34 ちょっとした試練
「博識な上に魔法も素晴らしいですね。エストさんにお会いすると私も心が癒されるようで良い気分になります。こうやってバルマード様のお屋敷で会えたことを運命のようにも感じます」
レオさんが優しい笑顔でそう話すから、不覚にもドキドキしてしまった。
世を忍ぶために水魔法で変装して見栄えを落とした容姿でも、私には刺激が強すぎる。
軽く舞い上がって言葉が口に出てこないでいると、ローゼさんに冷水を浴びせて欲しいくらいの感じになる。
恋心というより推しが近くにいる感覚に近いんだけど、気付かれないように浅く深呼吸を繰り返して、胸の高鳴りを抑えようと頑張った。
もう会ってしばらく経つんだから、ローゼさんのおまじないにばかりに頼るのも良くない。
私が心の中で気合いを入れ直してると、レオさんは手を振りながら訓練へと行ってしまった。
でも綺麗なお庭よね、良い香りに包まれるのって好き。
リラックス効果なのか、風も心地よくて油断すると眠くなっちゃいそう。
百合の花が咲くテラスに私が座ってると、白地のジャケットを着たウィル君がやってきて、無邪気に隣に腰掛けてきた。
天使みたいな顔でニコッと微笑みかけてくる。
「エストさんを見かけたので寄ってみました」
「う、ウィル君!?」
ウィル君は無防備に距離を詰めてくるから、思わず仰け反ってしまう。
何か声をかけなきゃって焦るけど、ウィル君を見てるだけで頭が真っ白になりそう。
レオさんもだけど、ウィル君は突然来るから余計にドキッとする。
純真無垢な顔で見つめてくるウィル君を、一人で相手にするのは恋愛経験のない私には荷が重い。
ウィル君が私の顔が赤いのを見て、額に手を当てて熱を測ってくるけど、そういう熱じゃないって言いたい。
「調子悪くないですか? 何かあったら僕がおぶって行きますので遠慮なく言ってください」
「だ、大丈夫ですよ。それよりウィル君はこの時間はおひまだったりします?」
「休日なのに家庭教師の勉強で息が詰まっちゃって、逃げ出してきたんです。僕は勉強するよりも剣術や乗馬の方が好きなので、特に数学の勉強は頭がふらふらになっちゃいますね」
ウィル君が今習ってる範囲を教えてくれた。
それが9999x9999って途方もない九九を覚えてる最中なんだって。
私が「その九九を使う機会が本当にあるんです?」って聞いてみると、数学の家庭教師が教えることがなくなって、99の段が終わってから999の段までウィル君が簡単に終わらせると、限界への挑戦で四桁のかけ算になったらしい。
そんな家庭教師いる意味ないじゃん! ウィル君、いくら何でも人が良すぎるよ。
三桁の九九ができるだけでもとんでもないことだよ。
この世界にも電卓はなくても計算する道具はあるよね?
駄菓子屋のおばあちゃんは、そろばん使ってたけど。
「あの、ウィル君に聞いてみたいんですけど、計算する道具ってあったりしますか」
「えっと、魔道具の電卓と、東洋のそろばんがありますよ」
電卓あるんだー。
いや電卓あっても、その家庭教師って相当悪質じゃん!
「ウィル君は本当に良い人ですが、その家庭教師を怒った方がいいです。私がその家庭教師に言いましょうか?」
私は前世では、レジ打ちは得意だったけど数学は苦手だった。
でもお金が大好きだったアホ姫がしっかりそろばんをマスターしてて、三桁のかけ算まで暗算できる。
--学ぶものが何もないと思っていたアホ姫が、唯一私に残してくれた生活スキルが【計算高い】って、乙女にとっては人聞きの悪いものだった⋯⋯。
家庭教師に一言いいたくなった私は、ウィル君にその部屋まで連れて行ってもらった。
ウィル君が勉強してた個室に入ると、眼鏡をかけた意地の悪そうな中年夫人がドンと座り、お高くとまってる。
そしたらウィル君がニコッと笑って、私をその夫人に紹介してくれた。
「先生、ちょっと一言いいですか」
「え、何ですの?」
私は夫人に無意味な九九をやめるよう求めた。
具体的に三桁のかけ算を夫人が解けるのかって質問して、黒板にチョークで「576x728」って書いて見せると夫人は困り果ててあたふたし始めた。
「数学というのは頭の体操ですので、考えることに意味があるのです」
頭の体操とか言う数学教師の言い訳は、前世で聞き飽きてるって!
そう弁明する夫人に、私は無言でチョークを持って「419,328」って書く。
アホ姫の遺産で暗算で三桁のかけ算ができて爽快な気分になるけど、『計算高い女』と思われるのは嫌だったので乱用は避けようと胸に誓った。
「おー、エストさんと僕と答えは同じです」
私が夫人に向かって「もう一問書きましょうか」と迫ると、さすがの夫人もそれ以上言い訳できなかった。
私はバルマード様に報告しないことを条件に、「教えることがなくなったのなら、他の生徒を教えてあげてください」って夫人に伝えた。
こうして数学担当の夫人は、バルマード様に挨拶をして家庭教師の職を辞めることに。
ウィル君が「これでアカデミーの休日を満喫できますっ!」って目を輝かせる。
そしたらウィル君は喜びを身体で表現する性格みたいで、勢いよく抱きつこうとするのを、ギリギリ紙一重でスッとかわした。
あぶなっ!
ウィル君に無邪気に抱きつかれたら、私がどうなるかわかったもんじゃないもの。