの講談師が所属をしております。
私・早鞆あかりは、それらの講談協会には所属していない、いわばフリーの講談師として活動中でございます。これをプロと呼ぶのかアマチュアと呼ぶのかは難しいところでしょうが、いま私は現役の大学生でございまして、その学費も、一人暮らしの生活費も、講談のギャラ一つで賄っております。そんな生計の点でもプロと言っていいと思うのですが、いかがでしょうか。(会場拍手)
ありがとうございます。実際のところ、私の講談は趣味の独学ではなく、早鞆流という伝統ある流派の継承者でございます。(へー、と会場の声)
本日は長めの出演時間を用意していただいたとのことで、ここでちょっと、この講談の歴史のお話をいたしましょう。(パパン)
諸説ございますが、講談というものはもともと、仏教の教えを分かりやすく伝えたり、難解な書物の解釈をお殿様に教えたりする技術から、大衆芸能に発展したとも言われております。「教える」という形ですから、当初は講談のことを「講釈」と呼んでいたんですね。
さて、時は室町時代までさかのぼります。(パン)
京都の足利幕府には、将軍家の先祖である足利尊氏公らの活躍が描かれた『太平記』という軍記物を、将軍らに語って聞かせる職がございました。
そして幕府最後の将軍となる足利義昭公は、織田信長によって京の都から追い出された後、中国地方の戦国大名・毛利家の庇護を受けて、現在の広島県福山市の鞆という海辺の町に落ち着いたのでございます。
織田信長の死後、天下は太閤・豊臣秀吉のものになるのでございますが、足利義昭公はこの太閤秀吉に、御伽衆として招かれます。
御伽衆というのは、お殿様にお話をするお役目でございます。豊臣秀吉は農民出身で文字があまり読めなかったので、耳学問で知識を取り入れていたんですね。御伽衆となった足利義昭公にその話術の稽古をつけたのが、幕府に仕えていた「太平記読み」の職の者だったそうです。
足利義昭公はその教えに感謝して、その職の者に流派の名前、つまり亭号を与えることにしました。そこで、滞在している鞆という地名から、「早鞆」という亭号を名乗ることを許したのでございます。
これが現在にも続き、この私・早鞆あかりが受け継いでおります、「早鞆流」という流派の始まりとされております。(パン)
早鞆流は基本的に一族相伝のものでございまして、つまりは将軍義昭公から早鞆を名乗ることを許されて早鞆流の始祖となった太平記読みの人は、私の先祖、ということになるのでございます。
早鞆流の講釈は一族相伝。……ということは、もうお分かりですね?(パン)
そう、一人っ子で現在唯一の早鞆流講釈士の私には、お婿さんが必要ということでございます。(会場笑声)
皆さんの会社に、「おしゃべりしまくる女性は好みだよ」という独身の方がいらっしゃれば、どうか早鞆流事務局までご一報くださいませ。(会場爆笑)
(つづく)
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