66 戸惑うお父様【改訂版】2025/8/27
「大丈夫です、バルマード様。私はこのまま夜の闇に耐えて、朝日が登るまで頑張ってみます。大変お恥ずかしいことを申しまして、お見苦しい限りです」
そう残してドアの方へ振り返る私に、バルマード様の温かい声が届いた。
「く、クマのぬいぐるみになれば良いんだね。エストちゃんが眠りにつくその間だけでも大丈夫かな?」
「まあ、本当によろしいのですか!」
パァーっと表情を明るくした私に、バルマード様は満面の笑みを浮かべながらうなずく。
「他の誰でもないエストちゃんのお願いなら、聞かないわけには行かないからね」
私はゆっくりとうなずいて、長椅子に腰を下ろすバルマード様を見つめた。
今はエストさんなのですから、きちんと淑女でなくてはなりません。
「もしよろしかったら、となりに座らせていただいて構いませんか? 近くで安心を感じるだけで、きっと落ち着くと思うのです」
「そ、添い寝ではなかったんだね。私はすっかりクマのぬいぐるみとして、抱きしめられるものだと思っていたよ。あははっ、もちろんそんなことならいつでも構わないさ」
私はバルマード様のとなりへと腰掛ける。
と、座った瞬間だった。過去のことがふと、私の中によみがえってきた。
(私は一度として、お父様と二人の時に同じ席に座ったことがない。幼くして母を失った時、私は子供ながらに少しでも早く大人になろうと背伸びし、ウィルの面倒を見ながら、お父様に母がいない寂しさを感じさせないよう、常にいい子であろうと徹してきた。結果として、私は母の代わりのような存在になり、娘として見られることがなくとも、家族が幸せが最善と信じて疑いもしなかった)
だからかも知れない。
となりに座ることだけでも、私には特別なことで、それがまるで親子の関係のように感じられて、心が満たされていく。
この気持ちを私に気付かせてくれたのは、かけがえのない親友のエストさん。
私はきっと心が狭い。
バルマード様がエストさんを娘同然に可愛がるその姿に、無意識のうちに憧れを抱いてしまっていたのだろう。
自分から距離を置いてしまった私が、いまさらそんな関係になりたいだなんて、ただのわがままでしかない。
私のバルマード様への執着は、きっと一度だけでいいから娘として見て欲しいという願望がそうさせた、強い憧れによるものだ。
それはきっと、誰からもみても滑稽で理解し難いものだろう。
私は今、エストさんの力をお借りして、娘として見てもらえることをこんなにも心地よく感じてしまっている。
この経験があればこれからも、(私はローゼとして過ごしていける)はず。
私とバルマード様の間に、しばしの沈黙が流れる。
「エストちゃん、眠れそうかい?」
「すー、すーっ」
その言葉に甘えて、私はつい寝たふりをしてしまう。
「良かったよ。私はエストちゃんのクマのぬいぐるみになれたようだね」
⋯⋯優しく髪を撫でられるなんて、いつ以来だろう。
とても素敵な思い出ができたけど、私を起こすまいとそっと長椅子から離れようとする、バルマード様の優しさに胸が溢れそうになる。
ただ一つだけ私の気分を害するのが、ドアの隙間から部屋の様子を伺うお母様です。
このままバルマード様をベッドの方に行かせては、勢いに任せてお母様が抱きつこうとしないかしら。
おっちょこちょいだから、十分あり得るのよね。
「⋯⋯ん、バルマード様」
私は起きたフリをして、バルマード様を引き留めた。
今にも袖を噛み締める、お母様の姿が目に浮かぶ。
「いやぁ、起こしてしまったかな、エストちゃん」
「あ、いえ。すごく安らかな気持ちになりました」
私は椅子に寄りかかった身体を起こすと、すぐにバルマード様もとなりに腰掛けてきた。
「そうかい、なら良かったよ! 今夜のことは決して誰にも言わないから、もし家に泊まって辛い夜があったら、いつでも頼ってくれて良いんだからね」
お母様にはしっかり聞こえているようですが、バルマード様の優しさを台無しにしないように、気をつけなくてはいけません。
「はい、ありがとうございました」
私はあえて、月明かりを浴びる位置に座り直してそう微笑んだ。
節操のないお母様に対して、何かしらの仕置きの必要性を感じたからだ。
「何か困ったことがあったら、いつでも言うんだよ」
いけないことだけど、その無限の優しさに少しだけ甘えたくなる。
「バルマード様、一つだけよろしいでしょうか?」
「何だって言ってごらんよ、エストちゃん」
そうやって向けられる温かい笑みは、ウィルに向けるものと変わりないのね。
そんなバルマード様をあまり困らせてはいけないのだけど。
このシチュエーションが、どうしても私を女優にしてしまうの。
「バルマード様、私は来年春に行われる皇室主催のデビュタントで、一人前の淑女になれるでしょうか?」
「それはもちろん間違いないさ! エストちゃんなら、誰もが羨むような立派なレディとして、最高の社交界デビューを果たすに決まっているじゃないか」
ああ、今宵の満月がバルマード様を際立たせ、その麗しい父親像に調子が狂ってしまいそう。
いたずらはいけないとわかっていながらも、私はチラッとベッドの方を見た。
「バルマード様、今宵、私を淑女にして下さいませんか?」
「ブーッ! あ、いや失敬」
ドアの向こうでも、お母様が吹き出していらっしゃいますね。
「わ、私がここでエストちゃんにできることなんて、何もないと思うけど。それに、エストちゃんは十分、立派な淑女だよ」
「申し訳ありません、バルマード様。言い方をわきまえるべきでしたね」
私はゆっくりと長椅子から立ち上がり、ドレスの裾を摘み、バルマード様に一礼する。
「私はただ、バルマード様に一曲お相手して欲しいとそう思いまして。ただ、自分に自信を付けたかったのです」
胸を撫で下ろすように、バルマード様が私の前に立つと、右手を差し出し私を誘う。
「華やかな曲もないけど、それでエストちゃんの自信になるのなら、私はどこでだって踊ってみせるよ」
私はバルマード様の手にそっと指を置くと、リードされるままにダンスが始まる。
巧みなバルマード様のリードで私は月夜に舞う。
「いやー、見事なダンスだね、エストちゃん。それほど華麗に舞うレディを、私は久しくみてはいないよ。流れるように、実に美しいよ」
私の耳には楽団の演奏が煌びやかに聞こえてくる。
そしてここが、宮殿のダンスホールにみえて他ならない。
「バルマード様のリードが、お上手なだけですよ」
「信じられないことに、あの宮殿のホールで踊っている気分になるよ」
「私は見たことがない景色の中にいるようで、素晴らしいホールのシャンデリアが、まるで私たちを祝福するように輝いていますね」
その時、私は確かにエストさんの【時の権能】が働いているのに気が付いた。
二人で踊るこの場所だけに、一年後の宮殿のホールが現れていると悟る。
演奏が終わり、観客から惜しみない拍手が私たちに送られた。
この二人だけのダンスホールが静かに幕を閉じると、バルマード様が瞳を輝かせた。
「最高のダンスだったよ、エストちゃん。これを本番で踊ることになる、栄誉ある男性は本当に幸せものだね!」
「そう言っていただければ、何よりも励みになります。私のわがままに付き合っていただき、心よりお礼を申し上げます」
私はドレスの裾を掴み、この世界で最高の英雄に柔らかに一礼した。
「バルマード様のお休みの時間を、私のために使ってくれたこと、一生忘れません。夢のようなひとときでしたわ」
「はははっ、私もまるで夢でもみている気分になれたよ。本当はコーヒーでも振る舞いたいが、目が冴えてしまうし、レディの美容に夜更かしは良くないからね」
「その真心だけ、胸にしまっておきます」
私は心優しいバルマード様に、今宵の別れを告げる。
部屋を出る間際、お母様を逃がさないように、しっかりと首根っこを掴んで。




